◆◆ヨハネの黙示録◆◆
ヨハネの黙示録と言えば、ハルマゲドンの戦いや666の獣を思い起こされるであろう。
ハルマゲドンの戦いとは、この書を読むあなた自身の心の内で起こっている戦いである。
今までの常識や聖職者たちの話と私が語ることは全く違う。
そこで、あなた自身どちらに付こうかと迷うのだ。
《かの者は確かに神だ》《いや神ではなく悪魔だ》とか、
《異常者だ》《論理的整合性があるから異常者とは呼べない》とか、
《どちらに付こうか》《様子を見守ろうか》とか、迷いに迷うはずである。
この心の中の迷いをハルマゲドンの戦いと言う。
また、あなた方は知っているはずである。
イエス・キリストの名を押し立ててインディアン狩りをしたのはあなた方である。
その結果、アメリカの原住民であったインディアンたちは、9割近くがあなた方により虐殺されたのだ。
この数字は、アウシュビッツに収容されたユダヤ人並の生存率である。
これを善と言うのなら、なぜアウシュビッツを善と呼ばないのか。
あなた方もナチスドイツも異教徒に対して行った同じ虐殺事件ではないのか。
ユダヤ人はイエス・キリストを実際に処刑した罪人であるから、
むしろ、ナチスドイツのアウシュビッツの方が善となるのではないのか。
当然、アウシュビッツが大罪として暴かれ、
あなた方のインディアン狩りがさほど注目されないのは理由があるが、
ここでその理由を説明することは控えておこう。
また、わたしはこれをあなた方に突き付けて、《さあこの責任を取れ》と言っているわけではない。
『救い主、イエス・キリストの名を以て、このようなことが行われたことを考えよ。』と言っているのだ。
なぜ、あなた方はインディアンたちを滅ぼそうとしたのか。
彼らが、アメリカ大陸の所有者だったからである。あなた方は彼らが持っている大地や財産を欲したのだ。
これが本音であり、イエス・キリストは名目なのだ。
あなた方はイエス・キリストを名目として自分たちの欲望を叶えたと言うよりは、
名目の正義にあなた方自身が、あなた方自身をマインドコントロールしてしまったのだ。
これが果てしない虐殺と略奪となった。このように使い方を間違えれば、正しいものも悪となってしまうのだ。
なぜ、このようになるのかを説明すると長くなるから割愛するが、
ヨハネの黙示録の赤い竜は聖書を示し、海からの獣はイエス・キリストを示し、666の獣はわたしを示す。
これらの中で最強なのはわたしヤハウェである。
なぜならば、聖書やイエス・キリストならば、コーランや仏典により、
そのマインドコントロールを解くことも可能である。
しかし、私を間違えて用いれば、
聖書もコーランも仏典もその人が陥ったマインドコントロールを補強するものとしかならないからである。
だから、このように道理を語り警告しているのだ。
さて、ヨハネの黙示録には火と硫黄の燃える池が出てくる。
この火の池に投げ込まれないための条件がさらりと書いてあるが、
この条件はとても守れるようなものではない。
このため、マルティン・ルターは《黙示録は異常な書だから聖書から外せ》と言い、
パウロの書簡に救いを見出したと言う。
実は聖書には聖書の中の各書の序列が定まっている。
この序列の一位がヨハネの黙示録である。
これは、ヨハネの黙示録にこれが聖霊であると明記されているからにほかならない。
そして、序列の二番目が福音書である。これはイエス・キリストの言動を示しているからである。
そして、序列の三番目が十二使徒の言動である使徒の手紙であり、
最後が十二使徒ではないパウロの言動である使徒行伝やパウロの書簡となるが、
さすがに、最後は聖書と呼べるかどうか程度のものとなる。
これらが聖書に定められた各書の序列なのだ。
ルターの行動は、それまでのカトリックの封建体質を打破したことは評価しても良いが、
ルターは、この序列を壊してしまうと言う大罪を犯しているのだ。
この序列が壊れると、それこそ何でも良いと言う状態となってしまい、
聖書の真意がわからなくなってしまう。
なぜ、ルターはこのような間違いを犯したのか。彼自身が臆病者であったからなのだ。
『臆病な者は火と硫黄の燃える池に投げ込まれる』と言う言葉通り、彼自身が逃げ場を失い、
序列を乱すことにより、なんとか心の平静を保つことが出来たと言うわけである。
この火と硫黄の燃える池に対する対処法は一つしかない。
どうせ逃げられないのなら、この中に飛び込んでしまえばよい。この原理は次のように説明しよう。
人が罰金に相当する罪と、懲役に相当する罪と、死刑に相当する罪を犯したとしよう。
この人は罰金を支払ったのち、刑務所に収監されるだろうか。
その刑期を満了したのちに死刑に処せられるであろうか。
この人が受けるのは死刑と言う一つの罰だけである。
つまり、死刑と言う罰を受けることにより罰金も支払ったとみなされ、
懲役の刑期も満了したとみなされるのだ。
火と硫黄の燃える地獄の罰は、裁きの地獄の罰であり死刑に勝る最高刑である。
このため、この火と硫黄の燃える池に飛び込んだら、それまでの数々の罪の罰も一緒に受けたこととなるのだ。
どのような罪を犯したとしても、それに相当する罰を受け切った者は清い者とされる。
つまり、裁きの地獄、火と硫黄の燃える池に入った瞬間に、すべてにわたり清い者とされるのだ。
実は死者は一度ここに入ると他の場所に移動できないために、ここが永遠の火の池となるから、
ここを裁きの地獄と言うのだが、生きている者は肉体に帰ればよいだけである。
結果として、何一つ変わっていないのに罪だけが消え去ると言う不思議な状態となるのだ。
これが、【復活】であり、真の復活はあなた自身の身に起こると言える。
世の数々の罪により、人は神に対して死んだ状態となっている、
この死んだ人々を復活させるのが火と硫黄の燃える地獄であり、これがパプテスマのヨハネが予言した
イエス・キリストが施す火と聖霊による洗礼である。
自分が臆病であることを言葉巧みに隠し、
逃げ回っているだけの神父や牧師では、ここまでは簡単にはわからないであろう。
◆◆人類を存続させたければ◆◆
人類を存続させるかどうかは、律法を標榜する者たちが律法の真の意味に立ち返ることが可能かどうか。
福音を標榜する者たちが福音の真の意味に立ち返ることが可能かどうか。
コーランを標榜する者たちがコーランの真の意味に立ち返ることが可能かどうかを
総合的に判断するものである。
律法は律法に立ち返れ、福音は福音に立ち返れ、コーランはコーランに立ち返れと語っても、
それらの意味を知らなければ立ち返ることなどできないのは明白である。
これゆえに、わたしが万軍の主ヤハウェの名で以て、このように知らせるのだ。
わたしは、人々が立ち返ることが出来ると判断するのならば人類を存続させるであろう。
しかし、やはり無理だと判断するならば、地球を次の人類の為に明け渡すであろう。
ヨハネの黙示録と言えば、ハルマゲドンの戦いや666の獣を思い起こされるであろう。
ハルマゲドンの戦いとは、この書を読むあなた自身の心の内で起こっている戦いである。
今までの常識や聖職者たちの話と私が語ることは全く違う。
そこで、あなた自身どちらに付こうかと迷うのだ。
《かの者は確かに神だ》《いや神ではなく悪魔だ》とか、
《異常者だ》《論理的整合性があるから異常者とは呼べない》とか、
《どちらに付こうか》《様子を見守ろうか》とか、迷いに迷うはずである。
この心の中の迷いをハルマゲドンの戦いと言う。
また、あなた方は知っているはずである。
イエス・キリストの名を押し立ててインディアン狩りをしたのはあなた方である。
その結果、アメリカの原住民であったインディアンたちは、9割近くがあなた方により虐殺されたのだ。
この数字は、アウシュビッツに収容されたユダヤ人並の生存率である。
これを善と言うのなら、なぜアウシュビッツを善と呼ばないのか。
あなた方もナチスドイツも異教徒に対して行った同じ虐殺事件ではないのか。
ユダヤ人はイエス・キリストを実際に処刑した罪人であるから、
むしろ、ナチスドイツのアウシュビッツの方が善となるのではないのか。
当然、アウシュビッツが大罪として暴かれ、
あなた方のインディアン狩りがさほど注目されないのは理由があるが、
ここでその理由を説明することは控えておこう。
また、わたしはこれをあなた方に突き付けて、《さあこの責任を取れ》と言っているわけではない。
『救い主、イエス・キリストの名を以て、このようなことが行われたことを考えよ。』と言っているのだ。
なぜ、あなた方はインディアンたちを滅ぼそうとしたのか。
彼らが、アメリカ大陸の所有者だったからである。あなた方は彼らが持っている大地や財産を欲したのだ。
これが本音であり、イエス・キリストは名目なのだ。
あなた方はイエス・キリストを名目として自分たちの欲望を叶えたと言うよりは、
名目の正義にあなた方自身が、あなた方自身をマインドコントロールしてしまったのだ。
これが果てしない虐殺と略奪となった。このように使い方を間違えれば、正しいものも悪となってしまうのだ。
なぜ、このようになるのかを説明すると長くなるから割愛するが、
ヨハネの黙示録の赤い竜は聖書を示し、海からの獣はイエス・キリストを示し、666の獣はわたしを示す。
これらの中で最強なのはわたしヤハウェである。
なぜならば、聖書やイエス・キリストならば、コーランや仏典により、
そのマインドコントロールを解くことも可能である。
しかし、私を間違えて用いれば、
聖書もコーランも仏典もその人が陥ったマインドコントロールを補強するものとしかならないからである。
だから、このように道理を語り警告しているのだ。
さて、ヨハネの黙示録には火と硫黄の燃える池が出てくる。
この火の池に投げ込まれないための条件がさらりと書いてあるが、
この条件はとても守れるようなものではない。
このため、マルティン・ルターは《黙示録は異常な書だから聖書から外せ》と言い、
パウロの書簡に救いを見出したと言う。
実は聖書には聖書の中の各書の序列が定まっている。
この序列の一位がヨハネの黙示録である。
これは、ヨハネの黙示録にこれが聖霊であると明記されているからにほかならない。
そして、序列の二番目が福音書である。これはイエス・キリストの言動を示しているからである。
そして、序列の三番目が十二使徒の言動である使徒の手紙であり、
最後が十二使徒ではないパウロの言動である使徒行伝やパウロの書簡となるが、
さすがに、最後は聖書と呼べるかどうか程度のものとなる。
これらが聖書に定められた各書の序列なのだ。
ルターの行動は、それまでのカトリックの封建体質を打破したことは評価しても良いが、
ルターは、この序列を壊してしまうと言う大罪を犯しているのだ。
この序列が壊れると、それこそ何でも良いと言う状態となってしまい、
聖書の真意がわからなくなってしまう。
なぜ、ルターはこのような間違いを犯したのか。彼自身が臆病者であったからなのだ。
『臆病な者は火と硫黄の燃える池に投げ込まれる』と言う言葉通り、彼自身が逃げ場を失い、
序列を乱すことにより、なんとか心の平静を保つことが出来たと言うわけである。
この火と硫黄の燃える池に対する対処法は一つしかない。
どうせ逃げられないのなら、この中に飛び込んでしまえばよい。この原理は次のように説明しよう。
人が罰金に相当する罪と、懲役に相当する罪と、死刑に相当する罪を犯したとしよう。
この人は罰金を支払ったのち、刑務所に収監されるだろうか。
その刑期を満了したのちに死刑に処せられるであろうか。
この人が受けるのは死刑と言う一つの罰だけである。
つまり、死刑と言う罰を受けることにより罰金も支払ったとみなされ、
懲役の刑期も満了したとみなされるのだ。
火と硫黄の燃える地獄の罰は、裁きの地獄の罰であり死刑に勝る最高刑である。
このため、この火と硫黄の燃える池に飛び込んだら、それまでの数々の罪の罰も一緒に受けたこととなるのだ。
どのような罪を犯したとしても、それに相当する罰を受け切った者は清い者とされる。
つまり、裁きの地獄、火と硫黄の燃える池に入った瞬間に、すべてにわたり清い者とされるのだ。
実は死者は一度ここに入ると他の場所に移動できないために、ここが永遠の火の池となるから、
ここを裁きの地獄と言うのだが、生きている者は肉体に帰ればよいだけである。
結果として、何一つ変わっていないのに罪だけが消え去ると言う不思議な状態となるのだ。
これが、【復活】であり、真の復活はあなた自身の身に起こると言える。
世の数々の罪により、人は神に対して死んだ状態となっている、
この死んだ人々を復活させるのが火と硫黄の燃える地獄であり、これがパプテスマのヨハネが予言した
イエス・キリストが施す火と聖霊による洗礼である。
自分が臆病であることを言葉巧みに隠し、
逃げ回っているだけの神父や牧師では、ここまでは簡単にはわからないであろう。
◆◆人類を存続させたければ◆◆
人類を存続させるかどうかは、律法を標榜する者たちが律法の真の意味に立ち返ることが可能かどうか。
福音を標榜する者たちが福音の真の意味に立ち返ることが可能かどうか。
コーランを標榜する者たちがコーランの真の意味に立ち返ることが可能かどうかを
総合的に判断するものである。
律法は律法に立ち返れ、福音は福音に立ち返れ、コーランはコーランに立ち返れと語っても、
それらの意味を知らなければ立ち返ることなどできないのは明白である。
これゆえに、わたしが万軍の主ヤハウェの名で以て、このように知らせるのだ。
わたしは、人々が立ち返ることが出来ると判断するのならば人類を存続させるであろう。
しかし、やはり無理だと判断するならば、地球を次の人類の為に明け渡すであろう。