さて、この目は何をするためのものか、わたしも判らなかった。彼女も知らなかった。
このように、ほとんどのことが、最初に徴とか、名前とかを受けて、後になってその意味がわかる。
最初に意味を考えて、その為にはこうすれば良いとして行っているわけではない。
作り話でも、こうも後から辻褄を合わせることは出来ないであろう。

ヤハウェの名前もそうである。使い方のわからない『万軍の主』という聖書の名前だけ先に
受けていた。『主』といえば、イエス・キリスト。ここまではわかる。聖書では、
『主、万軍の主』と列記されており、また、
『主はこういわれた。万軍の主はこういわれた。』
と使い分けられている。そして、この万軍の主とは、お前のことだよと言われていたのである。
だから、平気でヤハウェの名も名乗れるのだが、どのようにして使うのか、このブログを一旦閉じる
ときまで知らなかった。使い方がわからないとは、名前は、先にあっても使えないという状態に
他ならない。この目も一緒であった。

当初、同じようなものだから、働きも同じだと思っていた。今では、働きはそれぞれ違うが、
相手の目覚めの状態に応じて、自分も相手の見ているものがわかるようになるということがわかって
いる。

彼女は、「この目なんなのよ。」

と、わたしに聞いた。わたしは、『すべての死を司る目』という言葉が浮かんだ。そこで、

「神でも、悪魔でも、何でも殺してしまう目じゃないかな」

と答えた。当然、自分は新たに目を持ち、そういう働きを受けたと思った。
ところが、彼女が語ることはおぼろげながら見えるのだが、自分が同じことをしようとしても、
彼女が言うとおりにはならない。つまり、三つ目で、彼女の見える世界は見えるのだが、
そこで主体をもって動こうとしても動くことが出来ないのである。

逆に、わたしには理の当然と見えることがある。聖典を裁定することは聖典に書かれているままで
定めれば問題ない。また、他の書も、書かれているままの姿で定めれば良いのである。
その姿が理想的かどうかは別にして、その書の結果までは最初から見える。
わたしは、当然、他の人もそのように見えるものだとばかり思っていた。
聖書を見て、順序はこうで、定めはこうだね。明らかに書かれている順序と定めを破って、
この人たちはいったいなにをしたいのだろう。判らないふりをして、どうしてこの人たちは、
それを守らないのか。その奥底にある心は何か。と、思ったものである。

結局、これはわたしにしか見えないことなのかもしれない。万軍の主ヤハウェとは、
この働きを指すのだと、最近まで思っていた。

ヤハウェの目は、神も悪魔も殺せると言うのは間違いではない。しかし、彼女は、そのようなものを
消滅させようとはしない。わたしから見て役に立たないようなものでも、

「絶対良い方向で使えるから、残して、わたしに預けて」

という。どちらというと、わたしの方が、

「そんなの消してしまえ。」

という方である。ただ、必ず彼女の意見を聞くようにしている。どうも、こういう領分は彼女の
役割のようである。
彼女の目は『死』に関係する。死者のさまよえる魂を天国に送ることができる。ヨハネの黙示録の
炎の力を自らの目に持つからである。それを、持っていることはわかるし見ることも出来るが、
わたしにはそのような浄化はできない。そんなことをしようとすれば四苦八苦してしまう。


【子羊が第三の封印を開いたとき、第三の生き物が「出て来い」というのを、わたしは聞いた。
そして、見ていると、見よ、黒い馬が現れ、乗っている者は、手に秤を持っていた。わたしは、
四つの生き物の間から出る声のようなものが、こう言うのを聞いた。小麦は一コイニクスで
一デナリオン。大麦は三コイニクスで一デナリオン。オリーブ油とぶどう酒とを損なうな。】

この働きを担うのが、わたしである。


【子羊が第四の封印を開いたとき、「出て来い」という第四の生き物の声を、わたしは聞いた。
そして、見ていると、見よ、青白い馬が現れ、乗っている者の名は「死」といい、これに陰府が
従っていた。彼らには、地上の四分の一を支配し、剣と飢饉と死とをもって、地上の野獣で
人を亡ぼす権威が与えられた】

この働きを担うものが彼女である。このため、彼女のヤハウェの目は霊とか死者の浄化も、
陰府の中で自由に動くことも可能なのである。そして、彼女が知り得た世界は、言葉によって、
わたしの世界となる。また、わたしが知り得た世界も言葉によって、そのまま彼女の世界となる。

このようにして、彼女はヤハウェの目を開き、ヤハウェと名乗る者となった。わたしの指導霊は、
日本のいざなみ、いざなぎの夫婦神であった。彼女の指導は、わたしが行うこととなった。