顔が水に映る顔と同じように…心は? | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。いちじくの木の番人はその実を食う。主人の身を守る者は誉れを得る。顔が、水に映る顔と同じように、人の心は、その人に映る。よみと滅びの淵は飽くことがなく、人の目も飽くことがない。るつぼは銀のため、炉は金のためにあるように、他人の称賛によって人はためされる。愚か者を臼に入れ、きねでこれを麦といっしょについても、その愚かさは彼から離れない。」

箴言27章17-22節

 

人の心って本当に大切なもの。でも同時に難しい。心は見えないからどうしても正しく相手のことを理解するのは難しい、自分はあなたの事をよく知っている、と言っても、思っているつもりでも理解しきれない。それは自分自身に対してもそうですよね。自分のことは自分が一番よ分かっている、つもりになって実は分からない。だから彷徨うわけです。どうしたらいいのか、その処方箋を自分で出すこともできず悩む。ただそれでも私たちは誰かに支えられ、その心を守られながら生きているんですよね。神様も私たちに欠かせない心というものを与えてくださったのですから。相手の人を思う心。色んなことが、人が心に触れながら私たちを整えていくわけですね。そういう意味では誰にこの心を委ねるのか、これは本当に大事な話だと思います。誰と繋がっているか。それが私たちの心に影響し、それは私たち自身に反映される。神様は私たちに心をつくられた、神様の似姿に。ということは私たちの創り主なる父なる神様は、ご自身の御心をわが子たる私たちに反映させて下さろうとしているのではないか。ご自身の御心を現そうと、最高の愛を現そうと。私たちが神様の恵みを失い本来の姿、いのちを失って、どうしようもなくなった、そんな私たちを救うためなら御子イエス様のいのちさえ惜しまなかった方が。今日私たちはこの心を神様に委ねよう、向けよう。そうして神様のお心が私たちのいのちの内に反映され、本来あるべき私たちへと回復される言ことを願い。

 

さて、↑は古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向けて神様が語られた、知恵であり、いのちのことばでもある箴言、そしてこれを聞いたソロモンが書き残し、それを約250年後、南ユダ王国のヒゼキヤ王が、国の腐敗とアッシリア帝国の危機が迫る中で発見し、書き写した記録の続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られましたが、神様はその心をわたしたちに映し出される、反映される方なんですよね。神様の知恵・その愛からくる御心を私たちに現し、良いもので満たして下さる。神様は決して私たちを蔑んだりなどしていない。心のない存在でもない物ではない、確かに今も生きておられ、わが子のために心を注ぎだされる天の父なる神様の愛は今日も注がれ、あなたを整え、輝かせてくださっているわけですね。

 

そんな神様はその愛、御思いをソロモン、ヒゼキヤ、そして私たちに向けて示されたのですが、↑では「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる」と語られますが、まず鉄は鉄によって研がれる、ということですが、一番身近で想像しやすいのは砥石と包丁、これを想像するとわかりやすいと思います。鉄は使えば使う程摩耗して、先が丸くなっていき、使いづらくなります、切れ味が悪くなります。だから包丁は砥石で研ぐわけですね。言葉は悪いですが、これをおろそかにすると使えなくなってしますと言いますか、十分にその役割を果たせなくなってしまうわけです。またそうして研磨しないでいると、徐々に酸化し、さびていきます。そして見た目が悪く、またもろくなり、折れやすくなってしまう。どんどん劣化していきますね。かといって大切だから、と傷つけないように柔らかい素材などで研ごうとしてもそれはできません。木とか、皮とか、銅とか。同等、同質でなければ研ぐことはできないのです。いや、それ以上の性質のものか。

 

なるほど、でもそれでは終わらず、それと並列されて「人はその友によってとがれる」というのです。「人は人によってとがれる」じゃなく「友」というのです。人によっては自己研鑽を積む、と言うように自分流で自分なりに研鑽を積む、磨いて良く見せようとします。自分磨きとか、色々言いますよね。こう、今の時代だとどちらかというとそっちの方が磨く、とぐ、という点では現代っぽいと言われるかもしれませんが、神様の知恵はそこではないのです。もちろん自分を磨く、成長させていこう、という思い自体は悪くはありません。ただそこにはどうしても自己中心が伴います。自分を高めるために、それに合いそうな人と付き合う、逆に合わないもの、誰かとは付き合わない、それは「友」とは言えないですよね。でも本当の友はここまでも見てきたように、本当のことを言える、愛をもってその人の成長、良い方向に促せる、もっと言うなら神様という最高の存在に立ち返る、一緒に進める、それこそ本当の友。この箴言27章前半で見ました「友の傷は忠実であり、敵のくちづけは多い」とあった通り。

 

先程の鉄と鉄の関係のように、それより弱い、柔らかなもの、自分を傷つけることを恐れて言わない、なあなあなものによっては本当の意味では本来のあなたらしさを失ってしまう。さび付いて、使えなくなる、というよりも、あなた自身を時には傷つけ、それを放置した結果、どうにもならなくなる、取り返しのつかないことになることもある。逆に傷や問題があるのに、まあありのままでいいよ、自分は自分、と言っていたら他の誰かを愛するよりも傷つけてしまう。何で自己研鑽、自分磨きをするのか、それは別に悪い話ではない部分もある事は先に申し上げましたが、色々考えてみると、結局自分に自信がないから、自分がある意味では衰えていくその姿を見てか、色々なんでしょう。

 

でも、神様は私たちをそのままにしようとは思わない。神様はあなたを友として見ているから、大切な存在として思ってくださっているから、神様はその友となってあなたを磨こうとしてくださっている。私はどうせ、とか、自分の理想的な姿を求めてさまよう私たちを、そうではなく、本来神様が想像してくださった最初の理想、まさに神様がご自身の似姿に似せてつくられた、そのイメージされたその姿に近づけてくださる、聖めて下さる、錆を取って磨いてくださって、研いでくださって。時には私たちには痛いと感じるような試練に感じるようなことであっても、その中にも神様はしっかりと私たちを神様の思う最善へと磨き、聖め、ある意味では新しい姿に変えてくださる、神様の似姿にされる、最高じゃないですか。

 

サタンは「神のようになれる、神様はあなたに良いものを与えていない、嫉妬している」そんな感じでエヴァに近づき騙しましたが、私たちはこのサタンの罠にはまっていませんか?神様が私たちを磨き上げてくださるそれを否定してどうしましょう。私は私、と言って自分の思う姿だけを追い求め、利益を追い求め、他の人は傷つけてもいい、どうでもいい、それって本当に良いの?正しいの?

 

神様は私たちを研ぐと言いますか、聖めるため、生きたものとするため、回復させるため、よみがえらせるため、私たちの内にある様々な痛みや傷、錆、何より死にゆくしかないこの罪のからだ、私たちをもう一度聖めるため、御子イエス様にそれらを負わせ、私たちの罪の身代わりに十字架で罰し、死なせました。何の罪もないイエス様に。それでもあなたをそのまま放置して捨てゆかれることを良しとできなかった。イエス様ご自身がその傷を負ってでもあなたを研がれ、聖めることを選ばれたのです。イエス様も嫌だ、と拒否することなく、こんな私たちを見捨てることなく、最後までその救いの業を全うされた。最後まで死にまで従ってまであなたの一切のもの、罪、全てを取り除かれ、新しくしようとされたのです。

 

私たちはここまでされたともなるイエス様を、どこまで求めているだろうか。友と呼んで下さったイエス様を、これは自分の研鑽のためには不要だ、と排除していませんか?自分は自分、これが自分なんだから仕方ない、と自己流に走り、イエス様にある聖めを拒絶していませんか?その計画、御心、知恵を捨てていませんか?私たちは一人では生きてはいけない。でも私たちを友と呼んで下さるイエス様、またそのイエス様を信じる友、この人たちによって研がれていく。もしくはイエス様の救いを知っているあなたを通してまた誰かにその愛が溢れ広がる、聖められていく。まあ教会でもそうですが、私たちはこのイエス様にあって建て上げられる、成長、イエス様の似姿、最高の喜びある者へとされていく。あなたはこのイエス様を求めていますか?「いちじくの木の番人はその実を食う。主人の身を守る者は誉れを得る」と言うように、私たちはこの神様のくださる実をそうして味わわせていただける、食べさせていただける。あなたは自己研鑽によって実る「かもしれない」者を待つか、それとも日々実らせて下さる神様の実を求めるか、あなたはどちらですか?

 

さらに↑で「顔が、水に映る顔と同じように、人の心は、その人に映る」と語られていますね。顔が、水に映る顔と同じ。その通りですね。でも透き通っているから見える。もしその水が濁っていれば、そこに移る顔もまた濁って見える。私たちの心もまた顔や態度に現れてくる。これ本当。心が見えないだけで隠れているだけで、その内側にある者が表に現れる。話す言葉であったり態度であったり。表面上をどんなにくつろごうとしても同じ。でもそんな訳の分からない不安や怒り、焦り、過去の痛みだったり受けた影響だったり…そんなものにあなたの内側を濁させるなんてもったいない。それに支配させるなんてもったいない。それを変えるために一生懸命になる、でも疲れる。それでいいの?

 

でも神様は私たちを見捨てず、私たちをもう一度輝かせようと、一生懸命に研いでくださった。研ぎ石が、というとことばがあれですが、そのイエス様が傷つくことを考えず、それでもあなたを研ぎ、よみがえらせる、錆を取って、傷と滑らかにして、あなたの水の内と言いますか、心、あなた自身の内を御霊様で満たそうと。

 

ダビデはその神様の御業、また御霊様の満たし、御業を感じながら「彼らはみな、あなたを待ち望んでいます。あなたが時にしたがって食物をお与えになることを。あなたがお与えになると、彼らは集め、あなたが御手を開かれると、彼らは良いもので満ち足ります。あなたが御顔を隠されると、彼らはおじ惑い、彼らの息を取り去られると、彼らは死に、おのれのちりに帰ります。あなたが御霊を送られると、彼らは造られます。また、あなたは地の面を新しくされます」と、その詩に残しました。神様は私たちに食べ物、良いものを与えてくださっている、これを集める時、受け取りに行く時、神様が私たちを満たして下さる。神様が御顔を隠されると、私たちはどうにもならなくなる、でも神様はまだその御顔を向けてくださっている。この方に私たちも顔を向ける時、私たちを聖霊様で満たし、私たちを整え、その御心にあってつくられ、新しくしてくださる。

 

「よみと滅びの淵は飽くことがなく、人の目も飽くことがない。るつぼは銀のため、炉は金のためにあるように、他人の称賛によって人はためされる。愚か者を臼に入れ、きねでこれを麦といっしょについても、その愚かさは彼から離れない」。私たちはどこまでもこの神様を求めよう。この方がなして下さるその御業、つくってくださる御国、新しくされた日々をどこまでも歩もうではありませんか。他人の賞賛、誰かの賞賛、自分の賞賛ではなく神様の素晴らしさを、愚かな道ではなく、どこまでもあなたのためにいのちをかけて愛されたイエス様をどこまでも。主もあなたから離れずその良いものをいつも送られている。あなたはこれを受け取りに行っていますか。

 

箴言 27:17 友の助け          箴언 27:19 - 心と顔の映し出し