愛采さまへ 内外相対






 世の法律で《殺人はいけない》《泥棒はいけない》《姦淫はいけない》と言うものがあります。

これをこのまま受け取るのが外典と言う考え方です。

つまり、《殺人はいけない》と決められているから、

行為としての《殺人はいけない》と言うごく普通の考え方はすべて外典なのです。




 これに対して《殺人はいけない》と言われたら、

《どこからが殺人なのか》《人の心はどのように動くか》

と言う具合に、心の中の状態の変化としてとらえるのが内典なのです。

この考え方によれば《畜生、あいつなんか死んでしまえ》と考えた途端に殺人を犯したことになります。

実際の行為に及んだかどうかではなくこのように心が動いたからです。

実際の行為に及ぶ人は少なくても、このように考えることは誰でもあることで、

《自分もいつ本当に殺すか分からない》と思うから、

殺人者を絶対悪として裁くことが出来なくなるのです。




 『寺に来い』『折伏しろ』というのは表面的な姿、外典なのです。

寺に行くことにより、自分の内面がどのように変わるかが大切であり、

自分の内面がより良い方向に向くのなら寺に行けばよい。

でも、あまり変わらなかったり、悪くなるようなら行く必要はありません。




 折伏はもっと極端に現れます。相手をより良くしたいから勧めるのと、

折伏すれば自分が褒められるからするのとでは天地の差となります。


わたしはもっと極端ですよ。表面上は『エホバの証人はダメ』と否定しますが、

現実のその人の状態を見て、『エホバの証人なんか良いじゃない??』と平気で勧めます。

その人の状態によっては『今のあなたにとって、最善の教えは悪魔崇拝だ』と、こんなものも勧めます。

当然、人によっては『創価学会にでも入れ』とも言います。その人が良くなればそれでよいのです。

《私》も数多くある選択支の一つであり、今の、その人の状態から見て最善と思われるものを選べばよい。




 今の愛采さんには寺よりも神社の方があっていると思います。

もし、お寺を選ばれるのでしたら禅宗のお寺が良いかな。

神社に行って、柏手を打って、心の中で南無妙法蓮華経ととなえられると良いでしょう。

ちょっと、日蓮正宗のお寺の毒素が強すぎて合わないようです。

何が一番問題なのかと言いますと、《自分は守られていないのではないか》と心配しすぎているところです。

このため、今一番必要なのは心のよりどころとできる大きなもので形があった方が良いのです。


基本的な神社は、ほとんどが私の管轄で、諸天善神は私の眷属なのです。

今、あなたに《仏として彼らを動かせ》と言っても無理です。

ゆくゆくはそうしていけばよいのですが今はまだ無理。

今は、彼らの守護を受け彼らの力を体感された方が良い。