望みは確かにある、確かな望みがある | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。この恵みを、神は私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、この方にあって神があらかじめお立てになったみむねによることであり、時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。この方にあって私たちは御国を受け継ぐ者ともなりました。みこころによりご計画のままをみな行なう方の目的に従って、私たちはあらかじめこのように定められていたのです。それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。」

エペソ人への手紙1章7-12節

 

両親は我が子のためにならと自分のできる限りのことをしたいと思う。愛ゆえに。まあそれでも限界はありますが、でもそうした愛に支えられ、子どもは安心して育っていく、生きていくわけですね。でも私たちはもう一つ忘れてはいけないことがあるんです。私たちを創られた、いのちを与えてくださった天の父なる神様は今日も私たちのことを心配し、また私たちに生きてほしい、と惜しむことなくその愛を、御心を現されている、注がれているのです。あなたを救うためなら御子イエス様のいのちを身代わりにしてでもその愛を貫き通された。この方の愛が今日あなたを支え、導いて下さっている。養ってくださっている。私たちはこの方の愛を忘れてはいけませんね。どれだけ大きな愛が私たちのために支払われたのか、今もその愛が注がれているのか。この愛に私たちは信頼し歩もう。今日も主はあなたを愛している。

 

ということで、↑はパウロがローマに護送されて最初の軟禁状態にある中、監視付きながらも自宅である程度自由に生活できた、軟禁状態にあって各地に書き送った手紙の中の一つ、エペソ人への手紙の続きになります。ちなみに↑の前の箇所で紹介し忘れましたが、エペソは現在でいうならトルコ西部、イズミルという港町の南およそ50㎞の場所です。まあそのエペソを中心に各地に回覧されるようにこの手紙が周りに周って今私たちの手元にも聖書の中に入れられて届いているわけですね。

 

↑の前では「神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです」とありましたね。御心、というのは「喜びをもって」という意味という事をこの時紹介させていただきましたが、私たちは神様にあって喜びの存在であること、それ故に私たちをこの世的なレベルではない、神様のレベルの天的祝福を注がれる、私たちの傷や痛み、汚れ、そうしたものを取り除き、聖いものにしようとしてくださっていることを見ました。

 

私たちの周りには色んな人がいます。でも口先だけ、とか残念ながらそんなところがあります。でもそれは人間の弱さと言いますか、限界がありますから。ただ、私たちを口先だけではなく喜んで下さり、その喜びを行動に現して下さる方がいるって感謝ですよね。いるのかいないのか分からないのではない、何か本に書いてある格言的なものではなく、確かにおられる、天地万物がつくられる前から存在しておられる神様が、私たちをつくられ、その創られた私たちをつくりっぱなしで終わるのではなく、喜び、愛し、愛を現して下さるなんて。

 

パウロは↑で「この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです」とさらに書き記しています。ご存じ、使徒の働きの中でもさんざん見てきましたが、彼は迫害者でした。神様を知っていた、愛していた、つもりだった。しかし実際は彼を、また私たちを救うために遣わされたイエス様を迫害し、またそのイエス様を信じる者たちを迫害し、殺害に加担するようなものだった。普通に考えたらそんなものが神様の祝福を受ける、喜びを受けるなんてありえない話。

 

しかし彼は、「私」たち、というのです。自分も含めて、イエス様の血によって贖われた、そして罪の赦しを受けた、というのです。「贖い」というのは「人が失った財産や権利を身代わりとなって買い戻すこと」です。私たちは神様なんてしらない、関係ない、と言って離れ、自分勝手に生き、本来神様のくださっている祝福を失い、その霊的な命を失ってしまった。もう神様から見捨てられて、裁かれてもおかしくない。

 

え?自分はそんな罪を犯した記憶はない?たぶんそれは犯罪的なことを言っているのでしょうね。もちろん犯罪的な物も罪ですが、それだけではありません。罪は神様を神様としない事です、わかりやすく言うと。自分が神であるかのように好き勝手にふるまうとか、自らを神にするとか。その神様が隣人を愛しなさい、と言っているのに隣人(あなたの苦手な人も含めてです)を愛さない、傷つける、殺していないけど、憎しみの心を持っているとか、そうしたことも罪だよ、とイエス様は仰られました。

 

確かに私たちは神様ではありませんが、しかし神様はご自身の全ての良いものを、喜びをもって私たちに与えてくださっていた。エデンの園に全てを備えて下さっていたように。神様からの財産やその子としての権利が確かにあったのです。しかし私たちがこんなもの何の役に立つの?と言って離れていってしまった。神様を否定し神様から離れ、罪の中に、暗闇の中に走り、こここそ素晴らしい場所と思っていたら傷つき、倒れ、悩み、汚れ…その罪によってすべてを失ってしまった…はずだったのです。しかし神様は、あなたを喜ばれる神様は黙っていられなかったのです。イエス様のいのちをもって、私たちの失われたいのち、財産、権利、全てを取り戻すために、イエス様のいのちをもって買い戻して下さったのです。罪の手、サタンの手、死の手から。もう滅びるしかない私たちの身代わりに何の罪もないイエス様のいのちという代価をもって支払われた。この血によって私たちの罪は赦されるのです。もちろん、このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改めるなら、ですが。

 

受けるに値しないはずの私たちのためにイエス様のいのちという代価を神様は支払った。そこまでしてでもあなたを取り戻したかった、回復させたかった、あなたの権利を取り戻したかったのです。この愛がどれだけ素晴らしいことか。血の絆ほど強いものはない、ならなおのこと御子イエス様の血による絆はどれだけ強いか。これを断ち切ることができるものがどこにあるか。私たちは神様の喜びによって、イエス様の十字架にあって繋がれているのです。神様の子とされているのです。

 

「この恵みを、神は私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、この方にあって神があらかじめお立てになったみむねによることであり、時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです」。この喜びを、恵みを、神様の全てを私たちの上に溢れさせてくださる、みこころ・神様の喜びの奥義、そのご計画、愛、御心、その全てを知らせて下さる、知識的にだけではなく溢れさせてくださる、その内に現して下さるのです。机上の空論ではなく、神様が実現させてくださるのです。私たちはこの神様の喜びと一つとされているのです。

 

私たちはこの御国を受け継ぐものとされた。この神様の家族、イエス様のいのち、十字架によって繋がれたこの家族、関係に今招かれ、住まわせていただいている、この神様の喜び、ご計画、みこころの中今生かされている。私たちはここに希望がある。もうこの神様から離れてはいけない。この望みを捨てず、ただ神様を呼び求め歩もう。あなたのために御子イエス様のいのちさえ惜しまなかった方が今日もあなたを喜び、その愛を現されているから。

 

父と子が抱き合うシルエットと聖書の一節