「マサの王レムエルが母から受けた戒めのことば。私の子よ、何を言おうか。私の胎の子よ、何を言おうか。私の誓願の子よ、何を言おうか。あなたの力を女に費やすな。あなたの生き方を王たちを消し去る者にゆだねるな。レムエルよ。酒を飲むことは王のすることではない。王のすることではない。『強い酒はどこだ』とは、君子の言うことではない。酒を飲んで勅令を忘れ、すべて悩む者のさばきを曲げるといけないから。強い酒は滅びようとしている者に与え、ぶどう酒は心の痛んでいる者に与えよ。彼はそれを飲んで自分の貧しさを忘れ、自分の苦しみをもう思い出さないだろう。あなたは口のきけない者のために、また、すべての不幸な人の訴えのために、口を開け。口を開いて、正しくさばき、悩んでいる人や貧しい者の権利を守れ。」
箴言31章1-9節
私たちは誰もがみな、できる事なら自分の好きなことを好きなようにしていきたい、そんな思いがどこかにあるのかもしれません。でも、それではだめだよね、とどこかでブレーキをかけて抑える。でもそれを抑えきれなくなると様々なことが起こるわけですね。まあそうした関係で、人は誰かに何かを言われるのをあまりすき好まないのか、もしくは神様という存在を、聖書のみことばをあまりよく思われないのか。でも一つ忘れないでほしいのは、神様は私たちに幸せであってほしい、だから私たちがブレーキをかけているのではなく、むしろ私たちが危険に、暗闇に陥ることがないよう救いへと招きたいのです。愛する人が危険に向かうのを黙っている人はいないでしょう?大切な我が子を愛する天の父なる神様はむしろ私たちを幸せに、いのちに導くために語られる、あなたを最高傑作につくられた神様があなたにどれだけの思いを注がれているか、このことを覚えましょう。神様はあなたを救うためなら御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えた、死なせてでもあなたを救い出された、それほど愛される天の父なる神様が今日あなたを導いて下さっている。そこまでしてでも導かれた本物のいのちの道を私たちは歩ませていただこうではありませんか。
さて、↑は「マサの王レムエルが母から受けた戒めのことば」になります。箴言の最終章になりますが、ここまで神様からの啓示・知恵を受けたソロモンの箴言であったり、直接的に語りかけてこられたイエス様の言葉そのものであったり、その知恵に対するソロモンの応答的箴言であったり、それを発見したヒゼキヤ王の記録、そしてその彼らの影響を受け、神様の恵みを知ったアグルの記録(これは前回まで見ていた30章)と見てきましたが、最後はレムエル王へのお母さんが語り示されたものになります。
そもそもマサの王って誰?といったところですが、これは30章で見たように「宣告」という意味ですので、レムエル王に向けた宣告、また私たちにも向けられ語られた宣告、と言った方が良いでしょう。個人に語られた宣告をわざわざこうして聖書に残した、逆に外典扱いで聖書に加えられなかった知恵がある事を考えると、聖霊様が私たちにこれは知ってほしい、と願ってこの箴言に加えられたのでしょうね。なお、レムエル王はいつの時代の誰なのか、明確ではありません。ある意味では理想の王を象徴するもの、という説もあれば、アラブ系の部族の王、という説など、「諸説あり」です。
ではレムエルの母は何を神様に導かれ、ここで語っているのか。このレムエルがどの王なのか分からない中で、その名前にヒントが一つ隠されています。それは「神にささげられたもの、神に属するもの」という意味です。つまり、あなたは神様に属するものなんだよ、とまず訴えているわけです。私たちはそもそも神様によって創られたものなのですから。世や誰かにとらわれる、暗闇、罪、サタンに属するものではなく、神様に属する、神様に守られているものなんだ、そのことを忘れないで、とまず訴えるわけですね。
その思いはさらに、「私の子よ、何を言おうか。私の胎の子よ、何を言おうか。私の誓願の子よ、何を言おうか」と言う呼びかけに現れています。ここまでくるとレムエルのお母さん、というよりも神様がレムエルの母を通して預言的に語られた、そのことが見えてきますね。ことば的にもそうなのですが。誰かがあなたは神様に属するものなんだ、と訴える以上に、神様にとって、あなたは神様の大切な子であり、胎の子である、苦しみ抜いて生み出された子なのです。え?神様が苦しみ抜いて生み出した?
これはとても大きな訴えです。お母さんが苦しみの果てに生み出す、神様に子を授かることを願って生まれてくる子、それ以上に神様が苦しみ抜いて生み出された子なのです。どういうことか。それは私たちは本来神様の子なんて呼ばれるに値しないものでした。↑で指摘されているような神様ではなく、性てあったり酒であったり、そうしたものにより頼み、生きようとする、神様を神様とせず、別なもので酔い、満足しようとする、そんな私たちを神様は見捨てるのではなく、わが子とするため、御子イエス様に私たちのこの罪を身代わりに背負わせたのです。私たちをもう一度我が子として迎え入れるために、本来私たちが追わなければいけない苦しみ、痛み、罪の刑罰を御子イエス様に身代わりに背負わせ、十字架上で罰し、死なせたのです。
神様にとってそんなことをするなんてありえない。ありえない話ですよ。天地万物の創造前からずっと共におられたその密接な関係を崩してでも、御子イエス様を死なせてでもあなたを救わんとされた、新しく生まれさせる、生みだされたのですから。神様にとっての痛み、それを通してあなたは神様のもの、神様に属するものへとされたのです。罪に属するものでも暗闇に属するものでも、何かに依存し、それに属するものでもなく、御子イエス様のいのちにあってつなげられた、回復された、新しくされた、生みだされたのです。それゆえに神様の惜しまない恵みが注がれている。最後の一滴まで絞り出して。そうして、神様に属するもの、家族、子とされたのです。その大切な我が子に神様は今、聖霊様を通して、レムエルの母を通して語られるわけです。
あなたはこの神様の切実な、絞り出すように訴えられた言葉、「私の子よ、何を言おうか。私の胎の子よ、何を言おうか。私の誓願の子よ、何を言おうか」、このことばをどう受け止めるでしょう。子とするため、誓願の子とされた、神様が愛を誓われたこの神様をあなたはどう受け止めているでしょうか。この神様が語られるだけではなくその愛を実行される、御心を愛をもって行われる、その神様を私たちは虐げてはいけませんね。
それで神様は聖霊様を通してレムエルの母とされる女性に「あなたの力を女に費やすな。あなたの生き方を王たちを消し去る者にゆだねるな。レムエルよ。酒を飲むことは王のすることではない。王のすることではない。『強い酒はどこだ』とは、君子の言うことではない。酒を飲んで勅令を忘れ、すべて悩む者のさばきを曲げるといけないから。強い酒は滅びようとしている者に与え、ぶどう酒は心の痛んでいる者に与えよ。彼はそれを飲んで自分の貧しさを忘れ、自分の苦しみをもう思い出さないだろう」と示されたわけですが、特にこの女性問題に失敗したのがソロモン王(奥さんが700人、妾が300人)、まあダビデ王もそう、多くの王たちはこれに失敗。性的な問題でいえば現在はなお一層様々なことを引き起こしていますね。
信仰者ダビデ王でさえ、わかっているだけで8人の奥さんがいました。いのちを賭して与えられた奥さんがいたのに。さらに、その奥さんが一時奪われたのですが、取り戻した後、なんと不倫をしてしまった。奥さんのいる部下・兵士が戦地に行っている時、彼女を見初め、不倫関係をもち、子どもをその女性・バテシェバが授かったことを知ると、これを隠ぺいするためにその兵を呼び戻して奥さんと床を共にするように命じたり、それに従わなかった彼を戦地の最前線で死ぬように仕向け、殺すという最悪の罪を犯した。そして授かった子も死に、骨が枯れるほど苦しみ抜いた、またその状態を見た子どもたちもあまり良くは思わず、クーデターは起こされるし、大変なことになりました。奥さんも傷つき、家族も傷つき、国も混乱。王が見るべき方向を見失ったらいったい国はどうなるでしょう。
彼は神様によって与えられた最初の、本人もとても喜んだ女性に喜びを見出さず、他に走った。これは私たちにも共通して言える事です。誰もが性に対して問題行動をするわけでもないでしょうが、異性にしても、何にしても、神様から与えられている人、何かに対して喜びを見出す、神様がその中にどれだけ良いものを、良いことを与えようとしているか、行おうとしているか、これを見逃すと、神様の導こうとしている最高の何かを失いかねません。悔い改めれば回復もするかもしれない、しかしダビデがそうであったように、神様から離れていてはその霊は失われ、骨が枯れたようにいのちを失ったようになります。
神様があなたを神様に属するものに、苦しみ抜いて生み出されたあなたにどれだけの愛を、恵みを注いでいるか。それが大したことのないもの?どうでもいいもの?とんでもない。私たちは見るべき方、私たちを生み出された、イエス様のいのちにあって生み出された、神様に属するものとされた、その思いを忘れてはいけません。そこまでしてあなたを導かれる神様の道を、御心から離れてはいけません。神様の恵みを消し去るようなものに身を、心を委ねるのではなく、あなたに本物のいのちをもたらす神様に委ねましょう。その関係、男女関係だけではなくすべての所において、時には難しく感じる事があるでしょう、でも私たちは神様に属させていただいているのですから、ここに神様の憐れみ、回復を、御心を願い求めるなら、そこは回復していくのではないでしょうか、神様に属する、より良いものに変えられるのではないでしょうか。
私たちは満たされず、何かにある意味では依存してしまいます。神様以外の、今の異性の問題であったり、自分を満たすもの、偶像的な物、何かにとらわれてしまいます。その象徴として↑でお酒が取りあげられていますが、それらにあなたの道を、身を委ねて神様の導こうとしている恵みから離れてはいけない、見失ってはいけない。むしろ、パウロがその手紙で「ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい」と勧めるように、愚かな道ではなく、あなたを迷わせる、放蕩させる、神様から与えられた命を放蕩し、傷つけるものに身を委ねる、酔うのではなく、聖霊様に酔う、満たされ、この方に身を委ねようではありませんか。神様に属するもの、子とするために、苦しみ抜いて生み出されたあなた、そのあなたに勅令と言いますか、誓われた愛、果たそうとされる神様の御心がどれだけ素晴らしいか。あなたを酔わせると言いますか楽しませるために、幸せにするために支払われた代価を思うと、これ以上何を求めるだろう。神様のその愛は酔えない?満足できない?いえ、むしろあなたへの愛を最後の一滴まで絞り出し注がれる、注がれた神様の愛がどれだけ素晴らしいか、これをもっと飲んで、味わおうではありませんか。イエス様の御からだを割き、その血潮を流されてでもあなたに与えられる、注がれるその愛、御心を、その御業を、このいのちの日々を。神様が全てを新しくしてくださる。
「あなたは口のきけない者のために、また、すべての不幸な人の訴えのために、口を開け。口を開いて、正しくさばき、悩んでいる人や貧しい者の権利を守れ」、と↑で最後に語られていますが、私たちは神様に属するものとして執り成し祈る者、またその愛を現す、仕えるものでありたいですね。そこに神様の愛が広がることを願って。何より私たちがそうして思い悩む時にさえ神様は働かれていることを覚えよう。今日あなたが神様に属するもの、天にその国籍を置かせていただいた、その神様の愛をどこまでも求めようではありませんか。この神様の正しさ、愛が今日も溢れることを祈りつつ。
