「怒る者は争いを引き起こし、憤る者は多くのそむきの罪を犯す。人の高ぶりはその人を低くし、心の低い人は誉れをつかむ。盗人にくみする者は自分自身を憎む者だ。彼はのろいを聞いても何も言わない。人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。支配者の顔色をうかがう者は多い。しかし人をさばくのは主である。不正な人は正しい人に忌みきらわれ、行ないの正しい人は悪者に忌みきらわれる。」
箴言29章22-27節
私たちには色んな感情があります。いわゆる喜怒哀楽ですね。喜びや楽しみは良い感情、哀しみは辛く、怒りは破壊的な物をもたらす。特に怒りというのは衝動的な選択・短絡的な判断から後悔する発言をしたりします。暴言・皮肉・過度な批判や無視・攻撃的態度などによって不必要な対立を生みます。ある職場では、自分の思う通りにならなくて怒り、その人の思う通りの時間に動かない人を批判、「もうお前とは話したくもない」と言って切り捨てる。でも実際はお客さんのために動いた結果で、誰しもがそれが間違いだということを知っていた。そうしたものは結局取り返しの対かないことを招きかねないのです。しかし、それらを覆うちからがあるのです。それは愛。神様の愛は全てを変える力があるのです。本来受ける価値のないはずの私たちを、それでも我が子と呼び、その我が子のために御子イエス様のいのちを身代わりにしてでも、私たちを回復し、本当の喜び、いのちで満たそうとしてくださった。この神様の愛によって私たちは本当の意味で生きることができるのです。私たちはこの世の様々なものに支配されるのではなく、心をとらわれるのではなく、この神様の愛をどこまでも求めようではありませんか。
さて、↑は神様が古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向けて語られ示された知恵・いのちのことば、箴言で、さらにソロモンの時から約250年後、当時南ユダ王国王だったヒゼキヤ王が、国の腐敗とアッシリア帝国という国家存亡の危機が迫る中でこれを発見し、今こそこの不安定、どうにもならない時神様に心を向けよう、帰ろうと、一言一句変えることなく書き写した記録の続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られましたが、神様こそ私たちの生きるための全ての始まりなんですよね。神様が私たちをつくられ、神様が私たちにいのちを与えてくださった。神様がその息吹・霊を私たちに吹き込まれたことによって私たちは生きたものとなった。私たちはこの神様のご意思、愛によって生かされているわけですね。初めなる神様は今も変わることなく私たちにその愛を、御思いを、知恵・御心を現して下さっている、あなたを捨てず、蔑まず、愛をもって。だからこの関係を、まことの愛の関係を蔑まないで、捨てないで、と訴えられているわけですね。
そんな神様のことばにつくせない愛をさらにソロモに、そして彼を通してヒゼキヤ王に、さらにその知恵は今も人々に現されながら今に至り、私たちに向けて、「怒る者は争いを引き起こし、憤る者は多くのそむきの罪を犯す。人の高ぶりはその人を低くし、心の低い人は誉れをつかむ」と語られ、示されます。
怒りという感情は誰しもが持ち合わせています。怒りっぽい人、すぐに怒る人。誰でも持っている感情なんだから仕方のないこと、ではすまないほどこの怒りというのは力があるのです。そもそも怒りというのは様々な問題を引き起こします。怒りによって思考力が低下し、判断を誤ることになり、その怒りからとる行動、言動が人を遠ざけることになり、対立を生む。でもそれ以上に厄介なのは私たちの心身にまで影響を及ぼすわけです。
怒る者は争いを引き起こす、とある通り、まさに争い、罪の支配するところへ変わってしまう。そこでパウロは、エペソ人への手紙の中で「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい」と書き残しています。怒りに支配されていると、それが罪に変容していく、だから日が暮れるまで憤るのではなく、この怒りを神様に代えていただくことを勧めるわけです。怒りは、イエス様の弟ヤコブも手紙に「人の怒りは神の義を実現しないのです」と書き残すように、神様の義(正しさ)を現すことはありません。だからこそ、私たちは私たちの思いなどからくる怒り、誰かに何かされたことによって満ち溢れる怒りによって行動するのではなく、神様の義が、正しさが現わされるよう、祈る、また現せるよう助けてください、と祈る必要があります。争いではなく義。自分が納得しないから押し通すのではなく神様の義を。
イエス様は怒りによって赦せずにいるのではなく、何度でも、それこそ7度を70回(要するに無限に)赦すように教えました。その人が悔い改めるなら、と仰られていますが、それでもその赦しの心、愛が、自分もイエス様を十字架に架けて殺したという大罪を犯した私たちを赦された、その愛を受けたものとして赦す心を祈り求め、そこに神様の愛が働くなら、全ては変えられる。怒りによって何かを破壊したり、人間関係を壊したり、神様が出会わせた出会いを壊すのではなく、和解に向かうなら、そこに働く神様の義は、力は、愛はどれだけ素晴らしいものか、素晴らしいところ、関係へと変えられるか、相手の人が悔い改めに向かうなら。最初から悔い改めに人なんて向かえない、でももし聖霊様に導かれ悔い改めに導くなら、全く変えられるのではないでしょうか。神様の国とその義とを第一に求めなさい、とイエス様が仰られた、それなら求める先に人の義でによって、成そうとすることではない神様の最高の義が現わされるのではないでしょうか。
イエス様は「だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい」とも仰られた。怒りのまま捧げる捧げもの、怒ってるけど神様愛してます、と何か矛盾している状態になるのではなく、まず神様にこの怒りや問題を取り除いていただく、それが大事、ということです。そうでないと先程のエペソの手紙にあったように、サタンが働く機会となってしまう。むしろその機会をむしろ神様に立ち返り、怒りを取り除いていただく、怒りを持ってしまったその原因を癒していただく、それこそが大事なのです。
そもそも私たちは神様の怒りを受けていたはずのものでした。私たちは罪ゆえにその怒りによって滅ぼされてもおかしくなかったのです。神様から離れ、好きなように行き、神様を神様とせず、自分こそ神であるかのようにふるまい、神様を退け…本来だから神様から見捨てられてもおかしくなかった。神様の怒りによって捨てられてもおかしくなかった。でも神様は私たちに向けられるはずだった罪の怒りを、御子イエス様に注がれたのです。聖書を読んでいると神様の怒り、イエス様が怒られたシーンが出てくるから、わたしだって怒ってもいいんだ、という人もいるかもしれませんが、そうではありません。神様が、イエス様が起こられているのは罪に対してです。神様を知っている、信じていると言いながら民を躓かせる宗教家たちや自称クリスチャンたち(当時から偽クリスチャンは多くいた)に向けて。そしてこれらを神様は聖めようとした、怒りゆえに何もしないのではなく、その愛によって罪を取り除き癒そうとされた。その怒りの究極、怒りを癒す究極がまさにイエス様が背負われた十字架。私たちが取り除かれるその身代わりにイエス様がそのいのちを取り除かれたのです。罰せられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださる。このイエス様の十字架ゆえに、神様はその怒りではなく、破壊ではなく平安をもたらすのです、私たちに。
これだけの愛を受けていて、私たちは赦さない、怒るのは当然?それ、イエス様のなされたことと逆です。それこそサタンの思うつぼ。罪に対して、誰かに対して怒ることで終わらせるのではなく、愛する、これがイエス様のなされた事。イエス様は怒りゆえに私たちに無関心になるのではなく、その愛によって悔い改めに導き、回復させようとしてくださった。怒りではなく喜びに、悔い改めにより、争いではなくいのちに変えられたのです。
この神様の愛の力に不可能なことはない。人の愛には限界はありますが、神様の愛の力は限りがありません。全てを変える力がある。だからこそ、↑で「人の高ぶりはその人を低くし、心の低い人は誉れをつかむ」と語られているように、私たちは誰かに高ぶり怒るのでもなく、神様に納得がいかず高ぶり、下手をすればその前にあるように神様に怒って神様と争いをするのではなく、神様の御前にひれ伏し、心を低くしよう。その時、神様は私たちに驚くべき誉れが与えられるのです。神様の価値が、最高が現わされ、私たちはそれを得るのです。「善を行う者には、栄光と誉れと平和が与えられる」とパウロは迫害の中でも、彼らに対する怒りではなく祈り、また仕える中にあってまさに神様のすばらしさ、誉れ、そして平和を見たのです。
「盗人にくみする者は自分自身を憎む者だ。彼はのろいを聞いても何も言わない。人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。支配者の顔色をうかがう者は多い。しかし人をさばくのは主である。不正な人は正しい人に忌みきらわれ、行ないの正しい人は悪者に忌みきらわれる」と↑の最後で語られていますが、私たちは盗人になる事は滅多にないでしょう。しかし似たように神様を求めず、世のやり方、神様の方法に納得いかず、神様ではなく世にくみして呪いを受けるようなことがあってはいけない。私たちは神様の祝福が溢れること、今直面している問題や、何もなくとも遣わされ地得る場所に溢れることを、人を恐れるのではなく、神様を恐れる、遜ることを第一に忘れないようにしよう。誰かの顔色を窺ってそれに自身が染められるのではなく、神様の思い、愛に染められて私たちの心、また周り、遣わされている場所、そこに癒しが成ることを祈ろうではありませんか。神様の正しさがここに現わされる事を。
それでも世の中色んな事があって↑の一番上にあるような怒り、もしくは悲しみでいっぱいになってしまうことだってある。パウロは「私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。あなたがたが主の杯を飲んだうえ、さらに悪霊の杯を飲むことは、できないことです。主の食卓にあずかったうえ、さらに悪霊の食卓にあずかることはできないことです」と手紙で書き残しますだから、神様はあなたをイエス様の完全な愛で満たそうとされた。ここにすべてがあるんだ、と。私たちはこのイエス様の十字架による杯をいただきましょう。どんな時であっても、他のものと混ぜ合わせたり、悩んで世やサタンの杯に身を委ねる、満たそうとしてはいけない。このイエス様がその身を割かれてでもあなたに癒しを、平安をもたらされた十字架にいつも帰り、この方から愛する心、力をいただこう。そしてこの全地が神様のいのち、霊に溢れ、癒され、変えられる事を祈り、仕え合う者でありたいものです。
「私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか」。あなたはこのイエス様の血潮、割かれた御からだを受け取っていますか?イエス様のものとされた、与らせていただいた喜びに今日満たされて生きていますか?「わが父よ、できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、御心のままに」と祈りながら十字架ですべてを引き受けられたイエス様、そうして取り除かれ新しくされたいのち、私たちは今日何でいっぱいにしているでしょうか。
