また、涅槃とは常楽我浄であると語る者もいれば、涅槃とは最終的な結果であると語る者もいるでしょう。
これは、数えきれないほどいろいろな法を組み合わせれば涅槃と言う結果となると言うのです。
譬えれば、織物を縫い合わせれば衣となります。
衣が壊れるとは、もはや着れない状態を指すのであり、
衣とならない別の法がなくなった状態こそが涅槃の体であると語るのです。
善男子よ、このような状態となった時、わたしの弟子と名乗る者は非常に多いのですが、
ほとんどが邪説を唱える者であり、正しく説く者は極わずかなのです。
正法を受けるものは一握りで、ほとんどが邪法を受けるのです。
仏語を受ける者はほんのわずかで、大多数が魔語を受けるのです。
善男子よ、その時、ある国に二人の仏弟子と名乗る者が現れます。
第一の者は阿羅漢であり、第二の者が破戒です。
破戒の弟子に従う人々は五百名、阿羅漢の弟子に従う人々は百名です。
破戒の者はこのように説きます。
『如来が涅槃に臨まれる時、わたしは如来に親近しこのように聞きました。
仏さまが定められたのは究極的に四重の禁戒(淫・殺・盗・妄語を禁止すること)なのです。
この四重の法を守れば無罪となるのです。
わたしは今、これらを守ってきた故に阿羅漢となり四無碍の智を得たのです。
また、阿羅漢となった後で、この四重の禁戒(淫・殺・盗・妄語を禁止すること)を犯せば、
これらを犯す事が罪となるのですから、阿羅漢とは呼べなくなる。
つまり、阿羅漢とはこれらを犯す事が出来ない者となるのです。
お釈迦さまは、これらを定められ、最後まで守られた。
涅槃とは、この禁戒からの解放を意味するのです。』
阿羅漢の比丘はこのように語ります。
『長老よ、あなたの説かれることは如来の涅槃の意味ではありません。
わたしは如来とは常であり決して変化しないもの、如来の在世に於いても涅槃後に於いても、
そのような四重の禁戒を犯したかどうか、それが罪となるかどうかとは一切関係ありません。
実際に、阿羅漢であったとしても、その四重の禁戒を犯す事は可能です。
もし、あなたのおっしゃる通りなら、その禁戒を守り続けることにより悟りに至るのですから、
少しでも悟りを持つ者であれば禁戒を犯す事などできなくなる。
阿羅漢となれば、この禁戒を犯すことが不可能となるではありませんか。
でも、実際には、犯そうと思えば犯せないことはない。
ここに矛盾がある。
わたしは、阿羅漢とは阿羅漢となろうと言う心を超越した状態だと考えます。
ただ善法のみを説き、これが悪いあれが悪いと説かない状態が阿羅漢となるのです。
あなたの語られたことは、非法でしかない。
十二部経をごらんなさい。
【知、無知、長短、長老、若輩などの区別を定めるのは阿羅漢ではない】
と定められているではありませんか。』
善男子よ、その時、破戒の比丘たちのみならず、阿羅漢の比丘たちの命も共に絶たれるのです。
善男子よ、この時、魔王は、この二種類の比丘たちの心にお互いを憎み合う心を生じさせ、
この六百の比丘たちは、言い争い、傷つけあうようになるのです。
その時、双方の人々は各々このように語る事になるのです。
『悲しい事に仏法は滅してしまった。』
しかし、わたしの正法は実は不滅なのです。
その時、その国に十二万の大菩薩がわが法を持って現れるのです。
このように誰が、仏法は滅したと語った時、
全世界のどこにもわたしの弟子が一人もいなくなった時、
第六天の魔王が大火で以て、すべての経典を焼き尽くしそうとしたときは、
その中にあるほんのわずかなものであっても、
それらを盗み出し、集めて、バラモンたちに預けておきなさい。
これは、諸々の小菩薩たちは、仏がいらっしゃらなければ、バラモンの教えを受ける確率が高いからです。
バラモンたちは語ります。
『わたしは諸々の外道の教えに従って斎戒してきたが、ここに真実はない。
諸々の外道も常楽我浄を説くが、わたしには、自我とは何か、楽とは何か、浄とは何かも分からないのだ。
ただ、ここに仏法のほんのわずかな言葉が残っている。』
と語り、わたしの言葉の意味を説くようになるのです。
その時、クシャナ城の沙羅双樹の間より、数えきれないほど多くの人々が、この言葉を聞き、
この言葉を共に唱えるようになるのです。
『一切世間の法はことごとく空である。一切世間の法はことごとく空である。』」
迦葉菩薩は諸々の人々に告げました。
「あなた方は憂い悲しんだり、泣き叫ぶ必要はありませんよ、この世は空でないものは何一つない。
しかし、如来は常住され、決して変わらないのです。
法も僧も同じなのです。」
その時、人々は、この言葉を聞くと泣き叫ぶのをやめ、皆、如来の悟りに至ったのです。
以上 大般涅槃經卷第十八
これは、数えきれないほどいろいろな法を組み合わせれば涅槃と言う結果となると言うのです。
譬えれば、織物を縫い合わせれば衣となります。
衣が壊れるとは、もはや着れない状態を指すのであり、
衣とならない別の法がなくなった状態こそが涅槃の体であると語るのです。
善男子よ、このような状態となった時、わたしの弟子と名乗る者は非常に多いのですが、
ほとんどが邪説を唱える者であり、正しく説く者は極わずかなのです。
正法を受けるものは一握りで、ほとんどが邪法を受けるのです。
仏語を受ける者はほんのわずかで、大多数が魔語を受けるのです。
善男子よ、その時、ある国に二人の仏弟子と名乗る者が現れます。
第一の者は阿羅漢であり、第二の者が破戒です。
破戒の弟子に従う人々は五百名、阿羅漢の弟子に従う人々は百名です。
破戒の者はこのように説きます。
『如来が涅槃に臨まれる時、わたしは如来に親近しこのように聞きました。
仏さまが定められたのは究極的に四重の禁戒(淫・殺・盗・妄語を禁止すること)なのです。
この四重の法を守れば無罪となるのです。
わたしは今、これらを守ってきた故に阿羅漢となり四無碍の智を得たのです。
また、阿羅漢となった後で、この四重の禁戒(淫・殺・盗・妄語を禁止すること)を犯せば、
これらを犯す事が罪となるのですから、阿羅漢とは呼べなくなる。
つまり、阿羅漢とはこれらを犯す事が出来ない者となるのです。
お釈迦さまは、これらを定められ、最後まで守られた。
涅槃とは、この禁戒からの解放を意味するのです。』
阿羅漢の比丘はこのように語ります。
『長老よ、あなたの説かれることは如来の涅槃の意味ではありません。
わたしは如来とは常であり決して変化しないもの、如来の在世に於いても涅槃後に於いても、
そのような四重の禁戒を犯したかどうか、それが罪となるかどうかとは一切関係ありません。
実際に、阿羅漢であったとしても、その四重の禁戒を犯す事は可能です。
もし、あなたのおっしゃる通りなら、その禁戒を守り続けることにより悟りに至るのですから、
少しでも悟りを持つ者であれば禁戒を犯す事などできなくなる。
阿羅漢となれば、この禁戒を犯すことが不可能となるではありませんか。
でも、実際には、犯そうと思えば犯せないことはない。
ここに矛盾がある。
わたしは、阿羅漢とは阿羅漢となろうと言う心を超越した状態だと考えます。
ただ善法のみを説き、これが悪いあれが悪いと説かない状態が阿羅漢となるのです。
あなたの語られたことは、非法でしかない。
十二部経をごらんなさい。
【知、無知、長短、長老、若輩などの区別を定めるのは阿羅漢ではない】
と定められているではありませんか。』
善男子よ、その時、破戒の比丘たちのみならず、阿羅漢の比丘たちの命も共に絶たれるのです。
善男子よ、この時、魔王は、この二種類の比丘たちの心にお互いを憎み合う心を生じさせ、
この六百の比丘たちは、言い争い、傷つけあうようになるのです。
その時、双方の人々は各々このように語る事になるのです。
『悲しい事に仏法は滅してしまった。』
しかし、わたしの正法は実は不滅なのです。
その時、その国に十二万の大菩薩がわが法を持って現れるのです。
このように誰が、仏法は滅したと語った時、
全世界のどこにもわたしの弟子が一人もいなくなった時、
第六天の魔王が大火で以て、すべての経典を焼き尽くしそうとしたときは、
その中にあるほんのわずかなものであっても、
それらを盗み出し、集めて、バラモンたちに預けておきなさい。
これは、諸々の小菩薩たちは、仏がいらっしゃらなければ、バラモンの教えを受ける確率が高いからです。
バラモンたちは語ります。
『わたしは諸々の外道の教えに従って斎戒してきたが、ここに真実はない。
諸々の外道も常楽我浄を説くが、わたしには、自我とは何か、楽とは何か、浄とは何かも分からないのだ。
ただ、ここに仏法のほんのわずかな言葉が残っている。』
と語り、わたしの言葉の意味を説くようになるのです。
その時、クシャナ城の沙羅双樹の間より、数えきれないほど多くの人々が、この言葉を聞き、
この言葉を共に唱えるようになるのです。
『一切世間の法はことごとく空である。一切世間の法はことごとく空である。』」
迦葉菩薩は諸々の人々に告げました。
「あなた方は憂い悲しんだり、泣き叫ぶ必要はありませんよ、この世は空でないものは何一つない。
しかし、如来は常住され、決して変わらないのです。
法も僧も同じなのです。」
その時、人々は、この言葉を聞くと泣き叫ぶのをやめ、皆、如来の悟りに至ったのです。
以上 大般涅槃經卷第十八