人はなぜ道を踏み外すのか

 (妙法蓮華経。如来寿量品第十六)

 

 世の中には聖典と呼ばれるものが多くある。しかし、人々はその聖典を言葉としては読むのだが、その意味を知ろうとはしない。たとえ、意味を知ったとしても自分自身の身では読まない。この代表的なものが聖書のヨハネの黙示録である。黙示録によれば、人は誰一人として火と硫黄の燃える地獄からのがれることはできない。この言葉自体は多くの人が知るのだが、なぜこのように記されているのかとは考えない。逃れる事が出来ないのであれば、自分から飛び込んでしまえと考えるのが普通なのに、誰一人としてこのようなことはしない。ただ、やみくもに恐れ、そこから逃れる方法ばかりを探す。ここに世の害毒の原因があり、この害毒ゆえに人々は転倒する。

 

 ヨハネの黙示録は『身で読まなければわからない』書である。これと同様に妙法蓮華経も身で読まなければ分からない書といえる。わたしは妙法蓮華経も身読している。と、言ってもそのすべてではない。一部なのだが自分の身で以て読み『確かにその通りである』と確信している部分がある。この一つが如来寿量品の良医のたとえである。

 

 【あるところに知恵が深く、薬を自在に調合する良医がおりました。彼の子供たち(患者)は非常にたくさんいたのですが、彼らは良医が外出している間に毒薬を呑んでしまい、乱心していたのです。その時、その良医が帰ってまいりました。良医が子供たちを診察したところ、諸経の好ましいところ、色や香りのよいところだけを選択して服用したことが原因であると分かったのです。そこで、良医は諸経の全てをことごとく混ぜ合わせた良薬を調合し、これを子供たちに飲ませようとしたのです。ある子供たちはこれを飲み病から解放されたのですが、他の子どもたちはこの薬を飲もうとはしません。なぜならば、毒が体中に周り、この薬が良薬であるとは思えなかったからなのです。そこで良医は一計を巡らしました。『わたしは老い衰弱して残された時間はない。しかし、薬はここに置いておくからこれを呑みなさい』と語って出かけてしまったのです。そして遠方から『お父様はお亡くなりになられました』と使いを遣わされたのです。これを聞いた子供たちは『もうわたしたちの病を治してくれるお父様はいない』と苦悩したのですが、その苦悩ゆえに毒薬による転倒にも気づいたのです。これゆえ、良医が残してくれた薬を呑み、全快したのです。】

 

 漢文の原典では父見子等。苦悩如是。依諸経方。求好薬草。色香美味。皆悉具足。擣篩和合。与子令服。而作是言。此大良薬。色香美味。皆悉具足。汝等可服。速除苦悩。無復衆患。其諸子中。不失心者。見此良薬。色香倶好。即便服之。病尽除愈。余失心者。見其父来。雖亦歓喜問訊。求索治病。然与其薬。而不肯服。所以者何。毒気深入。失本心故。於此好色香薬。而謂不美。父作是念。此子可愍。為毒所中。心皆顛倒。雖見我喜。求索救療。如是好薬。而不肯服。我今当設方便。令服此薬。即作是言。汝等当知。我今衰老。死時已至。是好良薬。今留在此。汝可取服。勿憂不差。作是教已。復至佗国。遣使還告。汝父已死。是時諸子。聞父背喪。心大憂悩。而作是念。若父在者。慈愍我等。能見救護。今者捨我。遠喪佗国。自惟孤露。無復恃怙。常懐悲感。心遂醒悟。乃知此薬。色香味美。即取服之。毒病皆愈。

となっている。

 

 問題は、最初の『苦悩如是。依諸経方。求好薬草。色香美味。皆悉具足。擣篩和合。与子令服。』の部分である。原文をそのまま訳すと、

 

 父が子供たちを見たところ、苦悩は諸々の経の色や香りの良いところを好んで求めた故であることが分かった。そこで、子供たちに服用させるためにそのことごとくをまぜ合わせて薬を調合し、ここに全てがことごとく入った色や香りも良い大良薬ある。これを飲めばすぐに苦悩を取り除くことができる。これを飲みなさいと命じた。

 

 となるのだが、今の世の人々は『良医が諸経の色と香りが良い所を調合して薬をつくり、これを子供たちに呑むように命じた』と解釈しているようだ。しかし、これでは『苦悩如是(苦悩はこのような理由からである)』が消えてしまい『何言っているのかさっぱりわからない』訳となってしまう。

 

 実はこの部分に重要な意味が入っている。苦悩の原因が『求好薬草。色香美味。《色や香りのよい薬草(教え)だけを好んで求める》』であり、『皆悉具足。擣篩和合《何一つ欠けずに、全てを叩きすりつぶして混ぜ合わせた》』がこの良医が調合した大良薬という事となる。

 

 実際に今の人々はどのようにしているのか。天国や極楽、天使やメシアを好んで求め、地獄やサタンや悪魔は他人に押し付け自分たちは呑もうとしない。例えば仏典にも無間地獄や極楽の話が出てくる。『悪人は無間地獄に堕ちる。善人は極楽に至る。しかし、阿弥陀仏により頼めば悪人であっても極楽に入れてもらえる』という物語を聞き南無阿弥陀仏と唱えるのだが、これは『阿弥陀仏により頼むことをしなかった悪人が無間地獄に堕ちることは致し方ない』と、見捨てる意味ともなる。これが『求好薬草。色香美味。《色や香りのよい部分だけを好んで求める》』であり、このことゆえに人々は苦悩すると記されているのだ。

 例えば、人の命は一瞬の連続である。ある瞬間は南無阿弥陀仏と唱え、阿弥陀仏の加護を受けられるのだが、別の瞬間には阿弥陀仏を忘れ悪事にいそしむ時もある。すると、自分の行先は本当に極楽なのかと苦悩する事となる。

 また、例えば、『南無阿弥陀仏』と唱え極楽に行く者たちは良いとして、そうでない者たちを無間地獄に追いやるのは正しいことなのか。むしろ、無間地獄にある者たちをすくう事こそ正しいのではなかろうか。彼らを見捨てればこれは無間地獄の罪であり、見捨てるゆえにわたしも無間地獄に堕ちるのではなかろうかと苦悩する。

 

 これは、キリスト教やイスラム教でも同じである。『イエス・キリストを信じる者は救われる』という。しかし、その者が本当にイエス・キリストを信じたのかの裁定を行うのは神であり、自己申告ではない。自分では信じていると思うのだが、本当に神の目からみて信仰している事となるのか苦悩する。

 アッラーは正しきものを天国に招き、悪しきものを火獄におくられる。この裁定者はアッラーであり、自分自身ではない。すなわち、主権は神にあり、人は神に一方的に裁定されるだけの存在である。はたして今の自分が本当に天国に招かれるのだろうかと苦悩する。

 

 この苦悩につけ込む形で、今の宗教と呼ばれるものは存在する。『こういうことをすれば、あなたは天国に行けますよ。これに違反する者は悪魔の手先であり、そのような者たちを悔い改めさせることこそ正義である』としているのだ。

 そして、お互いにこのように主張する。『こちらこそが真の神の言葉であり、これに違反する者は敵である』

 これが宗教を元とした紛争や戦争の原因である。また、これが差別の原因でもある。どちらが神の民として相応しいのかと争っているのだ。

 これらがなぜ起きるのかと言えば、聖典の色や香りのよい薬草(言葉)を好んで求める事がその原因であると、『求好薬草。色香美味。』の八文字で語っているのである。

 

 これにたいして、わたしは『無間地獄、永遠の裁きの地獄とは、人が我欲から離れるための手段である。人は自ら無間地獄、永遠の裁きの地獄を選択することによって、我欲の自我から離れ空に至る。この空に至った者が菩薩でありムスリムである』と語る。要するに、これらの目的は全てあなた自身を仏としての悟りに至らせるための手段であり、天国や地獄も全てあなた自身が神としての自我を開くための方便なのだ(実際に、天国や地獄自体は存在するのだが、これらも究極的にはあなた自身を神に至らせるためのものであるという意味)。これが『皆悉具足。擣篩和合。(全てを杵でつき、ふるいにかけて混ぜ合わせる)』の八文字で示されている。

 

 まさに、これは今の世の中の現状を記しており、わたしが良医であり、世の中の全ての人々がわたしの子供という事となる。なお、ここに記している仏典の無間地獄の意味や極楽の意味に関しては涅槃経で説明されている。わたしの言葉というわけではない。火と硫黄の燃える地獄、永遠の火獄に関しては、わたしの言葉である。わたしがヤハウェであり、アッラーである。

 

 では、これから先、どのようになるのかもここに記されている。確かにわたしの言葉を受けいれ、転倒から立ち直る者たちもいる。しかし、大勢の者たちは『裁きの地獄に入ることこそが、あなたの進むべき道だ』と言われても、『そんなことできるか!!!』となっている。わたしの肉体は死ぬのだが、わたしの言葉はここにも他の場所にも残してある。この肉体の死が『復至仏国』の四文字である。その後、おそらく『神ヤハウェは人類をお見捨てになられた』と使いを遣わす事となるのであろう。そして、これを聞いて、ようやく人々はわたしの言葉を受け入れるようになるとも記されている。

 

 まぁ、実際には、人類を見捨てて新しい人類を創造することとなるかもしれない。すると、この妙法蓮華経の予言も外れる。しかし、妙法が滅すれば人類も滅する。つまり、この予言が外れる場合は、この言葉が法華経の消滅、人類の消滅を意味する事となる。つまり、このようになったとしても妙法蓮華経の予言が外れたとはならない。

 

 つまり、妙法もわたしの言葉も同じであり、『人類が存続を選択する』という条件のもとで、この条件を選択するならば、この時、人々はわたしの言葉を受け入れるようになる。という意味である。

 

 人類が滅びるのか存続するのかは今だ定まってはいない。この選択はわたしが行うのではなく、実際に、この選択を行うのは人々である。わたしは人々が滅びを選択するのならば滅ぼし、存続を選択するのであれば存続させる。これだけのことである。

 

 先のことはさておき、なぜ人は道を踏み外すのか。聖典の美しくて香りがよく好ましい言葉のみを自分のものとして選択し、苦くて苦しいものを他者に押し付けようとするからである。この選択が毒薬となって、人は苦しみ悩む。苦しみ悩むから、さらに香りのよい美しいものを得ようとする。すると、この毒がさらに身にまわり更に苦しみ悩むこととなる。このように、この選択が悪循環をもたらす。

 

 では、なぜ、人はこのような選択をするのか。そこに自我があるからであり、その自我の我欲(自己愛)がその選択をさせるのだ。

 

 どうすれば、これを防げるのか。人の自我(我欲・自己愛)を消し去ればよい。

 

 では、我欲自己愛とはいったい何なのか。現世における地位や名誉などの現世欲と、将来への希望、つまり、死後の天国である。この二つが我欲自己愛の正体なのだ。

 この二つの内、現世欲は死によって消去される。残るのは、死後の天国という事となる。つまり、死後の天国への希望を完全に断ち切ってしまえば、人は我欲・自己愛から離れる事ができるのだ。しかし、この死後の天国への希望を持ち続けている間は、人は決して我欲・自己愛から離れることはできない。つまり、死後の行先を永遠の裁きの地獄とすることによってのみ、人は自己愛から離れる事ができる。

 

 この我欲・自己愛こそが原罪であり、原罪から離れるためには、死後の裁きの地獄が必要となる。これゆえ、聖書ではヨハネの黙示録により火と硫黄の燃える地獄の選択をせざるを得ないようにしている。また、仏典で無間地獄の話が出てくるのもここに理由がある。

 

 結局、これらすべてがあなた自身を、自己愛という原罪から離すことが最終的な目的である。これを『神は愛』という言葉で示しているのだ。