「私は、なまけ者の畑と、思慮に欠けている者のぶどう畑のそばを、通った。すると、いばらが一面に生え、いらくさが地面をおおい、その石垣はこわれていた。私はこれを見て、心に留め、これを見て、戒めを受けた。しばらく眠り、しばらくまどろみ、しばらく手をこまねいて、また休む。だから、あなたの貧しさは浮浪者のように、あなたの乏しさは横着者のようにやって来る。」
箴言24章30-34節
ずいぶん前のCMで「見てるだけ~」というものがありました。見てはいるけど買いはしない。だからどんなに良い商品があっても得ることはできない、というわけですね。私たちの人生だって、知識がいくらあっても、いくら良い情報を得ても、それを用いて自分の畑、自分自身を耕さなければどうにもならないですよね。もしくは荒れているのを見て放置するのではなく、無理なら誰かに助けて、とお願いするもいい、頼るのもいい。もしくは困っている人がいるなら、見ているだけではなく、あなたの手を伸ばす、それだけで変わるかもしれない。何より私たちには最高の創り主、父なる神様がおられるという事を忘れてはいけません。私たちをわが子と呼び、その我が子が良い実を結び、命を得ることを願い、耕して下さっている、黙ってあなたの横を通り過ぎるのではなく、その知恵をもって耕し、そのいのちを吹き込まれる、また回復される。私たちはこの方に頼っていいのです。神様、という存在を知っている、でおわらせるのではなく、この方により頼もう。あなたを救うためなら御子イエス様のいのちさえ惜しまない神様があなたにいのちを得てほしい、と今日もその御手を伸ばされている。あなたはどれだけこの神様に信頼し、委ねているだろうか?信じている、知っている、で終わらず、この方を積極的に求めよう。
さて、↑は神様が古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向けて語られ示された箴言、神様からの知恵・いのちのことばで、これを受けたソロモンが私たちに書き残し示されたことばになります。それで神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られましたが、私たちを創られた神様は、私たちを良い知恵・御心をもって建て上げたいんですよね。よくわからないなにかではない、自分勝手に好き放題するのでもない、確かに初めからおられ、今も生きておられる方が、私たちをわが子と呼んで下さり、その完全な愛をもって、今日もあなたの内に働かれている。この神様が働かれているいのち、ないがしろにしてはいけませんね。私たちはこの神様の知恵・御心を求めながら私たちのいのちを、日々を、神様の素晴らしさで満たしていただきたいものですね。
そんな神様は、その愛ゆえになおソロモンにさらに示され、これれを受けたソロモンは応答するように箴言をさらに残していくのですが、↑では「私は、なまけ者の畑と、思慮に欠けている者のぶどう畑のそばを、通った。すると、いばらが一面に生え、いらくさが地面をおおい、その石垣はこわれていた。私はこれを見て、心に留め、これを見て、戒めを受けた。しばらく眠り、しばらくまどろみ、しばらく手をこまねいて、また休む。だから、あなたの貧しさは浮浪者のように、あなたの乏しさは横着者のようにやって来る」と書き残します。
これまでの格言的な知恵とは違い、ここでは体験的に知ったことになりますね。もしくは聖霊様が彼の内に働かれてそのヴィジョンを見せられたか。いずれにしてもそこに神様が導かれ、知恵を与えてくださったわけです。
ここで「なまけ者」や「思慮に欠けている者」と、ありますが、人の知識量と言いますか、そういうのは人それぞれですから何とも言えないところですが、神様は別にそういう人を馬鹿にしたいわけではないのです。それをこのソロモンを通して示されているわけですね。まあソロモン自体も結局は別な意味で「なまけ者・思慮に欠けている者」に、知者でありながら、王でありながらなってしまうのですが。
それでまず考えたいのは、神様は語られるだけではなく働かれる神様、私たちの内に働かれ、語られ、見せてくださり、導いて下さり…と行動される神様です。日本の神社などを見ていると、会いに行く、お願いしに行く、そういうイメージが「神的存在」に持ってしまいます。一時期言われていたパワースポットなるものもそこにいってパワーを受ける?でも残念ながらそこにはいるのは人間の宮司なり、人間がつくった何かがあるだけ。人が運んで設置しなければ何もできない…いやそもそも存在しないからできないですよね。そんなのは「神でも何でもない」。ごめんなさいね、夢を壊すようなことを言って。でもそれがわかる仕事をしているので。まあそもそも会いに行かなければ何もしてくれない、というのも残念な事。
しかし、神様は決してなまけることのない方。24時間365日働かれています。天地創造の時からずっとです。その神様の働きを通して私たちに体験させてくださり、その知恵を知らせてくださるのです。神様の愛を、神様の栄光・素晴らしさを告げ知らせてくださるのです。
ソロモン王の父、ダビデ王は多くの神様の御業を知り、体験させていただきました。幼少期には自分の羊に襲い掛かる熊を倒し、イスラエルの屈強の兵士や王さえ恐れる巨人ゴリアテをスリングショット一つで倒したり、王の嫉妬から命を狙われる時さえ神様が助け手を送ってくださり守ってくださり。
そんなダビデ王はいつも神様の守りがあったことを知って、「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。神はそこに、太陽のために、幕屋を設けられた。太陽は、部屋から出て来る花婿のようだ。勇士のように、その走路を喜び走る。その上るのは、天の果てから、行き巡るのは、天の果て果てまで。その熱を、免れるものは何もない。主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする…」と詩に残します。私たちは当たり前のこと、普通のことと考えて神様の働きと考えていませんが、これら被造物を創られた神様はそれらを通して働かれ、ご自身の栄光・素晴らしさを告げ知らせてくださる、昼夜問わず、すべての事を通して。私たちは耳で聞こえない(語られていますが)から、見えないから、と疑う、でも例えば太陽を通して天の果てはてに至るまでその熱、神様の働きを届ける。そうして神様の様々なお働きを通して私たちの魂を生き返らせ、わきまえなくなってしまった私たちを賢くし、心を喜ばせ、私たちの様々な痛みを聖め、喜びに変えてくださるんだ、と。
「知る」ということは、ただ知識・情報を得る事ではないんです。もちろんそれもそうなのですが、それを知っただけで留めていては何の意味もない。知るという事は「体験的に知る」、という事なのです。体験的に知らせてくださる、神様が。その体験的に知らされたことに体験的に従う中で、神様の素晴らしさが、今のダビデの詩の言葉を借りるなら熱・情熱が、消えることのない太陽のように輝き続ける神様の光が私たちを照らしてくださる。燃え上がらせてくださり、活気、いのち、喜び、あらゆるもので神様は満たして下さるのです。
↑で「思慮に欠けている者」とありましたが、そんな思慮に欠けている私たちに神様の思慮、知恵・御心を現して下さり、その思慮、御心が私たちを力づけ、生き返らせてくださる。でも、「なまけ者」、この働きを見、知りながらなお離れていくなら、その神様の素晴らしい働きを、あなたの内に働こうとしている、たましいを生き返らせようと、喜びで満たそうとしている、その神様の御業をそこなうことになるわけです。ソロモンがまさにそれでしたね。せっかく神様の知恵をいただき、思慮あるものとされたはずなのに、その思慮を正しく用いなかった結果、それを蔑ろにした結果、神様の祝福を失い、国も分裂、腹心も離れていき、神様から離れた後は大変な生涯となりました。あれに知恵を求め、これに知恵を求め、と様々な存在もしない神々、異性、神様の富を受けながら他の国の富や力に憧れその道を失ってしまった。初めなる知恵、神様からの知恵・思慮、私たちへの情熱、届かない所のない神様の御業、愛、私たちの魂さえ生き返らせようとする神様の力強い御手を蔑ろにして、なまけ、その祝福を失ってしまった。
ソロモンだって、父ダビデ王を神様がいかに祝福されていたか見て知っていたはずです。またダビデが罪を犯したとき、大変なことになっていたこと、骨が枯れるようになっていた、それほどに神様の霊を失う、祝福を失うことが大変なことを知りながら、なお神様をただの知識に変え、ないがしろにしてしまった。なんと残念なことだろう。
神様自身も、ソロモンが、また私たちがそうなることがない様に、↑、「私は、なまけ者の畑と、思慮に欠けている者のぶどう畑のそばを、通った。すると、いばらが一面に生え、いらくさが地面をおおい、その石垣はこわれていた。私はこれを見て、心に留め、これを見て、戒めを受けた。しばらく眠り、しばらくまどろみ、しばらく手をこまねいて、また休む。だから、あなたの貧しさは浮浪者のように、あなたの乏しさは横着者のようにやって来る」という体験的な出来事に導き、その知恵を示されたのです。思慮のない私たちを思慮あるものとしてくださる神様を欠き、なまけもののようにならないように。そうして私たちのいのち、日々、たましい、私たちの内側がいばらやいらくさで覆われ、それこそ石垣が壊れたような状態になることがないよう訴えるわけです。
イエス様は「わたし(イエス様)はまことのぶどうの木であり、わたしの父(神様)は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます」と仰ります。神様は農夫として、私たちの畑を耕すものとなってくださり、良いものにしようと、その身を豊かに結ばせようと働かれているわけです。結べないようなら結べるように耕して下さって。あなたの魂が、神様が創られた最高のあなたのいのちが奪われることがない様に。この初めなる方、父なる神様なしに私たちの畑、いのちは失われ、奪われていくだけ、いつかは壊れる。
それでも神様から離れていく私たちを救うために御子イエス様を神様は遣わして下さった、人として生まれさせてくださり、目に見える形でその愛を惜しまず与え、その御業を現しながら、私たちの魂をもう一度生き返らせるべく、私たちを聖めるべく、私たちの内にあるいばら、痛み、思い煩い、何より罪の呪い一切を身代わりに御子イエス様に背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、これらに勝利された。このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返るなら、私たちもこの復活のいのち、新しいいのち、永遠のいのちをいただけるのです。もはやこのいのちをいばらも何も覆うことはできない。
私たちをなまけているな、と黙って見捨てるのではなく、見ているだけでもなく、その愛を命をかけて惜しまず与えてくださったイエス様の愛を私たちは侮っていないだろうか。自分とその知恵、神様は関係ない、と言って思慮のかけたものとなっていないでしょうか?あなたのいのちを↑にあるように盗人が迫ってきた時に明け渡したり、奪わせてはいけない。私たちはこの神様としっかりと結び合わせていただこう。イエス様がそのいのちをもってまで結んで下さった、この愛をなまけて忘れてはいけない。私たちはどこまでもこの神様の回復、働きを求めよう。神様の栄光・素晴らしさが全地に現れ広がり、いのちに溢れることを祈ろうではありませんか。
