もっとも小さなものに開かれ注がれたのは | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となった私パウロが言います。あなたがたのためにと私がいただいた、神の恵みによる私の務めについて、あなたがたはすでに聞いたことでしょう。先に簡単に書いたとおり、この奥義は、啓示によって私に知らされたのです。それを読めば、私がキリストの奥義をどう理解しているかがよくわかるはずです。この奥義は、今は、御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、前の時代には、今と同じようには人々に知らされていませんでした。その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。私は、神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって、この福音に仕える者とされました。すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、また、万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現が何であるかを、明らかにするためです。これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、私たちの主キリスト・イエスにおいて成し遂げられた神の永遠のご計画によることです。私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。ですから、私があなたがたのために受けている苦難のゆえに落胆することのないようお願いします。私の受けている苦しみは、そのまま、あなたがたの光栄なのです。」

エペソ人への手紙3章1-13節

 

人は何かあるとあきらめる、壊れて使えない、と思ったら処分する。これ、仕事とか人間関係でもそうですがやられると本当につらいですね。ただ、それを誰かが正しく用いようとするとき変るんですよね。魂を込めるというかなんと言いますか。たとえ壺が割れてしまっても、その割れた壺にろうそくを灯したらどうか?そこから素晴らしい光が溢れる。同じように神様は私たちの内に、壊れた、また小さな私たちの内に、汚れてしまった、疲れてしまった、どうにもならなくなってしまったこの私たちの内に灯火を灯し、いのちあるものとしてくださる。その私たちの内に働かれる神様がさらに素晴らしいことを溢れさせてくださる。御子イエス様のいのちを惜しまず与えてでも。このイエス様にあって現わされた最高の愛があなたの内に、またあなたからさらに他の人へと溢れ流れさせて生かされる。私たちはこのイエス様を諦めてはいけません。この究極の愛を現された方が今日もあなたの内にも働かれているから。

 

さて、↑はかつて神の御子イエス様を迫害していた、そしてイエス様を信じる人たちを迫害、殺すことに加担していたパウロが、神様に見捨てられ、裁かれてもおかしくないところ、復活のイエス様に出会い、裁かれるどころか悔い改めに導かれ、救われ、キリスト者となった後、聖霊様に導かれてこの愛、イエス様の十字架と復活による救い・グッドニュースを各地に伝えるべく、ローマで軟禁状態(自腹で家賃を払いながら鎖に繋がれ、でもある程度の自由はあった)にありながら書き送ったエペソ人への手紙の続きです。

 

↑の前まででパウロは、私たちは神様から離れて世の流れに生き、罪・サタンの手の中にはめられていたことを、しかし同時に、そんなパウロを含め私たちを憐み豊かな神様は見捨てず、御子イエス様のいのちをもって買い戻してくださった、そのイエス様にあって神様は私たちを最高傑作に新しくされ、神様の良いもので今も満たされる、その愛を注がれ続けている、という神様の愛を伝えます。神様が神様との間にあった隔ての壁、罪を取り除き、和解させてくださり、どうでもいい存在ではなく神様の家族・子として迎え入れてくださったのだ、と。

 

さらにパウロは↑で、「こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となった私パウロが言います」と書き始めますね。振り返りでも見たように、ローマの囚人じゃないの?と人によっては思うかもしれません。まあ、この自宅軟禁状態だからこそこうして今、重荷、囚人という苦しみを負いながら、その中でもたらされてる神様の恵み、これが同じように苦しむ人たちに届けられているわけです。神様のその愛、思いはある特定の人だけじゃない、あなたにも変わらず注がれるんだ、と。

 

そんな中で、物理的には今パウロはローマの囚人として捕えられている、でも彼は「キリスト・イエスの囚人」というのです。彼はイエス様に囚われているんだ、と告げるのです。彼はどうも他の手紙を見る限り、「イエス様を得るようにと、イエス様が彼を捕えたのだ」、というのです。イエス様が、ちりあくたのようなものではない、これまで自分こそが正しいんだ、と神様の御心を見ずに自分の考える義によって生きていた、そんな「死に囚われていた」囚人から、イエス様がご自身のもとに引き寄せて、復活のイエス様と同じように、新しいいのちに与らせていただいた、イエス様につなげていただいた状態なんだ、何の罪もないイエス様がその身を差し出してでも私たちを救われた、その愛によってつなげられ、その愛が、その思いが、その御力が、御霊様が注がれ生かされる、その喜びをここで語ったのです。

 

↑の後半では「すべての聖徒たちのうちで一番小さな私」と、当時相当活躍しているパウロ自身、もっとも小さなもの、と告白しています。もちろん12弟子たちと比べたらイエス様が公生涯を歩まれていた頃は一緒にいなかったわけですし、ある意味では小さい。でもそれ以上に、イエス様を迫害し、聖徒たちを迫害しいていた、こんな神様の御前に罪人であり、ある意味では最も価値のなくなってしまった私、その自分をも神様は憐れんでくださり、このイエス様の内につなげられ、この霊が、愛が、その全てが注がれ、生かされている、それが彼の思いなのです。これをパウロはあなたにも受け取ってほしいんだ、と。まさにこんな小さなもののために、罪人のためにさえ、神様は天の窓を閉ざさず、開き、その恵みを、神様の全てを、イエス様のいのちとともに今あなたにも注がれているんだ、と。

 

パウロは↑でさらに、私たちはこのイエス様と同じように共同相続人とされると書きます。厳密にはユダヤ人と同じように、ユダヤ人以外も、ということですが、もっと広く見るなら、異邦人、神様から罪人ゆえに捨てられてもおかしくなかった私たちをイエス様と同じ共同相続人、イエス様と一つとされる、神様の力が、働きが、恵みが注がれ生かされるというのです。神の御子イエス様と一緒にその恵みに与らせていただけるなんてなんとすばらしいこと。これ以上何を求めたらいいのでしょう。この小さなものに神様が与えているのは適当な、どうでもいいものではない、あなたにもこの最高の良いものを受け取ってほしいと神様は全ての良いものを今日も注ぎ、この苦難の時代にあっても、どんな場所にあっても、誰かに捕らえられにっちもさっちもいかないような場面であろうと、覚えられ、そこで仕えるその力を、知恵を注がれるのです。

 

人の知恵、私たちの知恵、奥義ともいえない世の中の知恵や義ではない、神様の奥義が私たちにも現わされている。この神様によって今日生かされている。そこに広がる世界、変えられていくあなた、周りはどれだけ素晴らしいものとなっていくか。あなたはパウロのようにこの神様の素晴らしさがあなたの周りにも広がり回復されていく事、イエス様の愛による素晴らしい御業が現わされていく事をどれだけ期待しているでしょうか?死をいのちに変えた復活の力、罪人の内に、罪の囚人に、価値のない小さなものを憐れまれ、イエス様を身代わりにしてでも救い出そう、変えようとされた、生きるものにしようとしてくださった神様の御力がどれだけすごいか。罪人を死のままではなく復活へと導こうとまでされたんですよ?

 

「この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、また、万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現が何であるかを、明らかに」される。今私たちにも、この世では測れない富、万物を創造された神様の奥義を実現しようとこの思いが注がれている。全てを新しくする、「創造」するという神様のご意思が。イエス様は「義に飢え渇く者は幸いです。その人は満ち足りるからです」と仰られましたが、この世の義、自分の義、これが最高の奥義なんだ、と、そういうものを追い求め、飢え渇くのではなく、神様の義を求める中で、これらに満たされるのです。神様の永遠の計画に招かれ、近づいていいよ、と招いて下さったのです。

 

私たちは今日イエス様の囚人・捕らえられている、イエス様の恵みを得てほしい、とその命をかけて招かれている。囚人、罪人で、そんな愛を受けるに値しない小さなものにさえ。今日私たちはこの愛を受けたものとしてイエス様に留まろう。私たちが世に留まれば落胆するかもしれない、しかしイエス様は私たちを落胆させない。しかし今や神様の義が、愛が、永遠の計画、もうその全てであなた自身を満たそうとイエス様があなたをとらえ、守ってくださっている。イエス様のいのちという代価によって留めてくださっているのです。あなたのいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、あなたを追ってくるから。この方が歓迎して下さった、そのことを覚え私たちはこの方に信頼し、従い、歩もうではありませんか。不確かではない、真実の愛、義を現されるイエス様が今日もあなたをこの素晴らしいいのちの内に歓迎しようと待っておられるから。

 

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