文部科学省御中
わたしが聖書の神ヤハウェである。聖書のヨハネの黙示録には『見よ、わたしは全てのものを新たにする』と記されている。どうするのかと言えば、現代科学の正当性を担保している西洋哲学を完全論破するだけでこれは可能となる。確かに、今、論破しておけば、ゆくゆくは、現代科学の論理体系が完全に崩れ、新しい論理によって世界は新生することになる。これに関しては、無理に急ぐ必要はない。と、言っても、日本の歴史2000年によって、既に検証されている事柄だから、日本人がこれに気づけばさほど長い時間はかからないであろう。
しかし、その弊害が実際に世の中に現れている。そして、それは明らかに、あなた方、文部科学省によって引き起こされている。しかも、その相手が子供たちという未来を創っていくものたち対して。あなた方は一体何をやっているのだ!!
バカ者ども!! 早急にここだけは改善しなさい。
見よ、わたしはすべてのものを新たにする。
わたしは現代社会のすべての根本を変える
皆さま方は、アリストテレスとかソクラテス、ニーチェとかカントとかいう名前を聞いたことがあると思います。西洋哲学で何か難しいことを言っている人と、わたしもごく最近まで思っていました。ところが、『え、そんなことまだ考えているの』となり『そうか、確かにそうなるな』と納得した次第です。彼らは畜生界という一つの常識の中で、『真理とは何か、正しさとは何か』を追求した人々なのです。
十界は、『人の常識や思考は、一つの境地の内側に留まり、そこから出ることはない』というのが基本です。哲学とはこの畜生界という一つの常識の内側で、ギリシャ時代から現代にいたるまで、延々と真理とは何かを追求してきたものなのです。
では、その哲学の結果は、今、どのような形となっているのでしょうか。今、大学でも高校でも、文系とか理系とか言いますよね。その、ほぼすべての文系と理系の科目の根本原理が哲学なのです。このため、もし、その根本の哲学が打ち破れてしまったら、現代の文系の科目も、理系の科目も、その理論的な正当性が無くなってしまうのです。また、これは、現代の社会システムの基ともなっているのです。つまり、今、正しいとされていることのほとんど全てが、論理崩壊してしまうのです。
戦争で人間社会が壊れるわけではありませんが、論理的に破綻したものをいくら追求しても無駄ですよね。わたしが西洋哲学を論理破綻させるという事は、今の文明の根本的な正当性を壊すと言う事なのです。大元の正当性が無くなると、今の文明そのものがここで止まってしまう。つまり、今の文明すべてが昔話となってしまうのです。
では、西洋哲学の実体を説明いたしましょう。
畜生界の人々から見れば、『人間とは自分の欲望をとことん叶えようとする生き物で、生涯、その事実は変わらない』というものになります。これ、性悪説でしょ。ここから、全ての現代学問が始まっているのです。
『どうして、人は際限なく求めるのか』という命題に対して、『人とは何か』を追求すると、『物質としての人間』と『欲望』という二つの側面があるということになります。
物質としての見方から、物事を追求するのが自然科学です。数学や物理学も、化学やコンピューターも、医学さえも、この考え方が根本になってできている学問なのです。物質においては1+1=2となります。全てを物質として解明しようとすれば、全ては1+1=2という原則から外れる事はなくなります。このため、数学を基礎としてここから計算を始めるのですが、どうしても計算しきれない。未来が読めないのです。そこで、何やら難しげな言い訳をしているのですが、結局、『ミネルバのフクロウは夕暮れに飛ぶ(何が正しいのかは物事が終わるころになってようやく解明できる)』ですよ。つまり、終わらなきゃわからないと開き直っているのです。医学でも、おそらく、人の無限の欲望は脳のどこから出てくるのかなどと考えているはず。その箇所を特定して、そこに働く薬を開発できれば、良い人間社会ができると考えているのじゃないかな。これが唯物論が発展した姿です。
欲望は変わらないのだから、それを社会的に制御しなくてはならないというところから始まっているのが文系科目です。ここから、政治学や法学、教育学や経済学などが出てくるのです。これが唯心論が発展した姿ということになります。
どうでしょうか。数学も物理学も化学もコンピューターや医学も、教育学も法学も政治学も経済学も、その大元をたどれば西洋哲学という事になります。つまり、これらの全ての正しさを保証しているものが西洋哲学であり、その根本の西洋哲学を論破されると、これらのものすべての正当性がなくなってしまうのです。
『論破する』というと難しいと感じるかもしれませんが、日本では、欧米で『これは正しい。これは間違っている』と延々と教えていることを、たった一言で教えています。しかも、小学校にあがる前の幼児に。
『自分がされて嫌なことは、人にしてはいけません。』とね。
『こういうことはしてはいけません。こういうことをしなさい』と数限りなく教えられても、それを全て覚える事は不可能です。でも、そのすべてがこの一言に収まってしまう。
倫理学者が、日本の三歳児に簡単に論破されてしまうのです。
なぜ、三歳児が倫理学者を論破できるのかと言えば、思考の基礎となる位置が、欧米と日本では全く違うからです。これは基礎境地が変われば、幼児でも大学者に勝るようになるという実例なのです。
わたしはどのように言っているのかと言えば、『人の常識、人がよりどころとする考え方の基本には、十種類がある』と言っているのです。そして、西洋哲学は、その十種類の内の一つの『畜生界思考』の範囲内での真理だと言っているのです。つまり、常識が変われば、真理ではなくなる。しかも、この畜生界思考とは、十種類の内の下から三番目でしかないと言っているのです。
今まで、一生懸命積み上げてきたもの。これゆえに我々は文明人だと思ってきたものが、全体の十分の一でしかなく、しかも、下の方でしかないと証明されてしまうというわけです。
上位のものであれば、誇れるかもしれませんが、下位の、しかも、三悪道の一つ。この考え方はしてはいけないとされているもの一つなのです。これを知ったら、どうなるのでしょうか。全部壊れてしまいます。今まで、『これが文明だ』として、一生懸命積み上げてきたものが、ガラガラと音を立てて崩れてしまうのです。
これが、【見よ、わたしはすべてのものを新たにする】ということなのです。
実際はどのように変わるのか
(例・思考の基本を人界思考とした場合)
西洋哲学をもととする自然科学は、『人が悪であるのは致し方ない。ならば、そのどこに悪があるのかを突き止めてそこを取り去れば善になる』というところから始まっています。善の部分と悪の部分を見極め、善の部分は残し悪の部分は取り去るという考え方をしているのです。では、人界思考ではどのようになるのでしょうか。『すべてはバランスであり、そのバランスを保つようにすることが正しい』という考え方となるのです。部品の良しあしが絶対ではなく、その相性に応じて、良くもなったり悪くもなったりするという具合に思考の根本が変わるのです。人の体も、自然界もバランスが大事で、どのようにすればそのバランスが保てるかという具合に変わるのです。人間社会も同じで、バランスを取るというところに根本が移り、悪を徹底的に排除するとはならないのです。日本人なら、『何、当たり前のこと言っているんだ』となりますよね。
では、これは学問として体系づけられているのでしょうか。応用として変えているだけで、根本的には体系が整っていないのではありませんか。つまり、西洋の考え方をそのまま持ってきて使おうとすれば、当然、ここから不具合が生じます。基本が畜生界から人界に変わったのだから、全てをその本質に合わせて変えていかなくてはならないのに、日本人は、誰もそのようにしようとはしない。
なぜでしょうか。この理由は簡単で、日本人は外国人も同じと考えるからです。別の考え方をしているなどとは思ってもみない。同じなら、外国のものそのままでも良いのじゃないかと考える。このため、部分修正して取り込んでしまう。自分たちに合わない部分だけ変えれば使えるとなるのです。
このようにしてどんどん外国のものも取り込んできて、自分たちに合わせて使っているのが日本なのです。これが日本文化なのですが、これを外国の人にどのように説明すればよいのでしょうか。根本が違うのだから本質的には全く違うものなのに、今のままでは、説明のしようがない。
では、本質が全く別のものだと知ったなら、どのようになっていくでしょうか。全ての論理を根本から組みなおすようになっていくのです。しかし、これはわたしの仕事ではありません。これが皆さま方の仕事なのです。今の学問体系を根本的にすべて変えるのです。簡単ではありませんが、やりがいがあるとは思いませんか。そして、これが【今】から始まる新しい世界なのです。
繰り返しますが、今までの全ては過去の遺物となります。人々は『昔はこんなこと考えていた』と、過去の歴史として語り、過去の歴史として研究するようになるのです。
当然、将来的には、天界思考、声聞界思考、縁覚界思考、菩薩界思考ですべての学問体系を考える必要があるとは思います。これは、未来の人に任せれば良いのですが、今の学問体系の少なくとも数倍の学問体系ができることとなる。そして、これらの体系を縦に結ぶ体系も当然存在するでしょう。わたしが、『現代は幼稚園だ。まだ小学生にもなっていない』と語るのも理解できるのではないでしょうか。
現在、性悪説と性善説が横並びの二説のように言われています。しかし、実際は畜生界の思考をすれば必然的に性悪説となり、人界の思考をすれば必然的に性善説となるのです。これは単に考え方が違うのではなく、仏教でも、聖書でも、人と獣の違いなのです。
現実に、今の日本では、西洋思想が入ってきてから間がないせいか、この基本境地の違うものをそのまま使うことにより、諸々の問題も実際に起きているのです。その実例をいくつかあげてみましょう。
現実の弊害
欧米社会は畜生界社会、これに対して日本社会は人界社会なのです。社会の根本思想、つまり常識が全く異なる為に、欧米のものをそのまま取り入れると、色々なところでひずみが生まれます。そのひずみより生まれている問題を少しとり上げてみましょう。
なぜ、いじめが起きるのか
西洋の考え方をそのまま持ってきたものを教育の基本とすると、教育現場は、上下思考である畜生界思考になります。学校という閉鎖的な社会の内側で、子供たちは欲望をむき出しにすることが人間として当たり前だと教わるわけです。教える教材が、そのような思考から書かれているのですから当然こうなります。子供たちは正直ですから、教えられた通りにします。学校では我欲をむき出しにしろと教えられる。我欲をむき出しにすると、それがいじめとなる。普通の社会では平等思考、学校では上下思考、どうすれば良いのとなります。学校で教えられている通りにすればいじめとなり、それが嫌だとなれば、引きこもるしかない。
これらをすべて解消することは可能ですが、そのためには、まず、教材全てを、基本思考を人界思考にして書き換えなくてはなりません。また、教師を世の中の平均レベル、つまり、平等思考にしなくてはなりません。
要するに、今の教育システムそのものがいじめの原因であり、引きこもりの原因なのです。これは学校だけではなく、社会全体にも悪影響を与えます。誰でも分かりそうなのに、どうして根本の教育システムに手を付けないのか。おそらく、教育システムを司っている官僚たちが分かっていないのでしょう。そして、いじめるものたちが悪い、引きこもりは本人の責任、と子供たちにその責任を押し付けて、責任逃れしているのではないのかな。
と、言っても、教育システムを完全に欧米スタイルにしたのはGHQなのかもしれませんね。すると、今の官僚には難しいか・・・・でも、難しいと言っている場合ではありません。実際に子供たちの間で大問題が発生しているのですから。とにかく、問題の根本はここにあることだけは明白です。
では、具体的にはこれはどういうことなのでしょうか。畜生界思考では、正しいか間違いかの二択となります。〇か×しかないのです。これに対して人界思考で正しいのは、協調や調和です。〇か×の二択は間違いということになります。確かに、初等段階では、これが正しい、これが間違いと教える必要がある場合もあるでしょう。しかし、全てをこのようにしてしまうと、教わる子供たちは、全ては〇か×なんだと覚えてしまう。すると、当然、人にも〇×をつける・・・・いじめの完成です。
また、科目にも色々な弊害が出てくる。例えば国語と言う科目がある。国語の最先端は教えている教師側ではなく、習っている子供たちの方なのです。これに〇×をつける。すると、最先端は駄目、昔が正しいと教えていることになる。何かおかしいでしょ。数学にしても同じ。子供は興味をもてば、コンピュータープログラムぐらいなら簡単に覚えて応用してしまう。すると、何が正しいのか。興味を持たせるという事が〇で、〇か×で教える事が×となる。難解な事を教えるのではなく、興味を持たせることを意図とした教材にした方がはるかに良いと思うし、習う方も面白い。興味を持った子供は、調べる方法を教えておけば勝手に調べ勝手に覚える。興味を持って調べ始めた子供はモンスターですよ。世界の最先端まですぐに行ってしまう。それを教師が教える??もう無理でしょう。すぐについていけなくなる。教師の役割は、そういう子供にエリート意識を持たせないようにしていくこと。そういう子は自分は偉いと思いやすいけど、みんな同じなんだという意識を持つようにしていかないと、必ずつまずくことになる。
確かに社会全体が畜生界思考なら、子供を〇×で枠にはめる必要があるかもしれません。社会に出ると×の誘惑ばかりとなるから、何が悪いのかしっかり教えなくては駄目となるのも理解できます。でも、人界思考の社会なら、社会全体が〇なのだから、逆に、枠を取り払って未来を創るのは君たちなんだと教えていけばよい。
極端なことを言えば、学校がネットやゲームよりも面白くなれば、子供たちは学校にはまります。ネットやゲームを選択するのか、学校を選択するのか。この選択権は子供たちにあるのであって、この選択に負けるようならば学校は教え方をもっともっと工夫していかなくてはならない。
なぜ、日本は経済発展しないのか
経済とは人の欲望を数値化したものです。その欲望の種類には、地獄界の欲望もあれば、餓鬼界の欲望もある。畜生界の欲望もあれば、人界の欲望もある。全ての欲望が、経済という指標の許では数値化されます。例えば、社会全体を破壊したいと欲望が地獄界の欲望となります。すると、その破壊の道具が必要となり、その破壊の道具を手に入れるのにお金が必要となります。この段階でお金という価値観が生まれ、これが経済となるのです。例えば、ルールそのものを決める権利を奪おうというのが餓鬼界の欲望となります。相手をとことんいたぶり奴隷としようとするのです。このためには相手よりも強く勝っていなくてはなりません。この相手よりも強く勝るために必要なものがお金ということになります。畜生界では、人の欲望がそのままお金に換算されるのが分かると思います。ところが人界思考になると、このような欲望そのものが少なくなってしまいます。すると、このままでは経済発展はしません。では、人界では欲望が無くなるのでしょうか。そうではありません『もっと、良い社会を創りたい』というところで欲望が働くのです。これは子供も大人も同じです。『何々しなさい』と、枠で縛られている状態では何かしたいとは思いません。全員が横並びで良いのですから、無理に見栄をはる必要もないので、お金は貯めておこうと貯金にまわすのです。人界思考では全体をもっとよくしようと考えるときに、もっと良くしたいと言う欲望が生まれるのですから、枠を取り払って、自由にして良いとすることにより、人界社会は経済を含めた全てが発展するのです。
例えば『他の人のためになるように皆さま自身で考えて、自由に使ってください。』と、毎年、一人当たり百万円程度ずつ渡したら、その分だけ社会は良くなり経済も発展することになります。人界社会では、『このように使え』と使途を特定すると逆効果となります。人にやりたいと思わせる事が正解で、それに〇×をつける事が間違いなのです。このように使えと、用途を指定することは、この使い方が正しいと押し付ける形となるので、人界思考の社会では、人の生気を削ぐことにつながるのです。また、この金額が多すぎても人は負担に感じますので、どのくらいが良いのかは、改めて計算する必要があります。
計画を出せ、報告を出せは、人界思考の人々が相手の場合は完全に逆効果となります。このような条件で乗ってくるのは、畜生界、餓鬼界の人々です。彼らから見れば、お金を手に入れるのに、それくらいは当たり前なのです。しかし、人界思考の人は、『別にやる必要ないからやめ』となるのです。
畜生界・餓鬼界・地獄界思考の人々に自由にして良いとすると世の中は無茶苦茶になります。ところが、人界思考以上の人々に、自由にして良いとすると世の中は良くなっていくのです。
前と同じものですが、これにマルクス・ガブリエルの文書を一部修正の上添付して、これを文部科学大臣あてに送付しました。