第五章
第七段階の学びからは、不退転の位置となる。個人であれ、社会であれ、ここから獣に戻る事はあり得ない。では何を学ぶのか。何を学べば人は獣に戻らなくなるのか。それが知恵である。たとえば、あなたがこの書を読んでも、すぐに知恵に至れるわけではない。しかし、この書を学ぶ事により、徐々に獣に戻れなくなっていく。これは、この書が、獣から人へ、人からヤハウェへの、道筋を示しているからである。獣では、これを知ることも、学ぶ事もできない書だからである。知恵に依って記されているのは、他にも数多くある。なぜならば、知恵に至れば誰でも、この程度のものは書けるからである。何も特別なことを言っているわけでもなければ、わたしが特別というわけでもないのだ。
例えば、コーランも本来はこの位置の言葉である。コーランを真剣に学べば、人は空に至るはずなのだ。『人は何一つ定める事ができない』から、『なぜなのか』となり、『本質が空なのだ』となっていくはずなのだ。しかし、誰もそこまでコーランを極めようとはしなかった。極める代わりに、神のように祭り上げてしまったのだ。
第八段階の悟りからは実践が伴う。悟りは、自分の自我を、裁きの地獄や阿鼻獄や火と硫黄の燃える地獄によって消し去る事から始まる。具体的に言えば、自分が死後、裁きの地獄に堕ちる事を了承するのだ。宗教を否定しなければ、意識する意識しないにかかわらず、ほとんどの人の自我の究極の目標が死後の天国となる。その状態で、行先を裁きの地獄に変えると、自我の存在意義がそのものが消失してしまう。自我が存在意義を失ったからと言って、その人自身が消え去るわけではない。それまでの自我とは別の視点から物事を観察するようになる。この自分であるが自分ではない状態に至る事を悟りと呼ぶ。ヤハウェとしては、その時、人に大我から物事を見るようになって欲しい。小我から大我へと自我の意識を変えて欲しいから、このような事を行うのだ。
これとよく似た現象は人間社会でよく起こる。自分が目標としてきた事が完全に閉ざされた時、人は生きる屍のような状況になる。この状況から、人は徐々に脱していくのだが、その時、人は何かの真理に到達する。これも悟りである。
第九段階の奉仕は、第八段階の悟りの後の状態を指す。第八段階が小我の消滅に依り大我意識の目覚めを促すのに対して、第九段階は、小我意識そのものを再構築する段階を示す。この段階にある者を広義のムスリム、菩薩と呼ぶ。もし、その状態で大我意識が表面に出て来るならばこれが狭義のムスリム、真の菩薩となる。
狭義であれ広義であれ、ムスリム(菩薩)は、火と硫黄の燃える池により、自らの小我意識を一旦消滅させた者である。これゆえ、火獄を恐れるムスリムはあり得ないし、地獄を恐れる菩薩もあり得ない。これゆえ、火獄を恐れるムスリムは偽ムスリム、地獄を恐れる菩薩は偽菩薩と簡単に判別できる。
あなたの意識社会は、あなたの大我、あなたの小我、そして、あなた以外の全ての他者の三つの意識で構成されている。その意識が肉体という衣をまとっているのが、あなたなのだ。人が生まれた状態では、小我意識そのものが存在しない。小我意識は、大我意識と他者の意識と肉体(動物本能)によって、徐々に形成されていくのだが、赤ん坊は、小我意識の形成段階で、大我意識を消失させていく。このため、赤ん坊の小我意識を形成するのは周囲の環境と、動物本能の二種類となる。また、人は成長する過程において、小我意識の内に、周囲の環境意識を次々と取り込んでいく。これが、人は周囲の環境によりどのようにでも変化するという事である。
ではわたしは何を目指しているのか。目標としては、小我意識を大我意識を主体としたものに変更したいのだ。しかし単純に小我意識そのものを消してしまえば、人は動物本能のままの存在となってしまう。これゆえ、一旦、意識を小我から大我に移し、それを小我に写すという手順を取る必要がある。
このために、死後の世界を天国と地獄に分類し、善を行えば天国、悪を行えば地獄という事にしたのだ。すると、人は小我の目標を天国に定め、その天国に行くための善行を行うようになる。善行とは動物本能からの離脱である。善行を極めた状態、つまり、動物本能から離脱した状態で、小我意識を消せば、人の意識は大我に移る可能性がある。この状態から小我意識を再構築していけば、大我意識を持った小我が誕生する可能性もある。
この全行程が宗教と呼ばれるものとなる。言ってみれば、この一連の動きが人のリセットボタンのようなものなのだ。だからと言って、大我に意識が必ず移るわけではない。一旦移ったとしても、それを小我意識の形成段階で失ってしまう可能性の方がはるかに高いのだ。その場合でも、肉体と自己意識を継続させたままで、もう一度最初からやり直す事ができるのだ。先の失敗を改める事ぐらいは可能であろう。
ヨハネの黙示録は最後のリセットボタンのようなものである。さんざんリセットの準備をしてきて、リセットボタンを押さなければ、準備の意味などなくなってしまう。
もし、大我意識を小我に写せたならば、その小我意識は、大我意識、周囲の環境、動物本能の三種類によって構成される事となる。この段階に至るならば、一旦悪として排斥した動物本能も捨てる必要などない。この全行程が分かれば、これは誰でも分かるはずだ。
さて、この九種類は全て小我意識に属する。大我意識はどこにあるのか。わたしがどのような位置から社会を見、歴史を見、科学を見ているのかが分かるだろうか。よく『斜め上から物事を見る』と言っているのを聞くが、わたしの視点はそんなところにはない。真上のはるか上空から全てを見、そこから大きく物事を動かしているのだ。これが大我意識であり、ヤハウェの視点であり、仏界なのだ。私はあなた方すべてをここに導き入れようとしているのであって、天国も地獄も、あなた自身をここに導き入れるための方便なのだ。このように語ると、嘘つきと言う人もいよう。しかし、あなた方も普通に行っているではないか。例えば鉄を成型するために鋳型を創り、そこに鉄を溶かして流し込む。鋳型は鉄ではないから偽であり不要であると言っているのと同じなのだ。また、鋳型こそすべてであり、神聖にして犯すべからざるものであると語っているのと同じなのだ。
この位置は九分類には入らない。これを読むあなた方も、この十番目の位置を知る事となる。この十番目の視点を知る事により、物事は明確に見えるようになる。