愛ゆえに(夫婦) | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。私たちはキリストのからだの部分だからです。『それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。』この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。」

エペソ人への手紙5章22-33節

 

人間関係には様々なものがありますが、そのベースとなるのはやはり家族。その中で心身共に休み、育まれ、また外に出ていく。その形態を人に与えたのは神様。人間が勝手に作ったわけではなく、神様が一人の男性に一人の女性を連れてこられ、夫婦となり、子どもが与えられ、家族という形が始まっていきました。そういう意味で、私たちはこの神様を知る事、これが全ての始まりなわけですね。私たちは完全な愛など持ち合わせてはいませんが、だからこそその基、お手本と言いますか、愛なる神様に倣い、従い歩みたいものですね。神様の完全な愛がここに現わされていく事を願い。

 

ということで、↑はかつてイエス様を迫害しながらも、復活のイエス様に出会い、裁かれるどころか悔い改めに導かれ、罪赦され、新しくされたパウロ、その彼が聖霊様に導かれ、その喜びをさらに全世界に届けようと書いた手紙の一つ、エペソ人への手紙の続きになります。ここから今申し上げました通り、家族の話、そして仕事の話などをパウロは勧めていくのですが、まずここでは夫婦の話。ちなみに、聖書を読む限り、パウロが結婚していたという記述はありません。よく、結婚もしていないのに、子どもがいないのに何がわかるの?なんて言う方がいますが、実は大事なのは人の経験に裏付けされるのではなく、神様に裏付けされること、それが最も大事なのです。

 

神様も神様で、罪とか赦しとか救いとか、そういう霊的なことだけに関心をもって勧めるだけではなく、具体的な私たちの歩みについても気にかけておられます。いや、霊的なことと実生活が別物、というわけではないのです。↑の前でパウロは「御霊様によって歩むことを、愛のうちに歩むこと、そして光の子どもらしく歩むこと」と勧めていました。そう、むしろ助け主なる聖霊様に導かれ歩むことを勧めます。愛のない私たちだからこそその愛する心をいただきながら、世の照らす見た目輝いているように見えてそうではない道ではなく、神様が照らすいのちの道、罪の道ではなく、神様の祝福された歩みの中を歩もう、と。

 

それでまずパウロは聖霊様に導かれ、「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです」と勧めます。自分の経験や知識ではなく、彼はキリストに根差した夫婦の姿を語ります(独身であっても意味がある話なのでよけれ。

 

序論でも申し上げましたが、そもそも夫婦の成り立ちは、神様が定めたものです。アダムに神様が最高の助け手なるエヴァを連れて来て、与え、夫婦となった。「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる」と、パウロが最初の夫婦誕生の時に神様が宣言された言葉を引用している通りです。ですから、この神様抜きに夫婦というのは成り立たない。いや、そこから生まれてきた私たち一人の人間としても、です。

 

それでこのパウロのことばですが、正確に訳すと、「キリストを恐れ尊んで、互いに従い、妻は主に従うように、自分の夫に従いなさい」となります。そう、イエス様の御前に遜り、互いに従い合う、これが大前提なのです。イエス様は互いに仕え合うこと、互いに愛し合うことを教えましたね。それなのに服従させるとか、それはもう根本的に違うわけです。イエス様の望まれる事を願う、従うわけです。頭なるイエス様に従うように、と、まずイエス様に従うこと、イエス様に知恵を求め、助けてもらい、夫婦、家族はそうして成り立っていくのです。そこから神様の素晴らしい御業が成されていく、広がっていく。そこを助けてくださるのが聖霊様なわけですね。ですから、そのかしらなるイエス様抜きにはそれは世の中に見るような色んな問題が出てくるわけです。むしろだからこそ、かしらなるイエス様を抜いて話をするんじゃなくてイエス様を求めるわけです。イエス様と一体になって、イエス様に従う。もし旦那さんが間違っている時は頭なるイエス様に祈り助けてもらう。逆も然り。不完全な私たちだからこの家うさまに従い、互いに愛し合う、その心もいただくわけです。

 

ちなみに、「一体となる」ということばは、当時最強の粘着力をもった接着剤のようなもので表現されていて、無理にはがせばお互い傷つく。だから私たちはイエス様から無理にはがれようとすれば傷だらけになるし、夫婦にあっても同じ。イエス様にあって一つとされたものを癒すのはイエス様だけ。世の方法論ではない、時代がこうだから、ではなく、かしらなるイエス様が変えることができるわけです。イエス様に期待していますか?イエス様に従うことを忘れていませんか?イエス様に不可能な事、ないですよね?この前提が崩れると大変ですよ?

 

一方で夫・旦那さんには実はパウロはめちゃくちゃ厳しいことを勧めています。それは「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです」、と、イエス様がご自身を捧げたように、妻に自身を捧げ、また愛する。イエス様が愛されたように、というのは「いのちがけで愛する」ということなんです。イエス様は失われた羊を取り戻す、神様と和解させるためならご自身のいのちを死に渡されたでしょう?そういう意味では夫の責任は大きいよ、と。

 

でも私たちは命がけで愛するなんて愛など持ち合わせていない。そんな完全な人をわたしは見たことがない。私自身もですが。だからこそ、いのちがけで愛してくださっているイエス様から、いのちがけで離れない。この方から離れない。これが結局大事なのです。頭から離れたら、大変でしょう?命がけで愛してくださっているイエス様がその愛を現し、導いて下さる、だから命がけでこの方から離れず求める、これこそが大事なのです。

 

それは夫婦以外の人間関係であっても同じだと思います。だってこれを勧めているパウロだって独身、その上で本当に大事なのはこのイエス様から命がけで離れない、この神様の知恵で私たちは生かされる。イエス様の命をもってでも取り戻して下さったその関係、そこに神様が注がれる愛、これ以上大きな愛はないのです。これ以上の力ある方法論などない。続きの箇所を見る時に子どもとの親子関係、また仕事の関係などの話になっていきますが、その全てはここに帰結するのです。このイエス様の命がけの愛によって私たちは、夫婦にしても何にしても、「しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものと」してくさる。その愛を罪人なる私たちのために、それでも友と呼び、その友のためにいのちを投げ出し、癒し、新しくしてくださる、聖めて下さる。

 

「それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい」。そのかしらなるイエス様から私たちは愛をいただき、この方の御心を求め、そこからパウロを通して聖霊様が語られた、その先に待つ頭なるイエス様の御業によって私たちが変えられていく、また確かなものとされていく事を期待して。安心してください。あなたの家は、家庭は、あなた自身のかしらはあなたのためにいのちをかけられたイエス様なのですから。このからだの内に招かれて私たちの主として養ってくださるから。

 

夫婦の愛:聖書のエペソ人への手紙より