ヨシュアが考える理想郷
また、マグダラのマリアからメールが入ったので、もうしばらくこの話を続けよう。
ヨシュアの言葉に入っていたのは、キリスト教が中心となって、仏教の法理により社会がまとまる理想郷であった。ヨシュアはこの理想郷を創ろうとして、わたしに言葉をかけてきたのだ。
確かに、このようにすれば、社会も良くなるし、仏教もキリスト教も互いに補填しあう理想郷ができる。彼の言葉には確かにその思念が入っていた。だから、わたしもこの話に乗ったのだ。
そこで、わたしはキリスト教の現状を調べてみた。しかし・・・・とてもとても、学ぶようなものはなく、論もへったくれもない悲惨な状況でしかなかったのだ。
聖書を平気で否定しながら、自分が否定していることにも気づかない・・・・これで司祭だ???牧師だ???
イエス・キリストの名を出せば、何でも許されるという傲慢さ。実際にあったのは、イエス・キリストの名を出して『皆の者はわたしを敬え』としたいだけの司祭や牧師たち。
もし、彼らの元に、本物のキリストが現れたら、彼らはこう語るであろう。
「我々が信仰しているのは我々のイエス・キリストであり、お前ではない。
邪魔だから、どこかに行け。」
わたしはキリスト教の現状を知らなすぎた。彼らの思考は十字軍遠征の時と同じであった。アメリカ大陸で虐殺と略奪を繰り返してきた時と同じであった。原爆を落とし、女子供を焼き殺し、それでも、我々は何も間違っていないとしてきた時と全く同じ考え方をしていたのだ。
今、世界の潮流は人権保護である。当然、彼らも過去を反省し、過去の反省に基づき変革していると考えていたのだ。しかし、実際は何も変わっていなかった。
これ以上、このようなことを繰り返せば、人々はキリスト教に見切りをつける。信仰を捨て去ってしまうのだ。この末期的な現状を変えるのには、仏教の法理を取り入れればよいと言うのは、わたしも同意見である。
まぁ、わたし自身、実際に動いてみてようやくこの現状を知ったのだ。知ると同時に、もう一つ分かったことがある。それは、ヨシュアが仏教を知らないということである。
例えば、聖書では『イエス・キリストが人々の罪を赦す』という言葉がある。しかし、誰も、その聖書の言葉を引き『わたしは人の罪を赦す』と言うことはできない。しかし、仏教では、仏様の言葉を自分の言葉として引用することも可能なのだ。ここには何の問題もない。この法理を【依法不依人】と言う。これに対して、聖書は【依人(神)不依法】となる。これが、仏教とキリスト教の最大の違いなのだ。
多分、ヨシュアは、わたしを仏法の法華経や涅槃経の保持者として見ている。仏法を聖書の法と同じと考えるから、保持者であるわたししか説けないと言う考え方となる。ここから【お前がやるしかないだろ】となり、【これがお前の使命なのだからやれ】となる。
ところが実際には、『説く人は誰でも良い』これが仏教の基本だから、わたしがやる必要などどこにもない。仏教は人を選ばないのだ。今、司祭となっている人や牧師となっている人が仏教の経典を語っても、わたしが語っても、仏教的には全く同じなのだ。
キリスト教の中に仏教の考え方を取り入れれば、ヨシュアの考える理想郷は出現する。本当に欲しいのは、この理想郷なのだから、わたしはローマ教皇宛てに、仏教の考え方を聖書に取り入れる方法を書き送ったのだ。
つまり、ここまでの一連の行動が、ヨシュアへの返答なのだ。
まあ、皆さまには喧嘩しているように見えるかもしれないが、実際には会話のようなものでしかない。最後にのっている、わたしから、ヨシュアへの伝言は、実際にはマグダラのマリアへのメールである。本当にヨシュアに伝えれば、彼女に意味が分かると思い記した。これは、最初のヨシュアからの言伝の上に、彼女が変な気を乗せていたからであり、これを『何とかしてくれ』と言うヨシュアへの依頼なのだ。