「わが子よ。知恵を得よ。私の心を喜ばせよ。そうすれば、私をそしる者に、私は言い返すことができよう。利口な者はわざわいを見て、これを避け、わきまえのない者は進んで行って、罰を受ける。他国人の保証人となるときは、その者の着物を取れ。見知らぬ女のためにも、着物を抵当に取れ。朝早くから、大声で友人を祝福すると、かえってのろいとみなされる。長雨の日にしたたり続ける雨漏りは、争い好きな女に似ている。その女を制する者は、風を制し、右手に油をつかむことができる。鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。」
箴言27章11-17節
人は色んな人との関係の中で成長していきますね。家族の中、学校の中、友達と遊ぶ中、仕事でも同僚や先輩、お客さんなど。もちろん自分が自分が、と押しのけるような関係や自己中心な思いがそこにあるとあまりうまくいかない。互いを尊重すると言いますか、互いに愛し合う、臭いと言われるかもしれませんが、子どもだ、と言われるかもしれませんが、それでもそうした中で磨かれて成長していく、良いものに変えられていくのではないか、と思うのです。もちろん人は完全ではないですしそううまくはいかない。でも、私たちは不完全だからこそ、完全な神様を求めるのです。神様が、私たちを愛し、その御心によって研ぎ、良いものに日々変えていただける、それこそイエス様の似姿に。なにせあなたは神様にとっては大切な子。その我が子のためなら御子イエス様のいのちさえ惜しまないほどにあなたを思い、愛し、その愛を実行される方。私たちはこの神様を求め続けよう。神様が聖めまた新しくして下さる事を祈り歩みたいものです。
さて、↑は古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向けて神様が語られた知恵の、いのちのことば・箴言、そしてこれを聞いたソロモンが書き残し、さらにそれを約250年後、南ユダ王国のヒゼキヤ王が、国の腐敗とアッシリア帝国の危機が迫る中で発見し、この神様によってもう一度回復したいと願い、書き写した記録の続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られましたが、神様がそもそも私たちを初めに愛してくださっていたんですよね。その愛ゆえにいつも良いものを備えて下さっていた。人は疑い神様から離れていき、別なものに知恵を求めて、色んな苦しみ、痛み、何より罪を追ってしまった。しかし神様は私たちをそれでも見捨てずに、その知恵・御心によって私たちを聖めて下さり、新しくしてくださる、良いもので満ち溢れさせようと、今日もそのお心を、御手を伸ばされている。そんな神様の愛を私たちは蔑んだり捨てたり、ないがしろにしてはいけませんね。気にくわないからと変えたりせず。それほど完全な愛を私たちに今日も注がれている、感謝ですね。
そんな神様はその愛、御思いをソロモン、ヒゼキヤ、そして私たちに向けて示されたのですが、↑では「わが子よ。知恵を得よ。私の心を喜ばせよ。そうすれば、私をそしる者に、私は言い返すことができよう」と語られます。わが子、というのはもちろんソロモンの子だけを指しているわけではありません。またヒゼキヤの子だけを指しているわけでもありません。ソロモンを、ヒゼキヤを喜ばせよ、という事でもありません。これは同じ神様の子・家族として、その知恵を得てほしい、それが父と言いますか、先に神様を知ったものとして、恵みを知ったものとしての願いです。まあ、ソロモンは特にこの点で失敗、途中で知恵を得ることをやめ、他の知恵でも何でもない者に自分を満たすものを求めに走り、国が崩壊した、そういう意味で、この知恵を得「続ける」、求め続ける、という事がとても重要です。
もちろん、父親が我が子に知恵を授けると言いますか、それを得てほしい、と願うことは間違っていません。この父をそのままソロモン、ととっても間違いではなく、また私たち、ととっても間違いとは言い切れません。お父さんお母さんも必死にわが子のためにできることを最大限するでしょう。まあ人は不完全ですが、そんな思うようにいかないのも事実。ただそうして子が親の背中を見て育つことを考えると、親自身も本来の知恵を得続ける必要がありますね。そう、ソロモンに知恵を与えたのは父なる神様、その神様を。誰かの知識や情報に振り回されるのではなく、確かに生きておられる、この天地万物を創られた神様を、今も働き続けている、その愛を注がれ続け、支え、また養い続けている、愛されている神様に。
「子は親を映し出す鏡」と言われますが、ある意味ではそうして反映されるわけですよね。なら、もし私たちが神様を見ているならどうでしょう。パウロは鏡という表現を使って「私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります」と語りました。今確かに神様がどうしているのかよく分からないことがあるかもしれない。でも顔と顔を神様と合わせる日が来る、神様も今私たちの方を向いて下さっている、神様が私たちにその完全を知らせようとしてくださっているのです。今は一部かもしれない。それでもこの神様を見る時、見上げ続ける時、求め続ける時、私たちはその神様の素晴らしさを知らせていただける。
それだけではありません。「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」とまたパウロが語るように、神様がその栄光を繁栄させ、イエス様と同じ形に姿を変えられていく、まさにその神様の知恵が、愛が、御心が映し出されていく、そうしたら一体どれ開け素晴らしいことが起こるか。だからこそ、私たちはまことの父なる神様を見続ける、求め続けるのです。↑の父の喜び、神様の喜びが私たちにも溢れるように。イエス様をそしったもの、私たちを、それでも愛し抜かれた方が。イエス様は罵られ、そしられ、傷つけられ、裏切られ、それでも罵り返さず、私たちの暗闇、痛み、罪を取り除くためにその愛を貫き通された、十字架から救いを訴えたのです。そうして、私たちが立ち返り救いを得る、それこそ神様の喜び。十字架は私たちの罪の刑罰、怒り、それを聞くと私たちの耳には痛いかもしれない、でもこの十字架にこそ私たちへの本物の愛、生きてほしい、滅びてほしくないという父なる神様の私たちへの切実な思いなのです。
「利口な者はわざわいを見て、これを避け、わきまえのない者は進んで行って、罰を受ける」と語られているように、私たちは災い、罪、その呪い、これらから離れ、神様の喜びを受けよう、罰ではなく。罰はすでにイエス様が身代わりに背負ってくださった。ただ私たちはこのイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返るだけなのです。災いではなくいのちを、神様の怒りから、喜びへ引き上げてくださった、イエス様にこれを負わせてでも成し遂げようとしてくださった神様の愛を私たちは避けている場合ではありません。
「他国人の保証人となるときは、その者の着物を取れ。見知らぬ女のためにも、着物を抵当に取れ」とさらに語られていますが、これはなかなか厳しい話。極端な話、保証人になってほしいと近づいて美味しいところどりをして逃げる、そう言ことがない様に、ということ。ちなみに同胞に対しては(イスラエル人同士)、「もしあなたの兄弟が貧しくなり、あなたのところに身を寄せるなら、あなたは彼を寄留者や同居人のように助け、彼があなたのそばで生きられるようにしなさい。彼から利息や増しを取ってはならない。あなたの神を恐れ、あなたの兄弟があなたのそばで生きられるようにしなさい」と神様は定めています。甘い?差別?違う。神様の保護、救いにだからおいで、と招かれているのです。貧しいものを豊かにされる神様、私たちもそれを支える、困っている人に助けの手を閉ざさないで、と。ただ、むしろ美味しい所だけ取って、困っている時だけ神様神様、というのではなく、いつもこの神様を求め生きよう,そう訴えるわけですね。その中で、ここまで見てきたように神様が私たち、色んな意味で心身ともに疲れ貧しくなった私たちを満たし、新しいいのちで満たして下さる、変えてくださるのです。
私たちはとかく自己流、自分の正しさを求め頑張る。そうじゃないと認めない、そうじゃない人を認めない…。でも、「朝早くから、大声で友人を祝福すると、かえってのろいとみなされる」と語られているように、「朝早くから」=「熱心さ・勢い・意図的行動」、自分の義熱で動いて祝福するよ、とか自己満足で、自分を自分で鼓舞するように祝福を祈る、それはちょっと違う。結局その自分流、自分の祝福を求めるその結果、神様の祝福を逃してしまう、そんなことがあってはいけない、と神様は招かれるわけですね。神様はいつでも大声で祝福をされる、でも、私たちは大声をあげる、形だけの祝福を求めていて本心で神様を求めていない、それではだめだよ、と訴えるわけです。私たちは神様を形だけ求める、形だけ祝福を求めて神様を喜んでいるだろうか?求めているだろうか、本気で。
「長雨の日にしたたり続ける雨漏りは、争い好きな女に似ている。その女を制する者は、風を制し、右手に油をつかむことができる」と語られている通り、絶え間ない雨漏りのように私たちは神様と絶え間なく争っている場合じゃない、主導権争いをして、自分の思う通りにするなら認める、しないなら認めない、そんな関係であってはいけない。そんな油をつかむようなことをしてないで、神様の恵みの雨、祝福を求めよう。誰かとの間であっても同じ、神様の平和が成ることを祈り求めよう。
「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる」と語られている通り、神様がその中に働かれる中で私たちを整え、聖め、研がれた鉄のごとく最高のあなたに輝かせてくださる。切れ味を失った、もうどうにもならないものではなく。何より神様が私たちを、友と呼び、その友を救う、洗い聖め、癒すため、もう一度復活、命を得させるため、神様は御子イエス様に、私たちのこの思い煩いも、痛みも、何より罪も一切身代わりに背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせたのです。友のために、自身が傷つくこと、痛めつけられること、死ぬ事を惜しまなかった。でもそこまでしてでもあなたをもう一度輝かせたい、命を得てほしいと願った神様はこれを実行された。イエス様を十字架に架けることが神様にとってどれだけ苦しいことだったろう、天地創造のはるか前からずっと一緒だったイエス様を。それでもあなたが苦しむことを、それ以上に悲しみ苦しみ、この救いの業を実行されたのです。そうしてこのイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る全ての人を赦し、神様の子としてくださる、新しいいのちへと生まれ変わらせてくださるのです。
私たちはこのイエス様によって日々聖められ、新しくされる。このイエス様を求める中にその聖さが、救いの御業が、あなたの内に起こる、あなたのいるところ、あなたの傷も含めすべてを癒し変えられる、新しくされる。イエス様の復活のいのちと同じように、私たちにもこの恵みが与えられるのです。この主の愛、御業を私たちはどこまでも求めようではありませんか。「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」との約束を信じ、この全地に、私たちの内に神様の栄光が反映され、輝くことそれをどこまでも求めようではありませんか。今日も主は、友なるあなたにその愛を注ごうとその御手を伸ばされている。あなたはどれだけこの方を求めていますか?
