今日も明日も偉大なことがある、偉大なことを行われる方がいる | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「わがたましいよ。主をほめたたえよ。わが神、主よ。あなたはまことに偉大な方。あなたは尊厳と威光を身にまとっておられます。あなたは光を衣のように着、天を、幕のように広げておられます。水の中にご自分の高殿の梁を置き、雲をご自分の車とし、風の翼に乗って歩かれます。風をご自分の使いとし、焼き尽くす火をご自分の召使いとされます。また地をその基の上に据えられました。地はそれゆえ、とこしえにゆるぎません。あなたは、深い水を衣のようにして、地をおおわれました。水は、山々の上にとどまっていました。水は、あなたに叱られて逃げ、あなたの雷の声で急ぎ去りました。山は上がり、谷は沈みました。あなたが定めたその場所へと。あなたは境を定め、水がそれを越えないようにされました。水が再び地をおおうことのないようにされました。主は泉を谷に送り、山々の間を流れさせ、野のすべての獣に飲ませられます。野ろばも渇きをいやします。そのかたわらには空の鳥が住み、枝の間でさえずっています。主はその高殿から山々に水を注ぎ、地はあなたのみわざの実によって満ち足りています。主は家畜のために草を、また、人に役立つ植物を生えさせられます。人が地から食物を得るために。また、人の心を喜ばせるぶどう酒をも。油によるよりも顔をつややかにするために。また、人の心をささえる食物をも。主の木々は満ち足りています。主の植えたレバノンの杉の木も。そこに、鳥は巣をかけ、こうのとりは、もみの木をその宿としています。高い山は野やぎのため、岩は岩だぬきの隠れ場。主は季節のために月を造られました。太陽はその沈む所を知っています。あなたがやみを定められると、夜になります。夜には、あらゆる森の獣が動きます。若い獅子はおのれのえじきのためにほえたけり、神におのれの食物を求めます。日が上ると、彼らは退いて、自分のねぐらに横になります。人はおのれの仕事に出て行き、夕暮れまでその働きにつきます。」

詩篇104篇1-23節

 

私たちが生きていられるってすごいですよね。私、子どもの頃の話ですが、寝ている間に心臓が止まったらどうしよう、息が止まったらどうしよう、と考えたことがあったんです。小学2年生の頃だからまあ、子どもの発想ですね。それで神様に寝ている間、息が止まることがないよう守ってください、と祈った記憶があります。もちろん大丈夫だったから今生きていて、これを書いているわけですが。そうなんです、私たちが動かそうと思って動かしているのではなく、止まらないように設計されているそうです。すごいですよね。この天地万物だってそうでしょう?作物は実るし、私たちが生きられるように必要が尽きない。天体の働きを通しても。神様は今もすべてにおいて働かれている。宇宙のこんなちっぽけな地球の、その中のたった一人にさえ目を留めて。この方のためなら御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えるほどに愛を注がれている。何と感謝なことだろう。私たちを今日も支え、養い、励まして下さっている、働かれている神様がいる、この方をどこまでも私たちは求めよう。信頼し歩もうではありませんか。

 

ということで、紀元前に生きていた様々な人がそれぞれの時代を生きている中で、色んなことに直面しながら思ったこと、知ったこと、体験したこと、何よりその中に神様が働かれ、出会ってくださり、知った事、変えられたこと、目撃したことなど、歴史も含めて詩にしたものや、預言を受けてそれを詩にしたもの、それらをまとめた詩篇の104篇前半を見てきいきたいと思います。

 

なお、この詩篇の作者ですが、表題がないのではっきりしません。ただ、詩の出だしなどの共通点などからおそらく古代イスラエル王国2代目の王ダビデがうたったのではないか、と推察されます。この直前の詩も、「わがたましいよ。主をほめたたえよ」とうたっていましたしね。まあ誰が詩人でもそうなのですが、私たちは気づかないだけで、神様に生かされ生きているんですよね。そもそもこの世界だった神様が創られた、そのところに私たちは住まわせていただき、生きさせていただいている、ある意味では神様の被造物の中に生かされているわけです。その中で主なる神様が働いておられる。そんなところに私たちは住まい、生かされている、何と感謝なことでしょうね。その方が私たちの肉なる部分だけではなく霊までも満たして下さる、私たちと神様をつなぐ大切なこの霊を満たして下さる、何と感謝なことでしょう。

 

この詩人がダビデであるなら、彼は相当な苦難を体験してきています。そもそもが末っ子だったために兄弟としては良い扱いを受けてきませんでしたし、巨人と戦い、勝利して、王宮に召し入れられるも、彼の活躍に嫉妬したその当時の王サウルには命を狙われ、国を追われる。親しい親友と離れ離れ、奥さんとはその間にはなれさせられ、王になった後も、彼の罪の問題もありながら、裏切りや息子によるクーデターによって国を追われることもあったし、苦難の連続。そんな時いったいどうして神様を見上げることができるのか、と普通なら思うところ、彼は今自分はこの創造者なる神様に生かされていることを知るのです。この詩の作者がダビデでなくても同じ。私たちは誰しもが、この神様の御手の中、お働きの中生かされている、生きている、支えられている、養われている…、神様の全てによって生かされているのです。

 

ダビデにしても、詩人にしても、あなたにしても、私たちの生涯をたて上げる、作り上げるのは周りの社会、と言えば社会、でもそんなものは神様の御手の前には何の意味も成さない。しかし、この天地万物を創られた方、あなたのいのちをつくられ、与えてくださった神様を見上げよう、この方を呼び求めよう、神様を褒め称えたくなるほどに神様の素晴らしい働きがここにあるのだから、そう詩人は自身に向けて、またこの詩を読むであろう人たちに向けて訴えるのです。私の魂を満たすのは、私を生かすのは、私の生涯、日々をたて上げるのは、この神様の他にはいない、こんな素晴らしい神様が働かれ、建て上げ、生かして下さっている、神様の御心の姿へ日々変えてくださるんだ、と。

 

詩人は↑で、この世界の姿を思い描きます。「わが神、主よ。あなたはまことに偉大な方。あなたは尊厳と威光を身にまとっておられます。あなたは光を衣のように着、天を、幕のように広げておられます。水の中にご自分の高殿の梁を置き、雲をご自分の車とし、風の翼に乗って歩かれます。風をご自分の使いとし、焼き尽くす火をご自分の召使いとされます。また地をその基の上に据えられました。地はそれゆえ、とこしえにゆるぎません。あなたは、深い水を衣のようにして、地をおおわれました。水は、山々の上にとどまっていました。水は、あなたに叱られて逃げ、あなたの雷の声で急ぎ去りました。山は上がり、谷は沈みました。あなたが定めたその場所へと。あなたは境を定め、水がそれを越えないようにされました。水が再び地をおおうことのないようにされました」と。

 

何やら、これぞ詩、と言わんばかりな表現ですが、神様の働きは天地、海、山、もうありとあらゆるところに及んでいるんですよね。神様の届かないところはないし、神様に不可能なことはない。神様は全ての所に働きかけることができるし、それを用いることもできる。だって神様だから。

 

よく、漫画とかアニメとかで、自然の力を神格化させたり、キャラクターにしたり「精霊(聖霊ではないですよ?)」という独自の存在を置いて、それが働いているように見せることがあるのですが、神様はそうした存在もしない、なぞのものにあなたを委ねることをしない。もちろん本物の聖霊様、三位一体なる、助け主なる聖霊様を通して働かれますが、神様は変なものや悪霊とか、そんなものにあなたを委ねさせて壊させるようなことはしない。むしろ神様ご自身の意思で働かれるのです。この詩でうたわれているような時には被造物を通して養ってくださったり、守ってくださったり、神様がこの自然界、宇宙、全ての働きを止めることなく働かせてくださっている中で私たちは生きている、生かされている。野の鳥さえ。野の花さえ着飾らせてくださっているのです。食べ物を食べられる、着るものがある、住むところがある、当たり前のようですごい話じゃないですか。そのように実らせ、家を守ってくださっている、当たり前ですか?とんでもない、神様があなたを愛し、あなたの内に働かれているんですよ?すごいじゃないですか。

 

パウロは「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない」と、その手紙に書き送ります。彼自身色んな苦難困難にあいました。時には地中海で難破し、絶体絶命の危機があったり、迫害され何度も殺されそうになり、どうしたらいいのか、希望を失いかねない日も多々ありました。しかし、彼はこの神様の素晴らしい被造物を見たのです。その中に神様の一つ一つの働きが行き届いていることを。

 

まあ、この箇所は厳密には終わりの時の裁きの時、神さまなんて聞いたことなかったよ、なんて弁明することはできないほど、神様の御業は現されていたじゃないか、という事なのですが、そうなんです、私たちは気づかないだけで神様の永遠の力が、神性が全ての所に現されているのです。神様は自分のことを知らない、どうせ愛していないんだ、見捨てられているんだ、そう思うところにも届いているのです。すごくないですか?天被創造このかたずっと、やんでないんですよ?「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた」とも神様は語られています。神様は誠実を尽くし続けて下さっているのです。こんな感謝なことはないじゃないですか。

 

詩人は空を見上げ、また被造物を見ながら、あ、あるな、当たり前、と考えずに、その一つ一つを見、その中に働かれている神様の御業を見、またその愛を知ったわけです。私たちはどうでしょう?何を今日見ているでしょうか。世の状況、時代、まわりですか?それともそれらをすべ治める神様ですか?私たちはこの神様の創られた尾の一つ一つ、御業一つ一つを見よう、思おう。その時、私たちを見捨てていない神様の愛を知る、そしてその素晴らしい御業が今私たちの内に、あなたの内に成され、新しい創造がされていくこと、ここのところ見ているキリストの似姿に変えられていく、その働きがされていることを知るのではないでしょうか。あなたはこのかたに委ねていますか?信頼していますか?

 

神様は裁きによって滅ぼすのではなく、あなたに生きてほしい、とその愛で覆おうとされました。↑の水の話、それは一つはノアの箱船における裁きも含むでしょう。あなたをつくられた神様は、愛するわが子であるあなたが滅びることがないよう、生きてほしいと願い、御子イエス様に私たちの重荷もいた意味も、罪も一切身代わりに背負われ、十字架で罰せられ、死なれました。しかし3日目によみがえられたことによってこれらに勝利し、新しくされるのです。私たちがこのイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返るなら。私たちもまたこの復活の恵み、いのちに与り、私たちは神様の子とされ、新しくされる。この内に新しい助け主なる聖霊様の御業が溢れるのです。

 

「主は泉を谷に送り、山々の間を流れさせ、野のすべての獣に飲ませられます。野ろばも渇きをいやします。そのかたわらには空の鳥が住み、枝の間でさえずっています。主はその高殿から山々に水を注ぎ、地はあなたのみわざの実によって満ち足りています。主は家畜のために草を、また、人に役立つ植物を生えさせられます。人が地から食物を得るために。また、人の心を喜ばせるぶどう酒をも。油によるよりも顔をつややかにするために。また、人の心をささえる食物をも。主の木々は満ち足りています。主の植えたレバノンの杉の木も。そこに、鳥は巣をかけ、こうのとりは、もみの木をその宿としています。高い山は野やぎのため、岩は岩だぬきの隠れ場」と詩人は、神様の愛がこうして溢れ流れ、ただある、のではなく、そこに住むものた日を満たしていく事を、生かしていく事を、喜びで満たし、顔をつややかにしてくださる、そんな様子が見えますね。心も支えてくださる。隠れ場にもなってくださる。

 

神様は私たち一人一人のことを心配してくださっている。ある所だけ、ではなくあなた自身を。だから御子イエス様のいのちを惜しまなかった。この神様の愛をあなたは日々受け取っていますか?ある時は求めて、ある時は結構です、になっていませんか?神様の永遠の愛、力、養いを受け取っていますか?良いんです、弱くても。頼っても。神様がまずその愛を注がれ、神様からそのいのちの川が流れている。後は受け取るだけなのです。かつてイスラエルの民が毎日神様のくださるものを拾いに行ったりしていたように、私たちも毎日これを頂きに行こう、どんな時も。

 

「主は季節のために月を造られました。太陽はその沈む所を知っています。あなたがやみを定められると、夜になります。夜には、あらゆる森の獣が動きます。若い獅子はおのれのえじきのためにほえたけり、神におのれの食物を求めます。日が上ると、彼らは退いて、自分のねぐらに横になります。人はおのれの仕事に出て行き、夕暮れまでその働きにつきます」。神様がこの一日一日の中に働かれている。その中で動物も人も生きている、生かされているんだ、と詩人は気づき、また歌う。あなたはどうですか?私たちもこの神様の与えてくださる一日一日の中、神様の与えてくださるすべてを求め、頂き、これに生かされ歩もうではありませんか。ここに今見たような希望が、いのちがあるから、あなたにも注がれているから。

 

ブロッコリー、トマト、パン、ワイン、オリーブオイル