ゆとりが与えられる、そこに生まれる喜び | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「指揮者のために。弦楽器に合わせて。ダビデの賛歌

私が呼ぶとき、答えてください。私の義なる神。あなたは、私の苦しみのときにゆとりを与えてくださいました。私をあわれみ、私の祈りを聞いてください。人の子たちよ。いつまでわたしの栄光をはずかしめ、むなしいものを愛し、まやかしものを慕い求めるのか。セラ 知れ。主は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき、主は聞いてくださる。恐れおののけ。そして罪を犯すな。床の上で自分の心に語り、静まれ。セラ 義のいけにえをささげ、主に拠り頼め。多くの者は言っています。『だれかわれわれに良い目を見せてくれないものか。』主よ。どうか、あなたの御顔の光を、私たちの上に照らしてください。あなたは私の心に喜びを下さいました。それは穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにもまさっています。平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。」

詩篇4篇1-8節

 

人には心というものがあり、その心には色んな影響を自分の心身に、また周りにも与えます。まあできれば自分に、また周りにも良い影響を与えられたらいいのですが。ただ心にはキャパシティがあります。まあその広さと言いますか、ゆとりがなくなりますと視野が狭くなって短絡的になったり、イライラしたり攻撃的になったり、その辺りから人間関係にゆがみが出てきてしまう。何とかしよう、何とかしようともがいて、さらに沼にはまっていく。私たちは不安や恐れ、この世の何かでいっぱいにして、そうしてゆとりを失うわけでが、それはもったいない。神様は神様ご自身で、神様の愛で、その恵みで、あなたの心をいっぱいにしてくださります。あなたの心にゆとりを与えてくださります。その神様の愛で私たちを新しくしてくださる。その本物のいのちの内を歩ませてくださるのです。私たちが神様との間に扉を閉ざして、身動きが取れなくなり、苦しむ、でもそんな私たちを見捨てられない神様は、私たちのために御子イエス様のいのちを身代わりにしてでも、その心を引き裂いてでもあなたを救いに来られたわけですね。あなたに心を、心血を注がれる神様に私たちも心を注ぎ、神様でいっぱいにしていただこうではありませんか。

 

さて、↑で歌われている詩篇ですが、これは古代イスラエル王国2代目の王であったダビデの詩を中心に、イスラエルをエジプトの奴隷状態から救い出す器として神様から選ばれたモーセ、ダビデの息子ソロモン、また滅びたかに思えた一族コラ、バビロン捕囚中、捕囚後のイスラエルを支えたエズラなどの詩を、バビロン捕囚後、もう一度神様の祝福に与りたい、帰ろう、そして本当の意味で回復しようと願いまとめたもので、その中の一つになります。この詩篇の歌い手に、決して成人君主で、もう完璧、という人はいない。でもそうした様々な時代に生きる中で本音で神様とうたうように語り合った中で生まれた、そんな詩が集められたものです。

 

それで、ここで歌われている4篇は、恐らく昨日見ました3篇の続きとして見ていいでしょう。「ダビデがその子アブシャロムからのがれたときの賛歌」と3篇はなっていましたね。ダビデがとんでもない罪・不倫の果ての隠蔽殺人を犯した、そんな神様から離れていた彼は骨が枯れ果てるほどにつらかった、それでも少しずつ回復していく中で、息子のアブシャロムがクーデターを起こし、ダビデをその王座から引きずり降ろそうとし、さらに彼のいのちを狙っていた。彼に多く差し迫る問題、敵、いのちをあらゆる意味で奪おうとしてくる者たち。こんな罪を犯した彼など神様に救われるはずがない、そんな悩みの中で神様が多くの助け手を送ってくださった。「しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です。私は声をあげて、主に呼ばわる。すると、聖なる山から私に答えてくださる」と、神様がそのご意思をもって彼を守ってくださっていた。どんなに絶望の中にあっても神様の守りがある、そういう喜びが沸き起こったのです。

 

そこで↑、4篇。「指揮者のために。弦楽器に合わせて。ダビデの賛歌」この指揮者のために、というのは、指揮者ということばは先導して整えるという意味があります。誰が私たちを先導し、整えてくださるのか、それを覚えよう、と指揮者に渡した詩になります。

 

そのダビデは「私が呼ぶとき、答えてください。私の義なる神。あなたは、私の苦しみのときにゆとりを与えてくださいました。私をあわれみ、私の祈りを聞いてください。人の子たちよ。いつまでわたしの栄光をはずかしめ、むなしいものを愛し、まやかしものを慕い求めるのか。セラ」と、歌い始めます。本当につらい時、ゆとりって本当に必要ですよね。ゆとりがなくいっぱいいっぱいになると本当につらくなります。この時のダビデは実際に大切な家族からクーデターを起こされ、いのちを狙われ、追われる。その前は神様を裏切る大変なことをしてしまった。こんな自分を神様は憐れんでくださるのだろうか、そんな不安が彼の内にあったか、それがまさにこの訴えに出ていますね。

 

今ダビデは神様を呼びます。神様が呼んだら応えてくださるんだ、と、その思いでいっぱいに。小さな子供が両親に助けを求めるように、両親の名を、ママ、パパと叫ぶように。そしてその声を聞いた両親のように心配しかけつけてくれたわけですね。

 

子どもの心って不思議で、誰に助けを求めたらいいのか分かるんです。あれやこれや難しいことを考えずに。普段自分に向き合ってくれている両親に、またある程度成長しても、この人なら助けてくれる、と。でもそれでいいんです。そんな子供のような心をもって神様に呼びかけて良いのです。

 

実はこの「呼ぶ」とき、ということばですが、これは「向き合う」という意味が込められています。向き合って呼ぶ、と言ったらいいのでしょうかね。ただ召使いを呼ぶとかそういうような感覚ではない、神様に向き合い、神様に心を向けて、心から求める、そんなところでしょうか。その時、もう一つの意味合いが生まれてきます。「出会う、出迎える」、そう、その時あなたと向き合っている神様が私たちと出会ってくださる、出迎えてくださるのです。そして「神様の」方法で答えてくださる。私たちの思うところ、想像するところ、世のレベルではない、神様が考える、神様の御心、愛をあなたの内に現し、答えてくださるのです。

 

考えてみてください、「向き合う」、「合う」んです一人では向き合うとは言いません。相手と心が向き合ってそれは成立するわけです。神様は私たちの方を向いて下さっている。その神様に私たちが向く時、本当の意味で向き合う、本当に命ある関係というのはそういうものではないでしょうか。その時、神様のフィールド、御国が広がっていくわけです。この世が働く力の広さではない、神様が働かれる広さは無限です。あなたを丸ごと愛される神様があなたの全人格と言いますか、全生涯に渡り働かれる、どんなに厳しい場面であっても、弱い時も、辛い時も、見捨てられてもおかしくない中にあっても、神様に向き合う時、そこは変えられるのです。心から向き合い叫ぶ時。ダビデの、振り返りでも触れましたとんでもない罪を犯したときさえ見捨てなかった。骨が枯れそうになっている彼を黙って見捨てなかった。今の時代ならもう干されるわ、叩かれるわ、社会的に抹殺されそうになるでしょう、でも神様の愛は違った、彼が回復することを何より願い、彼の応答を待つのです。そして彼のいのちを神様の恵みで広げようとしてくださったのです。

 

ただ神様は罪を黙って見過ごすわけではないんです。ナタンという預言者を通してはきりとこの罪を告げられます。そしてそれなりな結構な罰を受けることになります。そのままでも見捨てるわけではなかった。彼が悔い改めた時、神様は彼を受入れてくださった。出迎えてくださった。それが神様にとっての義なのです。ダビデの呼びかける「私の義なる神」様なのです。

 

私たちに対してもですよ?神様は私たちが神様から離れ、罪を犯している、好き放題に生き、神様を神様とせず生きる、自分の都合のいい神的な物を求め、まことの神様を求めない、自分の快楽、好きなことを追い求める、それを義として歩む私たちを、それでも見捨てなかったのです。私たちが悔い改め、向き直り、神様に立ち返る時、神様は答えてくださる。その罪を御子イエス様に背負わせ、十字架にかけ、罰して死なせたことで、私たちの罪の罰、裁き、死を取り除いて下さったのです。そして私たちがこのイエス様の十字架に向き直り、悔い改め立ち返る時、神様は赦してくださり、出会ってくださり、新しいいのち、ゆとり、広いいのち、神様が豊かに広げられる新しいいのちを与えてくださるのです。神様の子として呼んで下さり。

 

義である神様は罪を放置しない、でも愛でもある神様はその私たちを見捨てず、このイエス様にあって義と愛を貫き通された、そうして神様は答えてくださる。ただ一時的に助けるとか、曖昧な答えをするのではなく、全身全霊をもって答えてくださるのです。神様のフィールド、素晴らしい所に引き上げ、その御心を現し応えてくださるのです。もちろん具体的な助けもこの時ありました。でも私たちの思うレベルを超えた神様の計画をイエス様の十字架にあって現わされた、それゆえの神様の驚くべき答えが待っているのです。

 

ダビデを、それこそ今のネット社会ほどではないにしても貶め、死なせようとする者たちがたくさんいた。でも神様の憐れみは尽きなかったのです。むなしい、まやかしものではない、本物の義と愛をもって答えてくださるのです。だからこそ、セラ、神様に心を持ち上げ声をあげよう、そう訴えるわけですね。

 

ダビデはさらに、「知れ。主は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき、主は聞いてくださる。恐れおののけ。そして罪を犯すな。床の上で自分の心に語り、静まれ。セラ」と歌いますが、本当に特別なんです。だって神の御子イエス様を惜しまず与えてくださった、これ以上特別なことはありませんよ。何の罪もないイエス様を身代わりにされるなんて。その特別に愛された故に、私たちが立ち返る時に得られる、与えられる恵みはいかばかりか。私たちはこの神様を恐れず、求めず誰を求めましょう。神様は呼ぶ、向き合う時、聞いて、答えてくださる。「床」、夜であろうと辛い時であろうと、今心に語り、静まり、この神様を受入れる、この声を聞いて遜り、委ねよう、と訴えるのです。主が休ませてくださるから。

 

「義のいけにえをささげ、主に拠り頼め。多くの者は言っています。『だれかわれわれに良い目を見せてくれないものか。』主よ。どうか、あなたの御顔の光を、私たちの上に照らしてください。あなたは私の心に喜びを下さいました。それは穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにもまさっています。平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます」。私たちのために他にはない、最大のいけにえを、私たちの身代わりに御子イエス様をもって捧げてくださった神様に、私たちは今日より頼もう。呼び求めよう。たとえ周りが良い目なんか見れないなんて状況であろうと、周りに言われようと、神様の御顔が輝き照らされ、導かれる、イエス様の十字架から放たてる希望の光、これが照らす道、周りを見、これに歩もう。ここに神様の喜びが、実りが確かに現される。この世の思い煩い、罪から解き放ち、ご自身のもと、安らかな場所に住まわせてくださる。

 

今日、私たちはこの神様を呼び求めよう。主は喜んで答えてくださる。あなたと、イエス様のいのちを差し出してでも愛し抜かれた神様が向き合ってくださっている。あなたと出会うため、主はあなたが心を向きなおるのを待っておられる。私たちはこの義なる神様がイエス様にあってもたらされた愛に、与えられた希望の光の内、いのちの内を今日も歩もう。主があなたの日々を照らされる、夜を朝に変えてくださるから。

 

祈りの島、ヤシの木と焚き火、聖書の一節