「しもべのことを、その主人に中傷してはならない。そうでないと、彼はあなたをのろい、あなたは罰せられる。自分の父をのろい、自分の母を祝福しない世代。自分をきよいと見、汚れを洗わない世代。なんとも、その目が高く、まぶたが上がっている世代。歯が剣のようで、きばが刀のような世代。彼らは地の苦しむ者を、人のうちの貧しい者を食い尽くす。」
箴言30章10-14節
日本では○○世代という言い方がありますね。若干差別的な言い方に聞こえると言いますか、何か見くだしているように聞こえないこともないですが。昭和世代、ゆとり世代?Z世代などなど。まあそれぞれの時代背景があってそういう考え方がそれぞれの世代で生まれたのかな、と思ったりもしますが。そうした価値観の変化に振り回される、縛られる、そうでなければその人はおかしいとか、そういう風潮に疲れますね。ただ、思うのですが、私たちは時代がどうだとか、あのひとはどうだから、とかそういうものに振り回されるのではなく、自分のいのちの価値をもう一度考えてみましょう。私たちのいのちは、他の誰でもない、あなたを愛しつくられた、神様のイメージ、似姿に似せてつくられ、その霊を吹き込まれ与えられた命です。この方に愛されている、この方があなたを支え、日々養ってくださり、導いて下さっている。その全ての良いもので満たそうといつも働かれているのです。それこそ御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えるほどに。私たちはこのイエス様のいのちにあって神様のもの、家族とされる、この喜びを忘れず歩もう。もう他のものに振り回されてはいけない。この方が与えて下さった命、開かれた道をどこまでもまっすぐ進もうではありませんか。
さて、↑は「マサの人ヤケの子アグルのことば。イティエルに告げ、イティエルとウカルに告げたことば」、その続きになります。マサというのは人や地域の名前ではなく、「宣告」という意味で、アグル(集める)はアラビア語圏に住んでいる人だったようです。彼はソロモンの箴言・知恵のことばを読んだのか、また↑の前の数章見ていたヒゼキヤ王の書き写した記録を見てか、はたまた聖霊様を通して神様の宣告を聞いてか、神様不在で歩んできた自分の惨めさを知り、そしてこの天地万物を創られた神様を求めこの箴言を残します。まさにこの箴言の最初に、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」とあったように、神様を恐れること、そこから本来あるべき自分を回復させていただく、神様の恵みで満たしていただくことを求めたわけですね。ここまで語られてきた言葉を借りるなら、付け加えたり減らしたりする必要のない、純粋な神様のみことば、神様を求めて。
そんな中でアグルはさらに↑で「しもべのことを、その主人に中傷してはならない。そうでないと、彼はあなたをのろい、あなたは罰せられる」と書き残します。これはもう、当たり前のことです。いや、しもべと主人云々の前に、「中傷」するという事自体がまず問題。私の知っている職場で、「あほ、○○、まぬけ」、もうここに書くと色々引っかかるくらいひどい誹謗中傷を部下に投げかけてばかりいる人がいます。しかしある時彼が我慢できなくなり、ついに「そんなこと言うのはやめてください」というと、「お前、そんなことを俺に言える立場にあるとでも思っているのか?そんなことを言うならもうお前には何も教えてやらない。何も言わない」と言って、その後彼に対してどんなに挨拶をしても無視をし続けるという事を続けています。教えることにおいて、そんな言葉を使わなければ教えられない、会話ができない、それってどうなんだろう。一体その人はどれだけ偉いのだろう、「そんなことを俺に言える立場」と言えるほどその人の立場は偉いのでしょうか、という話です。
人を中傷する人の特徴として、自分が間違っていない(ちなみに今挙げたその人は言うわりに結構間違える、間違いを指摘すると、おまえ言い訳ばかりだな、と言いながら先の言葉を繰り返す)、自分は間違えるはずがない、自分は偉い、という高慢的な特徴を持っている気がします。でも、これ、上司と部下だけの関係だけではなく、普通の人間同士でもありますよ?マウントを取りたがるというか、相手をともかく否定する、先に挙げた、とても言葉に出せないような言葉を並べる人、言わないけど心に思っているからか、行動にそれが現れる人。困ったことに、クリスチャンの中でもこれがあるのが残念と言いますか。ともかく自分を良く見せたい、自分をほめてもらいたい、いわゆる承認願望と言ったところでしょうか。自分に自信がないから、そう見せたいのか。その辺りなら、まだなんとかなるのかもしれませんが、相手をそれによってコントロールしたい、という風な支配的になってくると危険です。しかも、これをきづかずにやってしまうことが。
でも、これはこのアグルのことばにある通り、何も良いものをもたらさない。だから今の時代、特にハラスメントで苦しむ人が出ているわけですよね。それにそのハラスメントをする人も今まで見逃されていたのが罰せられるようになってきた。まさにアグルの警告と言いますか、アグルを通して語られる神様の警告そのもの。いや、罰する罰せられる以上に、そんな関係、悲しいじゃないですか。そもそも私たちは神様によって創られた素晴らしい存在。神様も、互いに愛し合う事、あなたの隣人をあなた自身のように愛することを何度も勧めます。その互いに愛する中に神様の愛、御力が溢れる。呪いや罰ではなく、祝福が溢れるのではないでしょうか。傷つけ合うのではなく、神様が、神様の愛によって、神様の御心によって建て上げてくださるのです。
このアグルのことばを読みながら思うのは、私たちは主人といいますか、神様を自分のしもべのように見て、中傷していないだろうか。自分のコントロール下に置きたくて、自分の思う通りにしない神様を否定したり、罵ったりしていないだろうか、そんな風に思ってしまうのです。もちろん私自身もいつも問われる事なのでしょうが。そのゆえに、神様の祝福ではなく呪いを受けてしまう、罰せられる、そんな悲しいことになってはいけないですよね。神様は主、主人、でも私たちを部下のように扱ったり罵ったりするわけではない。
むしろ私たちを愛し、わが子と呼んで下さり、また友と呼んで下さる。こんな神様を神様とも思わないような私たちを罵り捨てるのではなく、むしろこんな私たちの負っている様々思い煩いや痛み、自分を良く見せざるを得ないような痛みがあるかもしれない、そんなものも含め、何より罪も一切、私たちの身代わりに御子イエス様に背負わせ、十字架上で罰し、死なせる、そこまでしてでもあなたを愛してくださっているのです。この方が、そうした色んな思いで支配されている痛み、哀しみ、罪の束縛から解放し、癒そうとしてくださった。何と感謝なことでしょう。私たちがこのイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返るなら、私たちのこの重荷も、罪も一切取り除かれ、罪赦され、新しくされるのです。復活のイエス様と同じ恵みに与らせていただける、神様の子として迎え入れてくださるのです。この愛の中に、愛の関係の中に招き入れられるのです。それを傷つけ壊すようなことは私たちは気を付けたいものですね。
アグルはその神様の愛を示しながら、さらに「自分の父をのろい、自分の母を祝福しない世代。自分をきよいと見、汚れを洗わない世代。なんとも、その目が高く、まぶたが上がっている世代。歯が剣のようで、きばが刀のような世代。彼らは地の苦しむ者を、人のうちの貧しい者を食い尽くす」と語ります。~な世代、と取り上げていますが、序論でも書きましたね、私たちは色んな○○世代という中に生きている、レッテル張りされることもありますが、あるいみでは~であるのが当たり前、そんな価値観で育ってきてしまったゆえのはなしなのかもしれません。色んなもの、環境の影響を受けて私たちは育ってきていますから。ただ、先にも申し上げました通り、私たちを本当の意味で良いものに建て上げてくださるのは神様です。
イエス様のいのちをかけてでも救われたその愛ゆえに、私たちは神様から御霊様をいただき(聖霊様が降り、満たされることで)、イエス様の似姿、ご性質に似た者へと変えられていきます。まさにこの神様の愛が、お働きが、知恵・御心が現わされているわけですね。様々なものに支配されているような時代にあって神様は働かれ、良いものへ、まさにイエス様の道、イエス様のいのちゆえに与えられた新しいいのちの中を歩ませていただいている、導かれているわけです。そんなあなたのいのちを○○世代と言われるような、様々なものに支配させてはいけない、満ち溢れさせてはいけない。
たとえばですが、「自分の父をのろい、自分の母を祝福しない」とありますが、まさに現在のうまくいかない親子関係をも現している所ではありますが、まあうまくいっている親子もあるでしょう、でも神様は十戒の中で「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。それは、あなたの齢が長くなるため、また、あなたの神、主が与えようとしておられる地で、しあわせになるためである」と示されているように、この親子関係、家庭の中に神様の愛が、家庭のかしらなるイエス様の愛が、知恵が、御心が溢れることを祈る中で、まさに乗りではなく祝福が溢れるわけです。もちろん祝福できない、そんな難しい時期もあるかもしれない。でもだからこそその中に神様を求めるわけです。
「自分をきよいと見、汚れを洗わない世代」、とありますが、私たちの内にあるものをもうありのままでいいんだよ、とそのままにするのではなく、その問題や汚れ、様々なものを神様に委ねて良いんです。今見た家庭の話然り。それを放置して罪を良いよいいよありのままで、としまったら、誰かが傷ついているのを気にもかけず放置するなら、なんと悲しいこと。神様がそれを洗い聖め、新しくしてくださるならなおのこと最高ではありませんか。
「なんとも、その目が高く、まぶたが上がっている世代」、自分こそが義、正しい、とする、そうして高慢になるのでもなく、また神様を見降し他のものに頼るのでもなく、あなたのために、あなたを救うためなら御子イエス様のいのちさえ惜しまなかった神様の義があなたに現されることを求めずしてどうしましょう。もっと神様のなさることを求める、目を上げ、主の栄光・素晴らしさを求めてみませんか?自分が正しい、これが今の世代、時代のやり方、自分のやり方だ、とするのではなく、神様の素晴らしさがあふれることを。
だって私たちは神様のことされたんですよ。私たちの国籍は天にある。ある意味では神様世代と言いますか、神様によってあたしくされた者たちなのです。そんな素晴らしい中に招かれて、どうして世の世代にとらわれることなどできましょう、それを求める必要があるでしょう。「歯が剣のようで、きばが刀のような世代」とあるように、神様から与えられた、与えられるはずの恵みをあなた自身から、またあなたの周りの人から奪う、傷つけていいはずがあるでしょう。あなたは、あなたの隣人は御子イエス様にあって買い戻された、新しくされたものなんですよ?私たちはもうそうしたものに食いつくされてはいけない。ただただこのイエス様のいのちにあっていのち溢れるものとされることを切に求めよう。神様のすばらしさ・栄光が溢れることを祈りつつ。見かけだけの富、そうしたものに満たされ貧しくなるのではなく、神様の富、恵みで満ち溢れさせていただこう、求めようではありませんか。神様は神様を求める人を貧しくさせず、その恵みで満ち溢れ、富ませてくださるから。
