【1】恋愛と結婚に関しての聖書の句
今は、一夫一婦制度により社会は成り立っています。聖書的には、
「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁
して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる」マルコ10-11
これらをあげ、正当制の根拠としているようです。
もっとすごい言葉もあります。
「『姦淫するな』と命じられている、しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の
妻を見るものは誰でも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目が
あなたをつまづかせるならば、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部が
なくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。」マタイ5-27
さあ、大変です。実際には何もしていなくても、心の中で思っただけでも姦淫の罪が
成立すると言っているのです。しかもイエス・キリストの言葉です。
さて、これらの言葉の出所は、実はモーセの十戒にあります。
十戒は神が告げられたことで、永遠不滅の戒律となります。
十戒の七番目に『姦淫してはならない』という言葉があります。
これを、人々が勝手に、『この程度ならば姦淫にはならない』『こうすれば良い』
と決めている事について、主イエスが
「お前ら神ではないのに、神の戒律を勝手に解釈するな。神がこう決められたのなら
厳密に守らなくてはならない。心で姦淫しても姦淫じゃ」
と言っていらっしゃるのです。それは『地獄に送られる』という罰になると
おっしゃっているのです。
「この一つの『姦淫するな』という戒律を厳密に守れる人はいるか」
と主イエスは問いかけていらっしゃるのです。
さらに言えば、
「誰も守れないでしょ。わたしは、戒律を守れない罪びとを救うために来たのだよ」
と続いてくるわけです。
【2】律法の完成、成就、そして救い
主イエスが、この世にいらした目的が、この『律法の成就、完成』にあります。
このように、たった一つの『姦淫するな』という律法すら、誰も守れません。
誰でもそうです。守れないものを、守っているように見せているだけなのです。
一生に一回でもこの戒律を破れば地獄に送られます。これが神の定めなのです。
イエス・キリストは律法を廃止されたわけではありません。
完成した形にして、しかも、人々を全部救うという離れ業をやってくださったのです。
『姦淫するな』という律法を完成形にすると、
『姦淫する者は地獄に送る』とすればいいのです。
その裁かれて人々が落ちる地獄の中に、天国への入り口とか階段を作られたのです。
(正確には、その裁きの地獄そのものを天国に変えられた)
話がややこしくなりますので、天国に通じる階段だと思ってください。
これは、律法の中に『裁きの地獄の中に、天国に通じる階段を定めてはならない』
という言葉がないので、神の権能があれば可能なのです。
そして、裁かれて地獄に落ちた人々に、
「わたしの神としての権能によりこの階段を開きました。どうぞのぼってください。」
と案内されているのです。
当時、この裁きの地獄に落ちるのは、極刑である十字架に架かって殺された者だけだ。
と信じられていました。主イエスは、『わたしは裁きの地獄に行くよ。』
と人々に教えるために、自ら十字架に架かられたのです。これが十字架の意味です。
十字架に架かって、裁きの地獄に落とされた者には魂の安らぐ場所はありません。
永遠の刑罰が待っているはずです。復活は、裁きの地獄からこの世までの
階段を意味します。
これによって、裁きの地獄以外の場所に送られた人々にも、道は開かれます。
このようにして、すべての人は神の律法によって裁かれ、裁きの地獄に送られますが
主イエスを神と信じるものは救われます。
これが律法の成就とイエスの救いの意味です。
【3】アダムとイブ
アダムとイブの話は、聖書に示されている『人』の条件のようなものです。
蛇により、知恵の実を食べたアダムとイブは、神と等しい知恵を持っているはずですよね。
あなたは、神と等しい知恵ありますか。
イチジクの葉をつづり合わせて、隠しどころを神に見えなくする。
ということは、イチジクの葉が聖書の言葉を意味しますので、聖書の言葉で神に対して、
自分の欠点を見えなく出来なければなりません。神から見て完全無欠という
状態を作り上げなくてはなりません。
あなたに出来ますか。
神の楽園を追い出されて、エデンの東に住む。これは、神の支配下にないことを意味します。
その知恵ゆえに、神の支配下から離れることです。
あなたにそこまでの知恵がありますか。
更にいえば、一体となったアダムとイブが、人という皮の衣を着ているのが人間なのです。
アダムとは、肉体的な人間を指し、イブとは、精神的な人間を指します。
人間の言う性別と、アダムとイブは別となります。
おかしいとは、思いませんか。旧約聖書は同じ創世記の中で、この部分だけ一夫一婦制。
あとは、男も女も浮気ばんばん、ごく当たり前のように書いてます。これは、
アダムとイブの話が、特異な条件から特殊と考えるべきでしょう。
【今後の恋愛と結婚】
現代社会の、一夫一婦制度の、これが基礎にある思想です。ところが、実際には何もない
のです。つまり、これは条件に応じて人間が変化させて良いものとなります。
たとえば、少子化問題があります。
これは、無理に一夫一婦制度を継続させようとすることにより起きる問題です。
子供を育てるためには、多夫多婦制度の方が適しています。
一人の子供に、大勢の父母がいる社会です。人口調整ならば、一夫一婦制度の方が適してます。
このように、人間の裁量で自由に出来る事柄となります。
これよりも問題としなくてはならないのが、肉体と精神の分離現象です。
本来自由であるはずのものを、倫理という枠をはめ、その枠で縛ると、
人間の肉体とか本能的な部分・・・男と
人間の後発的、精神部分・・・・・女
が分離現象を起こします。
たしかに、社会秩序を維持するために倫理規定は必要な物ではあります。
しかし、本来根拠がないものに関しては柔軟な姿勢が求められると思います。
特に聖書をもとにした、倫理社会規定は、かなり見直さないと、
肉体と精神の分離現象の引き金となります。
今は、一夫一婦制度により社会は成り立っています。聖書的には、
「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁
して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる」マルコ10-11
これらをあげ、正当制の根拠としているようです。
もっとすごい言葉もあります。
「『姦淫するな』と命じられている、しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の
妻を見るものは誰でも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目が
あなたをつまづかせるならば、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部が
なくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。」マタイ5-27
さあ、大変です。実際には何もしていなくても、心の中で思っただけでも姦淫の罪が
成立すると言っているのです。しかもイエス・キリストの言葉です。
さて、これらの言葉の出所は、実はモーセの十戒にあります。
十戒は神が告げられたことで、永遠不滅の戒律となります。
十戒の七番目に『姦淫してはならない』という言葉があります。
これを、人々が勝手に、『この程度ならば姦淫にはならない』『こうすれば良い』
と決めている事について、主イエスが
「お前ら神ではないのに、神の戒律を勝手に解釈するな。神がこう決められたのなら
厳密に守らなくてはならない。心で姦淫しても姦淫じゃ」
と言っていらっしゃるのです。それは『地獄に送られる』という罰になると
おっしゃっているのです。
「この一つの『姦淫するな』という戒律を厳密に守れる人はいるか」
と主イエスは問いかけていらっしゃるのです。
さらに言えば、
「誰も守れないでしょ。わたしは、戒律を守れない罪びとを救うために来たのだよ」
と続いてくるわけです。
【2】律法の完成、成就、そして救い
主イエスが、この世にいらした目的が、この『律法の成就、完成』にあります。
このように、たった一つの『姦淫するな』という律法すら、誰も守れません。
誰でもそうです。守れないものを、守っているように見せているだけなのです。
一生に一回でもこの戒律を破れば地獄に送られます。これが神の定めなのです。
イエス・キリストは律法を廃止されたわけではありません。
完成した形にして、しかも、人々を全部救うという離れ業をやってくださったのです。
『姦淫するな』という律法を完成形にすると、
『姦淫する者は地獄に送る』とすればいいのです。
その裁かれて人々が落ちる地獄の中に、天国への入り口とか階段を作られたのです。
(正確には、その裁きの地獄そのものを天国に変えられた)
話がややこしくなりますので、天国に通じる階段だと思ってください。
これは、律法の中に『裁きの地獄の中に、天国に通じる階段を定めてはならない』
という言葉がないので、神の権能があれば可能なのです。
そして、裁かれて地獄に落ちた人々に、
「わたしの神としての権能によりこの階段を開きました。どうぞのぼってください。」
と案内されているのです。
当時、この裁きの地獄に落ちるのは、極刑である十字架に架かって殺された者だけだ。
と信じられていました。主イエスは、『わたしは裁きの地獄に行くよ。』
と人々に教えるために、自ら十字架に架かられたのです。これが十字架の意味です。
十字架に架かって、裁きの地獄に落とされた者には魂の安らぐ場所はありません。
永遠の刑罰が待っているはずです。復活は、裁きの地獄からこの世までの
階段を意味します。
これによって、裁きの地獄以外の場所に送られた人々にも、道は開かれます。
このようにして、すべての人は神の律法によって裁かれ、裁きの地獄に送られますが
主イエスを神と信じるものは救われます。
これが律法の成就とイエスの救いの意味です。
【3】アダムとイブ
アダムとイブの話は、聖書に示されている『人』の条件のようなものです。
蛇により、知恵の実を食べたアダムとイブは、神と等しい知恵を持っているはずですよね。
あなたは、神と等しい知恵ありますか。
イチジクの葉をつづり合わせて、隠しどころを神に見えなくする。
ということは、イチジクの葉が聖書の言葉を意味しますので、聖書の言葉で神に対して、
自分の欠点を見えなく出来なければなりません。神から見て完全無欠という
状態を作り上げなくてはなりません。
あなたに出来ますか。
神の楽園を追い出されて、エデンの東に住む。これは、神の支配下にないことを意味します。
その知恵ゆえに、神の支配下から離れることです。
あなたにそこまでの知恵がありますか。
更にいえば、一体となったアダムとイブが、人という皮の衣を着ているのが人間なのです。
アダムとは、肉体的な人間を指し、イブとは、精神的な人間を指します。
人間の言う性別と、アダムとイブは別となります。
おかしいとは、思いませんか。旧約聖書は同じ創世記の中で、この部分だけ一夫一婦制。
あとは、男も女も浮気ばんばん、ごく当たり前のように書いてます。これは、
アダムとイブの話が、特異な条件から特殊と考えるべきでしょう。
【今後の恋愛と結婚】
現代社会の、一夫一婦制度の、これが基礎にある思想です。ところが、実際には何もない
のです。つまり、これは条件に応じて人間が変化させて良いものとなります。
たとえば、少子化問題があります。
これは、無理に一夫一婦制度を継続させようとすることにより起きる問題です。
子供を育てるためには、多夫多婦制度の方が適しています。
一人の子供に、大勢の父母がいる社会です。人口調整ならば、一夫一婦制度の方が適してます。
このように、人間の裁量で自由に出来る事柄となります。
これよりも問題としなくてはならないのが、肉体と精神の分離現象です。
本来自由であるはずのものを、倫理という枠をはめ、その枠で縛ると、
人間の肉体とか本能的な部分・・・男と
人間の後発的、精神部分・・・・・女
が分離現象を起こします。
たしかに、社会秩序を維持するために倫理規定は必要な物ではあります。
しかし、本来根拠がないものに関しては柔軟な姿勢が求められると思います。
特に聖書をもとにした、倫理社会規定は、かなり見直さないと、
肉体と精神の分離現象の引き金となります。