「アサフの賛歌
神よ。国々は、ご自身のものである地に侵入し、あなたの聖なる宮をけがし、エルサレムを廃墟としました。彼らは、あなたのしもべたちのしかばねを空の鳥のえじきとし、あなたの聖徒たちの肉を野の獣に与え、聖徒たちの血を、エルサレムの回りに、水のように注ぎ出しました。彼らを葬る者もいません。私たちは隣人のそしりとなり、回りの者のあざけりとなり、笑いぐさとなりました。主よ。いつまででしょうか。あなたは、いつまでもお怒りなのでしょうか。いつまで、あなたのねたみは火のように燃えるのでしょうか。どうか、あなたを知らない国々に、御名を呼び求めない王国の上に、あなたの激しい憤りを注ぎ出してください。彼らはヤコブを食い尽くし、その住む所を荒らしたからです。先祖たちの咎を、私たちのものとして、思い出さないでください。あなたのあわれみが、すみやかに、私たちを迎えますように。私たちは、ひどくおとしめられていますから。私たちの救いの神よ。御名の栄光のために、私たちを助けてください。御名のために、私たちを救い出し、私たちの罪をお赦しください。なぜ、国々は、『彼らの神はどこにいるのか』と言うのでしょう。あなたのしもべたちの、流された血の復讐が、私たちの目の前で、国々に思い知らされますように。捕らわれ人のうめきが御前に届きますように。あなたの偉大な力によって、死に定められた人々を生きながらえさせてください。主よ。あなたをそしった、そのそしりの七倍を、私たちの隣人らの胸に返してください。そうすれば、あなたの民、あなたの牧場の羊である私たちは、とこしえまでも、あなたに感謝し、代々限りなくあなたの誉れを語り告げましょう。」
詩篇79篇1-13節
人が苦手とする、言う言葉、その一つは「ごめんなさい」ということば。これが子どもの頃もそうなんでしょうけど、意外に難しい。自分の間違いを認めたくないのか、もしくは間違いを認めることによっておこる罰則、不利益、そうしたことを気にするのか。まあ恥ずかしながら、私もこのごめんなさいと謝罪するのが苦手と言いますか、言い出しづらい。でも言い出せないでいるとどんどん苦しくなるんですよね。まあ赦す側も赦す側で、仕事ならいざ知らず、人間関係に関わる事ならなお難しい所はあるのでしょうが。でも、ごめんなさいをしないと壊れたところは回復しない。でも仕事で結構、それでいいよ、とスパッと終わらせて再出発する、などというところを見ていると、和解の力ってすごいな、と思う。修復させると言いますか、より強度になると言いますか。まあこれを書いている最中、ある方が虚偽情報で切り取って批判したことを忠告しても認めもしなければごめんね、の一言もないのにはびっくりしましたが。まあその話は別として、ごめんね、から回復していく、再建されていく。もし、神様がその中で働かれたらすごい再建になると思いません?私たちは神様から離れて本当は捨てられてもおかしくない中で、御子イエス様にこの罪を負わせることで私たちを赦そうとしてくださった、そこまでしてでもあなたを愛し抜かれた。この神様の愛はどれだけ素晴らしか。私たちはもうこの本物の愛から離れず歩みたいですね。イエス様にあって再建されたいのちの日々を。
ということで紀元前に生きていた様々な人が、それぞれの体験、思い、知ったこと、また目撃した歴史、その中に働かれた神様のこと、与えられた預言などを詩にし、それをまとめた詩篇の79篇を見ていきたいと思います。この詩も、古代イスラエル王国2代目の王ダビデの時代に賛美隊(クワイア)のリーダーとしてたてられていたアサフ、神様に仕え、神様から与った言葉をうたにして伝える預言者のような立場でもありましたが、その彼の子孫がバビロン捕囚期にあってうたった詩が↑になります。彼はこのどん底の状態にあって、世の状況にあきらめるのでもなくて、神様を諦めず、神様に叫び求めるのでした。
それでここでアサフは「神よ。国々は、ご自身のものである地に侵入し、あなたの聖なる宮をけがし、エルサレムを廃墟としました。彼らは、あなたのしもべたちのしかばねを空の鳥のえじきとし、あなたの聖徒たちの肉を野の獣に与え、聖徒たちの血を、エルサレムの回りに、水のように注ぎ出しました。彼らを葬る者もいません。私たちは隣人のそしりとなり、回りの者のあざけりとなり、笑いぐさとなりました」と、その現状を神様に訴えます。
この詩を先に読んで下さった方は気づくと思いますが、これは自分たちが罪を犯したところに問題があることを知っている、だから神様に罪を赦してください、と願っています(この分かち合いの後半でもう少し詳しく触れますが)。彼は言い訳を並べて、神様何でこんなことになっているんですか、とは言わず、神様に罪を犯し、こんな状態になっていることを嘆くのです。神様がたててくださり、ここ数篇で見ていたように神様が招いて下さっていた地が奪われる、汚される、傷つけられる。それを別にいいよ、平気平気、とは考えず、良くない、と考えるのです。神様の素晴らしさが現わされるわけでもない、あなたの信じる神様って何もの?どんな人?と関心を持ってもらうでもない、むしろ笑い種。それ、証になってない。クリスチャンって、神様を信じて生きている人ってこんなもの?と簡単にその自分たちで建て上げた、勝手に自分が正しいと思うことでつくった日々が簡単に崩される。笑い話にならないですね。
これ、他人ごとではない。いや、この詩を最初に読んでいる時、ああ、私たちが苦労することがある、どうしようもならないことがある、どうしたらいいんだろう、そう悩む時があるよね、だから神様に助けてもらわないとね、と呼んでいたのですが、そのような状況に自分たちの蒔いた種で、自分たちの決断でしてしまうこともある、それがこのまさにバビロン捕囚なんだって感じました。彼らの犯した罪を神様は何度も注意し、悔い改めるように導いていたし、再建できる機会を示していたのに、かたくなになって、結局笑い種。それ、本当に笑えない種を蒔いている。神様がせっかくくださった地、昨日の分かち合いでいうなら神様の分け与えてくださったわけ前、相続分を自分で傷つけるなんて。どうせなら人に希望をもたらす種を蒔きたいものです。
アサフはさらに「主よ。いつまででしょうか。あなたは、いつまでもお怒りなのでしょうか。いつまで、あなたのねたみは火のように燃えるのでしょうか。どうか、あなたを知らない国々に、御名を呼び求めない王国の上に、あなたの激しい憤りを注ぎ出してください。彼らはヤコブを食い尽くし、その住む所を荒らしたからです。先祖たちの咎を、私たちのものとして、思い出さないでください。あなたのあわれみが、すみやかに、私たちを迎えますように。私たちは、ひどくおとしめられていますから」と、告白します。
そう、だからといって私たちを責めこむ、食い尽くす者たちを自分たちが悪いんだからしょうがない、と黙って見ていていい、諦める、というわけではない。「主よ。いつまででしょうか。あなたはいつまで…」と、神様の「いつまで」に委ねたのです。神様がどうにかしてくださる、変えて下さる事、再建して下さる事。
事実、エルサレム神殿を破壊し、南ユダを捕囚していったバビロンは滅びに向かいます。捕囚中に彼らを滅ぼそうと目論んだ者たちは死にました。ただ面白いのは、捕らえた張本人、ネブカデネザルは神様の怒りを知り、またその働きを目撃し、この神様こそまことの神様と認めざるを得なくなった、ひれ伏し、変えられたのでした。まあ逆を走った王の時代に、神様がクセルクセス王に働きかけ、メド・ペルシャによって滅ぼされたわけですが。バビロンにも、またイスラエルにとっても変わる機会となった。神様の炎、熱心、思いを見て、向けられている思い、その力強い御手、守り、そうしたものを見て、知って変えられていったのです。
神様はいついつは働きません、いついつは働きます、ではない。バビロン捕囚中も、前の章にあった昔イスラエルが苦難に直面していた時も、「いつも」、「いつまでも」その御手を伸ばしていた。彼らが神様に帰ってくることを待っていた。彼らがそれこそ、このバビロン捕囚のように崩れ去っていかないように、その日が来ないように、はやく帰ってきてほしい、と。私たちだって今日という日は2度とこない。いつまた人は終わりの時を迎えるか分からない。今、神様の伸ばされている救いの御手、これを取らないなんてもったいないじゃないですか。「いつまで?」それ、神様が言いたいところでしょう。いつまであなたは神様から離れ、暗闇の中、罪の中を歩むのか、と。私は待っているのに、と。その待っている神様のもとに帰る時、私たちは速やかに迎えられ、再建されていくのです。時には誰かダニエルのような人を通して、時には人となって生まれる前のイエス様が助けに来られたように、直接的に。
その直接的の究極はまさに、イエス様の十字架。いつまでも悔い改めず神様に立ち返らず、滅びに向かっていく、神からせっかく与えられた命がこの詩のように壊されていく、その様子を見ていられず、その怒りの杯を御子イエス様に注がれたのです。私たちの重荷も痛みも、何より罪の刑罰、一切身代わりにイエス様に背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせた。信じられないほどの愛を持ってでもあなたを取り戻し、再建しようとされたのです。何という愛。それなのに、いつまでも神様から離れて、悲しませ、また周りから笑種にされている場合ではない。神様の喜び、希望の笑いが溢れてほしいじゃないですか。私たち自身も、また周りにも。
アサフは「私たちの救いの神よ。御名の栄光のために、私たちを助けてください。御名のために、私たちを救い出し、私たちの罪をお赦しください。なぜ、国々は、『彼らの神はどこにいるのか』と言うのでしょう。あなたのしもべたちの、流された血の復讐が、私たちの目の前で、国々に思い知らされますように。捕らわれ人のうめきが御前に届きますように。あなたの偉大な力によって、死に定められた人々を生きながらえさせてください。主よ。あなたをそしった、そのそしりの七倍を、私たちの隣人らの胸に返してください。そうすれば、あなたの民、あなたの牧場の羊である私たちは、とこしえまでも、あなたに感謝し、代々限りなくあなたの誉れを語り告げましょう」と、今告白します。「私たちの罪をおゆるし下さい」。この和解がイエス様の十字架にあって成し遂げられる、私たちがこのイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返るなら。イエス様がその御手をまず伸ばされ救ってくださった。神様の栄光がそうして現されるように。物笑いの種ではなく、希望の笑いに満ち溢れるように。私たちの血の贖いを成し遂げられ、勝利を勝ち取ってくださる。そこに溢れる神様のすばらしさはいかばかりか。イエス様の血潮が私たちの内にある様々なものを砕き、癒し、聖めて下さるのです。神様の素晴らしさを思い知らせて下さるのです。
私たちは人にはごめんなさい、とするけど、神様としていますか?神様を悲しませることをしたり、その道に行っていませんか?選んでいませんか?あなたのうめき、叫びを聞いて見捨てず、御子イエス様のいのちをもって救い出された神様があなたの叫びを今日聞いて下さっている。私たちはこの神様に帰ろう。和解させていただき、新しいいのちをいただこう。ここに神様の素晴らしさが溢れることを信じ、代々限りなく、神様を求め、また褒め称え、歩みたいものです。そしてこの希望をアサフのように語り続けるものに。イエス様の十字架の和解がもたらすいのちを信じて、この十字架を慕い仰ぎ見上げよう。「われらに罪を犯すものを、我らが赦す如く、我らの罪をも赦したまえ」と主の祈りで祈ることをイエス様は教えられましたが、そこにもたらされる赦しと回復、これが広がることを信じて。
