第七章(ヨハネの黙示録四章、五章)

 

 

 さて、ここまでの話は、ヤハウェからの視点である。この視点を人に変えると、どうなるであろうか。『善行を積め、善行を積め』とさんざん言われ、言われたとおりに善行を積んだら、その見返りが天国ではなく、裁きの地獄となる。それでも、『神は愛である。これを信じよ。』と言われ、その通りに信じた者だけが勝利者となると言う話である。

 

 この各々の段階で、人は葛藤する。最初の葛藤は、『善行の善とは何か。』という一番本質的な問題である。『人を殺すな』が善であるならば、人殺しをしたモーセがなぜ選ばれたのかという問題となり、『姦淫するな』が善であるならば、ロトの娘が父親と交わり子孫を残したのにお咎めなしとなっているのはなぜかという問題となる。このように、善とは何かを突き詰めていくと、天地の創造主の御心が善であり、その天地の創造主を奉る天使や悪魔や御使いたちが善であり、人々が言いつけ通りにしているかどうかを見張る全世界を遣わされた眼が善であり、創造主と共に御座に着いているイエスが善であるとなる。この善とは何か、善行とは何かを書き示しているのが、ヨハネの黙示録四章、五章である。

 

 実は、この天地の創造主の御心は、ヨハネの黙示録二章、三章にも記されている。『人に勝利を得させて、共に玉座に着かせたい』のだ。ここが分からないと、意味不明のおどろおどろしい物語となってしまう。

 

 実は、これと全く同じものが、日蓮如来のご本尊という形で示されている。中央にある南無妙法蓮華経は、時によってその意味が変わる。正法、像法時代であれば、『わたしは、数々の仏のもとで修業し、後々必ず仏となります』という意味であるが、末法時代には、人々が修行するための仏が存在しない。仏のもとで修業ができないから末法というのだ。その末法に現れるとされているのが地湧の菩薩であるが、仏としての特質を持っている。つまり、末法の南無妙法蓮華経は、『我仏なり』と宣言する意味となる。末法に於いては、仏でない者を仏とする事はできない。本来、仏である者たちに仏である事を思い出させる事しかできないから、菩薩という呼び名となるのだ。

 

 ヨハネの黙示録には1260年までと有効期限が記されている。これは、ヨハネの黙示録では何が善なのかが誰にも分からなく時が来るからで、これは人の性質が変わる事を意味する。末法時代に入るからである。現実に、キリスト教の教義ではイエスを信じる事が善であるとしているのだが、その肝心のイエスの心がどこにあるのかが分からなくなっている。この結果、イエスならば決してしないであろう事を、イエスの名で教会が行ってきたのだ。

 

 わたしが語っているのは大我論である。全ての人、一人ひとりが天地の創造主ヤハウェであり、一人ひとりがその創造主のひとり子なのだ。これを思い出せと語っているのだ。また、あなた方の内には、果たして自分が本当に大我意識に至れるのかと不安を覚える方々もいるであろう。確かに、全人類の確率から言えば、このようになれる者はほとんどいない。しかし、これを読んでいるあなたは確実になれる。わたしが最初に記したはずである。わたしがあなたを選ぶから、あなたがこれを読む事ができると。これができない者は、ここまで読み進める事自体ができない。これゆえ、あなたは必ず大我意識に至る。確率100パーセントなのだ。