善男子よ、わたしは一闡提は常に沈むと語りますが、
これは、沈んで浮かび上がらない者を一闡提と呼ぶと言う言い方が正確なのです。
人は、自分は常に沈む一闡提ではない者としようとして、
修行し、布施をし、戒を守り、善を行おうとします。
しかし、このようなことを行ったとしても、沈む者は沈むのです。
善男子よ、善事を行ったとしても悪果を得る場合が四種あります。
この第一は、他の者に勝ることを目的として経典を読誦する。
第二は、自分の利養のために禁戒を受持する。
第三は、他人を自分の味方に付けるために布施を行う。
第四は、想わざるとは何か、想わざることを想わざるとは何かと思惟する。
このようなことを行えば、悪報を受けることとなるのです。
これらの四つを習い修める者が、沈んだり浮かび上がったりする者なのです。
なぜ沈むのか。
自分は正しいと思うからなのです。
なぜ、浮かび上がるのか。
そこに明かりを見るからです。
なぜ明かりが見えるのか。
明かりとは戒、定、そして布施と聞くからです。
なぜ、また沈んでしまうのか。
自分の内にある邪見を増長させ慢心するからです。
ですから、わたしはこのように語っているのです。
『人々は諸々の有を楽しむが有は善業も悪業も造る。
人はこれにより迷い涅槃道を見失う。
しばらく出てもまた還っていくのだ。
これゆえ黒い暗闇の生死の海をさまようこととなる。
一旦は解脱を得たとしても、すぐに様々な煩悩に悩まされる。
これゆえ、人は悪果報を受ける道に還っていく。
しばしは出ても、すぐに沈んでしまうのだ。』
善男子よ、光を見て水面から上に飛び上がる大魚は、また、すぐに沈んでしまいます。
結局、大魚で譬えられる人は、涅槃の大河に沈んでしまうのです。
他に勝ることを目的とする学習、
自利のための各種の戒、
賛同を目的とする布施。
これらが、涅槃の大河に沈む原因なのです。
この大涅槃経の話を聞き、これを信じるならば、そこから逃れることが出来ます。
どうしてなのか。
この経典の言葉が、悪法から遠く離れ、善法を習い修める方法だからです。
これは、沈んで浮かび上がらない者を一闡提と呼ぶと言う言い方が正確なのです。
人は、自分は常に沈む一闡提ではない者としようとして、
修行し、布施をし、戒を守り、善を行おうとします。
しかし、このようなことを行ったとしても、沈む者は沈むのです。
善男子よ、善事を行ったとしても悪果を得る場合が四種あります。
この第一は、他の者に勝ることを目的として経典を読誦する。
第二は、自分の利養のために禁戒を受持する。
第三は、他人を自分の味方に付けるために布施を行う。
第四は、想わざるとは何か、想わざることを想わざるとは何かと思惟する。
このようなことを行えば、悪報を受けることとなるのです。
これらの四つを習い修める者が、沈んだり浮かび上がったりする者なのです。
なぜ沈むのか。
自分は正しいと思うからなのです。
なぜ、浮かび上がるのか。
そこに明かりを見るからです。
なぜ明かりが見えるのか。
明かりとは戒、定、そして布施と聞くからです。
なぜ、また沈んでしまうのか。
自分の内にある邪見を増長させ慢心するからです。
ですから、わたしはこのように語っているのです。
『人々は諸々の有を楽しむが有は善業も悪業も造る。
人はこれにより迷い涅槃道を見失う。
しばらく出てもまた還っていくのだ。
これゆえ黒い暗闇の生死の海をさまようこととなる。
一旦は解脱を得たとしても、すぐに様々な煩悩に悩まされる。
これゆえ、人は悪果報を受ける道に還っていく。
しばしは出ても、すぐに沈んでしまうのだ。』
善男子よ、光を見て水面から上に飛び上がる大魚は、また、すぐに沈んでしまいます。
結局、大魚で譬えられる人は、涅槃の大河に沈んでしまうのです。
他に勝ることを目的とする学習、
自利のための各種の戒、
賛同を目的とする布施。
これらが、涅槃の大河に沈む原因なのです。
この大涅槃経の話を聞き、これを信じるならば、そこから逃れることが出来ます。
どうしてなのか。
この経典の言葉が、悪法から遠く離れ、善法を習い修める方法だからです。