これは、エホバの証人の方だと思います。
花の舞という方に、コメントとして残したものを、少し言葉をなおし転写したものです。
本文は、その方のブログ上にあります。
時間は2008/3/27 pm7:30ぐらいだと思います。
http://blogs.yahoo.co.jp/mai_5000jp/53455448.html.
【エホバの証人の問題点について】
ヨハネの黙示録に触らなければ、さほど問題はないと思います。
問題なのが、権威、権能もなくヨハネの黙示録に触ったということです。
(ヨハネの黙示録を)少し読めば、聖書の中の聖書であることも、
イエス・キリストが福音書で仰っていた聖霊であることもわかります。
そして、(読む人全員が)裁かれる者以外の何者でもないことが、わかってしまう
のが問題なのです。
【黙示録からみた、あなた方の姿の予想】
集会には、自由にわいわい楽しむという雰囲気はないはずです。楽しんでいるのは
司会者、代表者だけという感じになっていませんか。
代表の方は『知らない人に聖書という良いものを教える』行為に
酔っているだけになっていませんでしょうか。
この理論はこうです。『わたしは、こういう正しい行為をしているから救われる。』
では、習っている立場の人はどうでしょうか。
『指導者が救われるために自分がいる』となりますよね。
[正しいようで、何か変ですよね]
ヨハネの黙示録は『ヨハネの黙示録を間違えて解けば、こういう救いになる』と言っています。
【実際に問題になるのは】
実際に問題になるのは、形としての救いではありません。
一人一人の人間が、神と1対1で向き合い、
神に対して(堂々と、自分の正しさの)絶対の申し開きをしなくてはならない。
ということです。
この『形としての救いが神への申し開きの材料となりますか』
ということです。
【あなたが考えている救い】
あなたが考えている救いとは、
『わたしは、こういう良いことをしたのだから救われるはずだ』
『きっと救われる』
『きっと神さまもほめてくださる』
に、なっているのではありませんか。
この『きっと』に、力を与え『絶対』にしようとしているのが組織ではありませんか。
聖書は、この『きっと』を『絶対』にしようするため、
そのための聖句を探す場所として使っているのではありませんか。
【問題点と結論】
よく考えてください。あなたは自分の救いの為に人を利用しているのに過ぎません。
神と一対一で向き合ったときの言い逃れの材料として、他の人を利用しているだけです。
これをヨハネの黙示録は、みだらな行為と呼びます。
自分の楽しみ(救い)のために、人を次から次へと取り替えて、その血に酔っているのです。
これが、ヨハネの黙示録の言う姦淫です。
普通に言う姦淫と、この姦淫、どちらの罪が重いと思われますか。
これが、ヨハネの黙示録が言う
『間違えて、黙示録を解くとどうなるか。どういう救いになるのか。
その結果を黙示録はどのように裁定し裁くのか』という理論です。
わたしは、あなた方が、とうしているのかは知りません。
単純にヨハネの黙示録に書かれているままを記しているだけです。
ローマのペテロ
花の舞という方に、コメントとして残したものを、少し言葉をなおし転写したものです。
本文は、その方のブログ上にあります。
時間は2008/3/27 pm7:30ぐらいだと思います。
http://blogs.yahoo.co.jp/mai_5000jp/53455448.html.
【エホバの証人の問題点について】
ヨハネの黙示録に触らなければ、さほど問題はないと思います。
問題なのが、権威、権能もなくヨハネの黙示録に触ったということです。
(ヨハネの黙示録を)少し読めば、聖書の中の聖書であることも、
イエス・キリストが福音書で仰っていた聖霊であることもわかります。
そして、(読む人全員が)裁かれる者以外の何者でもないことが、わかってしまう
のが問題なのです。
【黙示録からみた、あなた方の姿の予想】
集会には、自由にわいわい楽しむという雰囲気はないはずです。楽しんでいるのは
司会者、代表者だけという感じになっていませんか。
代表の方は『知らない人に聖書という良いものを教える』行為に
酔っているだけになっていませんでしょうか。
この理論はこうです。『わたしは、こういう正しい行為をしているから救われる。』
では、習っている立場の人はどうでしょうか。
『指導者が救われるために自分がいる』となりますよね。
[正しいようで、何か変ですよね]
ヨハネの黙示録は『ヨハネの黙示録を間違えて解けば、こういう救いになる』と言っています。
【実際に問題になるのは】
実際に問題になるのは、形としての救いではありません。
一人一人の人間が、神と1対1で向き合い、
神に対して(堂々と、自分の正しさの)絶対の申し開きをしなくてはならない。
ということです。
この『形としての救いが神への申し開きの材料となりますか』
ということです。
【あなたが考えている救い】
あなたが考えている救いとは、
『わたしは、こういう良いことをしたのだから救われるはずだ』
『きっと救われる』
『きっと神さまもほめてくださる』
に、なっているのではありませんか。
この『きっと』に、力を与え『絶対』にしようとしているのが組織ではありませんか。
聖書は、この『きっと』を『絶対』にしようするため、
そのための聖句を探す場所として使っているのではありませんか。
【問題点と結論】
よく考えてください。あなたは自分の救いの為に人を利用しているのに過ぎません。
神と一対一で向き合ったときの言い逃れの材料として、他の人を利用しているだけです。
これをヨハネの黙示録は、みだらな行為と呼びます。
自分の楽しみ(救い)のために、人を次から次へと取り替えて、その血に酔っているのです。
これが、ヨハネの黙示録の言う姦淫です。
普通に言う姦淫と、この姦淫、どちらの罪が重いと思われますか。
これが、ヨハネの黙示録が言う
『間違えて、黙示録を解くとどうなるか。どういう救いになるのか。
その結果を黙示録はどのように裁定し裁くのか』という理論です。
わたしは、あなた方が、とうしているのかは知りません。
単純にヨハネの黙示録に書かれているままを記しているだけです。
ローマのペテロ