「次もまたソロモンの箴言であり、ユダの王ヒゼキヤの人々が書き写したものである。事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王の誉れ。天が高く、地が深いように、王の心は測り知れない。銀から、かなかすを除け。そうすれば、練られて良い器ができる。王の前から悪者を除け。そうすれば、その王座は義によって堅く据えられる。王の前で横柄ぶってはならない。偉い人のいる所に立っていてはならない。高貴な人の前で下に下げられるよりは、『ここに上って来なさい』と言われるほうがよいからだ。」
箴言25章1-7a節
良いものというのはある意味でずっと継続します。ただ人の思いがそこまでもたないからなのか、その良い状況というのは波のように上がったり下がったりします。まあ経済とか政治状況とかそういうのを例に考えれば分かるかと思いますが。そう、その思いが結局大事なんですよね。それを受ける側も、与える側も、強い思いがなければそれは相手の助けにならなかったり、疲れ倒れてしまう。でも私たちは人間だから仕方がない、弱いのですから。あ、別に弱いことを恥じる必要はないですよ?むしろ私たちのことを思い続けて下さる方がいるのだから。この弱い私たち、誰かの支えなしには生きられない私たち、その私たちを神様は見捨てず、思い続けてくださり、愛し続けて下さり、その愛ゆえに、私たちを救うために御子イエス様のいのちを身代わりに差し出し死なせてでも救われた、この方の愛が、お働きが今日も続いている。私たちもまたこの方の愛をいつまでも求め続けよう。いつまでも残る愛、決してすたれることのない、優れたこの神様の愛がすべてを覆うことを祈り願い。
さて、↑は神様が古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向けて語られ示された箴言、神様からの知恵・いのちのことばで、これを受けたソロモンが私たちに書き残し示された、またそれを後の王が見つけ書き綴ったものになります。それで神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られましたが、神様の知恵はすべての初め、その初めである神様の私たちへの愛は尽きない。だからこそこれを蔑ろにしないで、と訴えるわけですね。ある時はある、ある時はないのではない、いつも神様の所に良いものがある、その良いものを惜しむことなく与えられる神様のもとに帰ろう、と。人の思いや計画はいつかはすたれる、でも神様は変わらない。私たちはどんな時でもこの神様を初めに求めたいものですね。
そんな神様は、その愛ゆえになおソロモンにさらに示されたのですが、↑で「次もまたソロモンの箴言であり、ユダの王ヒゼキヤの人々が書き写したものである」と書き記されているとおり、ソロモン王の後王国が分裂し北イスラエルは堕落していき、アッシリヤ帝国によって捕囚、南ユダ王国もそのアッシリヤの危機にさらされている中、その南ユダ王国を治めていた当時の王、ヒゼキヤがこれを発見し、書き写し、残しましたこのヒゼキヤの記録は↑の25章から29章まで続きます。ちなみに、このソロモンが神様から示され書き残した箴言、その時からヒゼキヤのこの時まで約250年が経過しています。
このヒゼキヤ王、彼の前の父アハズ王が偶像崇拝に走り、子どもを生きたまま火に通すなどとんでもないことをやっていた、とんでもない王、それ故に国もあらゆる意味で疲れ果て、衰退していました。その姿を見たヒゼキヤは、父に倣うのではなく、王に即位すると、すぐに宗教改革に取り掛かります。かつてイスラエルの民を贖い出し、救い出された神様について調べる、その中に律法というのがありました。律法というのは分かりやすく言うと聖書なのですが、創世記という天地創造期~エジプトから神様が救い出され、先祖の地にイスラエルの民が変えるまでの申命記という書簡。その中に神様の働きや愛、私たちに幸せになってほしいという願いを込めて与えられたものです。おそらくこの時にソロモンの残していたという箴言を見つけたのでしょう。これをどうでもいいものとヒゼキヤ王は考えずに、書き写させるのでした。
時代的にはすでに北イスラエルがアッシリア帝国によって捕囚されている時代。父親のようにアッシリアに媚を売って隷属化をするか、それとも神様に従うか、それがまさにこの「書き写させた」という言葉にも込められているのではないか、と思います。当時律法でさえ、一文字でも間違えれば一からやり直しという厳しいものがありました。この、ソロモンの箴言、神様から頂いた知恵から書き残された箴言、これは自分たちにとっては必要なことなんだ、その覚悟、神様に従う、神様こそ神、まことの神、他に救いはないんだ、その覚悟で書くことを選んだのです。アッシリアという脅威に屈する、ひれ伏すのではない、彼らの偽の神々によるいつわりの繁栄を求めるのでもない、ヒゼキヤは神様を求めたのです。
彼は神様の知恵は250年前のものだからと言って、また律法は古いもの、時代が違う、状況が違うと言って退けるものではなかった。ここまで見てきた箴言も含め、神様の知恵こそ彼らの、私たちのいのちの源なんだ、これが自分を含め、国を支える、国民を支えるんだ、と決断するのです。しかも「書き写した」ということは、自分の都合で文書を勝手に変えたりしてはいません。自分の解釈で神様の知恵を変える、時代に合わせて帰る、状況に合わせて変えるのではなく、ただそれを書き写した。一文字も違ってはいけない、この厳しい作業を。変えてはいけない、と書記官に指示して、それほど神様の知恵は決して変わることのないものなんだ、その愛からくる御心、私たちへの働きはそれほど素晴らしいものなんだ、その思いで書き残すわけですね。
イエス様は「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます」と語られました。イエス様は全ての約束を成就される、天地が滅びることがない限り、これらが廃れることはない、と。1点1画というのは句読点とかではなく、ヘブル語の文字を現す点だったりするのですが、それをちょっと変えるだけで意味が変わる、それほどちょっとのごまかしもイエス様はせず、成就するよ、と約束された。その神様の御心は変わらない。それがたとえどんなに小さなものに見えても、偉大なことをしてくださる。小さなものではなく、神様が大いなることをしてくださるのです。
私たちはこの神様の知恵、御心、みことばを時代が違う、状況が違う、自分の考えでは違うと言って変えてはいけない。それは自分のやり方に強引に捻じ曲げればまあ自分が勝手に得ようとしたなにかは得られるかもしれませんが、私たちは神様の偉大な業をその時失ってしまう。しかし神様はあなたを廃れさせるのではなく、そのイエス様の御心で大いなるものとしてくださる。あなたはどれだけこの神間の知恵を求めているだろう、本気で受け止めているだろうか。この神様の愛を、御心を、みことばを、その約束を。イエス様は「何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです」と約束してくださった。神様が喜んであなたに与えてくださる御国を私たちはどこまでも求めよう。たとえ小さくなるような、厳しい場面にあろうと、ヒゼキヤ王のように付け加えたり買えるのではなく、自分の思いではなく、神様の御心を。
イエス様の十二弟子の一人だったヨハネは黙示録の一番最後、聖書の書簡の一番最後に「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる」とイエス様に導かれ書き残しました。付け加えて呪い、神様の恵みを取り除かれるのではなく、聖なる都、神様の内にある祝福を受けることをイエス様は願われている。あなたはこのイエス様の思いをどう受け取りますか?
そのヒゼキヤ王はこの神様の他にまことの王はいないんだ、と王に関する箴言をそのまま「事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王の誉れ。天が高く、地が深いように、王の心は測り知れない」と書き残します。王の内に、私たちの内に神様の、人の思いでは測り知れない大いなるみこころを、知恵を示されること、でもそれ以上にまことの王、イエス様が天よりも高く、地よりも深い大きな愛を、御心を私たちに注がれようとしてる、そのことを訴えるわけですね。知恵は情報ではなく、概念でもなく、ソロモンに神様が与え示されたように、神様から注がれる、すべての初めとなる知恵を神様が私たちに注いでくださる。それは世の中的には見えづらく分からないこともあっても確かに現される王、イエス様がいるんだ、そのことを私たちは忘れてはいけません。
この王の王なるイエス様は私たちへの愛ゆえに、その天よりも高く値より深いその愛・御心を現し、その永遠を与えるために、御子イエス様に私たちの思い煩いも、何より罪、罪の刑罰一切を身代わりに引き受けられ、十字架に架け、罰せられ死なせました。何の罪もないイエス様が、王が罪人たる民、私たちの罰を追われ死なれるなんて常識的にあり得ない、でもその常識的にあり得ないことを、その御心ゆえに、愛ゆえに実行に移されたのです。その約束を廃れさせることなく、あなたへの愛を曲げることなく実行に移されたのです。そして3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架と復活によって救いの道を完成されたのです。このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の民、子として迎え入れてくださるのです。このイエス様の愛をどうして曲げる必要があるでしょう、曲げてどうしましょう。その御心をどうして疑う必要があるでしょう。
↑で「銀から、かなかすを除け。そうすれば、練られて良い器ができる。王の前から悪者を除け。そうすれば、その王座は義によって堅く据えられる」と語られていますが、私たちはこの私たちの内にある悲しみも痛みも、罪も、取り除いていただこう。そして聖霊様で満たしていただいて本当に命あるものへ変えられる事を祈ろう、あなたの周りの人々のためにも。罪や疑いではなく神様の義を。この神様が堅く据えてくださる日々、いのち、また家庭、職場、あなたの置かれているところを神様が確かに堅く据えてくださる。あなたはこれにどれだけ信頼していますか?ただただ神様の恵みがここに増し加えられていく事を、満ち溢れることを祈ろうではありませんか。
「王の前で横柄ぶってはならない。偉い人のいる所に立っていてはならない。高貴な人の前で下に下げられるよりは、『ここに上って来なさい』と言われるほうがよいからだ」と語られているように、私たちはこのイエス様の御前日へりくだろう。謙遜にへりくだられ仕えられ、命をかけてでも私たちを愛され、愛し抜かれた方が招かれているいのちの内に私たちも進みゆこうではありませんか。この神様のくださるものを捻じ曲げるのではなく、ただ感謝して受け取りながら。

