「むちと叱責とは知恵を与える。わがままにさせた子は、母に恥を見させる。悪者がふえると、そむきの罪も増す。しかし正しい者は彼らの滅びを見る。あなたの子を懲らせ。そうすれば、彼はあなたを安らかにし、あなたの心に喜びを与える。幻がなければ、民はほしいままにふるまう。しかし律法を守る者は幸いである。しもべをことばだけで戒めることはできない。彼はそれがわかっても、反応がない。軽率に話をする人を見ただろう。彼よりも愚かな者のほうが、まだ望みがある。自分のしもべを幼い時から甘やかすと、ついには彼は手におえない者になる。」
箴言29章15-21節
人には耳があり、人の話を、また神様のことばを聞く、という重要性を持っています。聴覚障害があっても同じです。手話や様々な手段で伝達手段もありますね。補聴器もそうでしょう。私も左耳があまりよくないですし、良く聞こえないこともあります。問題なのは聴力云々ではなく、そうして話を聞く中で私たちは形づくられていく、成長していくわけですね。逆にその取り入れる情報次第では私たちはマイナスの方向に引っ張られるわけですから、何でもかんでも聞く、受け入れるというのも違いますが。そういう意味では語る側も聞く側も、お互いへりくだる、それが必要なのかもしれませんね。神様は何より私たちの内にその愛を、御心を働かせたい。愛するわが子のために天の父なる神様は、ご自身の全てを惜しむことなく与え、御子イエス様のいのちをあなたを救うためならと、差し出されるほどに愛されている。この方が私たちの内に働こうとされている。私たちはこの神様の愛の前にへりくだり、聞き、また語り合う、その中に神様の栄光・素晴らしさが溢れることを祈り求めたいものです。イエス様がいつも聴く耳のあるものは聞きなさい、と訴えながらその愛を語り、それを現そうとされていた、この神様の御心の前にへりくだり。
さて、↑は神様が、古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向けて語られ示された箴言、知恵・いのちのことばで、彼の時から約250年後、当時南ユダ王国王だったヒゼキヤ王が、国の腐敗とアッシリア帝国という国家存亡の危機が迫る中で発見した中で、本当の知恵なる神様、天の父なる神様とのいのちの関係に帰ろう、と考え、一言一句変えることなく書き写した記録の続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られましたが、神様は私たちをわが子、と呼んで下さるんですよね。その愛するわが子が滅びるのはしのびない、神様の恵みを失い、傷つき倒れる、敵に奪われる、彼らの魂が失われていくことを悲しまれ、その愛を伸ばされ、また御心を行われるわけですね。まず初めにその愛を示しながら私たちを本来の神様との親子関係に招こう、回復させよう、と。
そんな神様の熱心で熱い思い・愛をさらに、ソロモ王に、そして彼を通してヒゼキヤ王に、あさらにその知恵は今も人々に現されながら今に至り、私たちに向けて、「むちと叱責とは知恵を与える。わがままにさせた子は、母に恥を見させる」と語られ、示されます。これは主には親子関係を現すといいますか、それに関する神様の勧めです。その勧めを受けたソロモン、ヒゼキヤが残したものといいますか。まあ厳密にはこの箴言で親子問題について何度も触れられてきましたが、箴言がもうすぐ終わる中で、改めて家族、そしてその家族の内に働かれる神様、そしてその神様との関係について見て行きます。
それで↑ですが、恐らく今の時代、DVの問題やハラスメントなどいろいろ言われるので、むちなんて使ったら、ちょっとでも強く𠮟ったら児童相談所に通報されるのではないか、と恐れてそうしたものが、そういう事を恐れる前に、まず私たちは家族と正しく向き合う、そこが始まり。もっというなら、家族を定められた神様に。これが抜けるとすべてがおかしくなります。両親の自分勝手や弱さが出て、ただいたずらに鞭をふるう、暴言を吐く。そうじゃなくて、神様の愛を求める、神様の愛、御心を求める中で、正しい方向に家族が向かうことができるのではないか。ここで出てくるむちと叱責というのは、ただ単純なしつけのためにつかうものではない、いや今の時代、躾の名の下で好き放題これをつかっていますが、そうではないのです。自分の信念や理屈に、思う通りに従わないから振るう者でもない。神様のみことば、みこころ、これが私たちを正しい道へと導くある意味でのむちや叱責となるのです。神様は私たちに生きてほしい、家族が正しい家族になってほしい、そう願って。
家族ってそもそも神様が定められたんですよ?アダムにエヴァを妻として与えた、連れてきてくださり、夫婦となった。そしてその間に子どもが生まれ家族という形が、今のかたちができてきたわけですね。でもその中心は神様なのです。十戒の中で、私たちが幸せになるために与えられた神様の導きのことば、いのちのことばの中で、「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。それは、あなたの齢が長くなるため、また、あなたの神、主が与えようとしておられる地で、しあわせになるためである」と教えられています。両親を子供は敬う、まあ敬えない、という状況にある方もいるから何とも言えませんが、それは完璧な親なんていない、だからその家族の中心、柱なる神様、この家族を形成してくださっている頭なる神様に委ねる、神様のむち、叱責、愛と御心が成り、回復していく事を祈るわけです。そうして両親を通して神様に従う、御心をもとていく事を学び、そうして社会に出ていくわけですね。両親も、もちろん神様のむち、叱責、御心を求め、いつも正しい方向に導いていただくことを求めることは言うまでもありませんが。
ある意味では家族は社会の基本単位といいますか、この中で私たちは神様に従うこと、御心を、導きを求めることを知るわけです。自分勝手に生きるのではない、互いに愛し合うことも学ぶ。「聞く」といいますか、なかなか従えない中にあっても神様の幸せを求め、神様に聞く、神様の御前にへりくだる、そしてその御心をもって互いに話を聞き、また互いに遜り神様の御心に向かう。これ本当に大事なことですね。それは家族であろうと社会であろうと、どこでも同じです。耳の痛い話だから聞かない、受け入れないでは、聖霊様がそこに働きづらくなってしまう、そこに神様の御心が現れづらくなってしまう。それはとても残念な話です。
イエス様はことあるごとに、「聞く耳のあるものは聞きなさい」と訴えられました。ソロモンも含めた旧約時代、イエス様が人となって生まれる前も、神様は何度も「聞け、イスラエル」と何度も訴えてこられました。それは無理やり押さえつけて従わせる、それこそ親猫がこねくの首根っこを無理やりひっつかまえて従わせる、そんなことをされるのではなく、神様は私たちにその道を示したい、いのちの道を示したい、だから聞いてほしい、あなたにわたし(神様)の最高を受け取ってほしい、幸せになってほしい、その思いを現されるのです。
私たちはどうでしょう、神様のこの語りかけ、導きを、やれ愛がない、虐待だ、自分のことなんか考えてくれていない、と言って神様のみことばに聞かずにいないだろうか。神様のくださる愛を甘く見ると言いますか、蔑んでいないでしょうか。神様を甘く見ていませんか?神様は、私たちの創り主、父なる神様です。あなたの父を敬うように、その中に神様の幸せが溢れる、と約束してくださった、この神様が私たちの父なる神様となってくださったのです。その神様の愛を疑い離れ、好き勝手に生きる、都合のいい時だけ利用しようとする、そんな私たちを見捨てず、あなたに恥を見させないように、御子イエス様にその恥を負わせたのです。私たちのこれらの問題、痛み、思い煩い、何より罪の刑罰、一切を身代わりに御子イエス様に背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、本来神様から捨てられてもおかしくない、勘当されてもおかしくない私たちを神様の子として迎え入れてくださった、くださるのです。そうして私たちは神様と最高の家族とされた。
ここまで愛された神様だからこそ、私たちはこの方の御前にへりくだり、この方が親として、父なる神様として我が子、私たちに注ごうとされている御心、幸せ、約束を信じて待ち望もうではありませんか。
「悪者がふえると、そむきの罪も増す。しかし正しい者は彼らの滅びを見る」と↑で語られていますが、神様は悪者を震えさせ、滅びへ向かわせる。でも、私たちが滅びに向かう者であってはいけない。罪に重ねられた歩みであってはいけない。むしろ本当に正しい者、方なる神様を求めよう。神様は悪、罪を増し加えるのではなく、神様の義、愛をもたらして下さる、神様の勝利を、私たちは見させていただけるのです。「あなたの子を懲らせ。そうすれば、彼はあなたを安らかにし、あなたの心に喜びを与える」とあるように、私たちはこの神様の御前にへりくだる、その時、神様が私たちを安らかにし、私たちの心に喜びを与える、喜びで満たして下さる、そのように働かれるのです。私たちがこの方の御前にへりくだり、聞き、また従うなら。懲らせ、といいますか、この神様の導きの前に互いに遜るなら、その関係もまた、喜びに満ち溢れるのです。
「幻がなければ、民はほしいままにふるまう。しかし律法を守る者は幸いである」。私たちは何か奇跡的なことを見せられれば信じる、でもそうでなければ疑い、ほしいままにふるまう。でもそれは不安定で、不安定な何かに身を委ね、幸いを失っている。しかし、神様は、律法といいますか、みことばを成就されるお方。虚しく帰ってこさせないお方。この方のおことば、知恵を疑って何になりましょう。神様は幻も御言葉も確かなものとして現して下さる、ご自身の御心として形を成して、実現されるお方です。御言葉もそうですが、何より私たちはこの神様のを恐れましょう。この神様のみことば、ご計画、私たちを救うためになら御子イエス様のいのちさえ惜しまなかったほどの神様の愛が、確かに私たちの内に現される。自分の道、自分の好みに合うか合わないかで従う、聞く、従わない、聞かない、ではなくまず私たちはこの方の愛に、この十字架の御前にひれ伏そうではありませんか。
「しもべをことばだけで戒めることはできない。彼はそれがわかっても、反応がない。軽率に話をする人を見ただろう。彼よりも愚かな者のほうが、まだ望みがある」と、↑の最後で語られていますが、私たちは、私たちを救うためにへりくだり、人となって生まれてその間に住まわれ、同じ重荷を負ってでも私たちを救わんとされた、十字架にいのちまでかけられ従われた、しもべとなられたイエス様を見よう。反応をしないのではなく、このイエス様の愛からくるその御業に応答しよう。しもべなる私たちを友と呼んで下さったイエス様、「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです」と、友のためにいのちまで惜しまず捨ててくださったイエス様の望みが今日確かにあなたを覆っているのだから。もう愚かな道に進んではいけない。イエス様にある確かな望みを受け取ろうではありませんか。あなたが手におえず捨てられるでもなく、また何かに不安を覚え、道を失うことがないよう、今日もその手を取り、共に導いて下さる。だから私たちはこの天の父なる神様の、甘やかすでもない、無責任でもない、厳しくも確かな愛をもってあなたに良い業をなして下さるこの方に信頼して歩もうではありませんか。そこに確かな神様の愛が、御心が現れ、私たちは確かないのちをいただくのだから。
