「これらもまた、知恵ある者による。さばくときに、人をかたより見るのはよくない。悪者に向かって、『あなたは正しい』と言う者を、人々はののしり、民はのろう。しかし、悪者を責める者は喜ばれ、彼らにはしあわせな祝福が与えられる。正しい答えをする者は、そのくちびるに口づけされる。外であなたの仕事を確かなものとし、あなたの畑を整え、そのあとで、あなたは家を建てよ。あなたは、理由もないのに、あなたの隣人をそこなう証言をしてはならない。あなたのくちびるで惑わしてはならない。『彼が私にしたように、私も彼にしよう。私は彼の行ないに応じて、仕返しをしよう』と言ってはならない。」
箴言24章23-29節
世の中には本当に色んな考え方、これこそが知恵、知識、そういうのが溢れていて、何が正しいのか、それぞれの判断で選び、それに合わない人を排除する、そんな状況が見られます。それが正しいならまだいいんですけど、それが間違っていれば大変なことになります。相手の人を傷つけもすれば間違った道に誘導する事にもなってしまう。わが道を進む、それはその人の勝手なのでしょうけど、どうせなら私たちはイエス様の道を進んでみませんか?不確かなものではなく、あなたを知恵をもって導かれる方、あなたを救うためならそのいのちさえ惜しまず与えるほどにあなたを愛し抜かれる、その命をかけて与えてくださったこの道に働かれるイエス様、その御心に信頼してみませんか?主は今日もあなたに良いものを得てほしい、本物の神様の恵みの内に生きてほしい、とその御手を伸ばされ待っておられるから。
さて、↑は古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向けて神様が語られ示された箴言、というよりも神様からの知恵・いのちのことばで、これを受けてソロモンが私たちに書き残し示されたことばになります。それで神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られましたが、世の中様々なことに囲まれ、難しい問題もある、でもすべての知恵は神様の内にある、神様がその良い道を示される、その御心を現されるから、この神様をまず初めに求める、これにへりくだろう、そう訴えられているわけですね。あれが正しいのか、これが正しいのか?一体どう歩んだらいいのか見えない中にあって、神様の愛、天の父なる神様の、愛するあなたへの愛は確かに今もある。あなたを蔑むのではなく正しい愛が。何と感謝なことだろう。
そんな神様の御思いはなおソロモンにさらに示され、これれを受けてソロモンは応答するように箴言をさらに残していくのですが、↑では「これらもまた、知恵ある者による。さばくときに、人をかたより見るのはよくない」と書き残します。
「これらもまた、知恵のある者による」、というのは22章から↑の前、24章22節までと同じように、ということです。まあ同じように神様からの知恵を受けたソロモンがさらに応答として書き残したものと考えていいでしょう。
ただこれは気を付けたいのですが、これまでもソロモンの失敗について分かち合ってきましたが、どんなに良い知恵を神様から頂いて、書き残しても、自分自身がこの神様の知恵、御心に従わなければ意味がない。神様がこうするよ、こっちに行くよ、と言っても、いえいえ私はこっちに行きます、と言えば神様の連れていきたいところにいけないでしょう?これを味わってほしい、と導こうとしても、行かなければ得られない。彼は神様の道とは違うところにも幸せがあると考え、神様の与えた奥さん以外を合わせ700人の奥さんと300人の妾をもつというあり得ないことをしましたが、それって結局彼自身の疑いや不安の数でしょう?それだけの所に自分の幸せや、不安に対する答え、道を求めても、結局迷うだけ。これは知恵がありそうだ、幸せになりそうだ、と自分の人生に「これもまた、知恵あるもの」と考えて加えても、導き手を増やせば増やすほど迷うだけ。「船頭多くして船山に上る」ということわざの通り。道が違えど同じところに行ける、と一休さんが言っていたようですが、目的地が違えば同じところには行けないのでは?と思うところですが。
神様は、私たちには決して行くことのできない、というよりも神様が用意されている、備えて下さっている知恵に、御心の内に、幸せの内に私たちを招いて下さっている、↑の知恵ある者、本当に知恵あるものとは神様なのだと言ことを忘れてはいけません。この方を蔑み蔑ろにして、本当に神様のくださる幸せは得られない、これを忘れないでいたいものです。ソロモンがこれだけ心に残るような言葉を語りながら神様の恵みを失っていった、同じようなことがない様に。もし迷ってしまったなら、悔い改めという名の方向転換をして神様に立ち返っていいんです。人は完璧ではない。でも神様が増し加えてくださる恵み、日々あなたに書き加えてくださっているその愛を私たちは受け取りながら歩みたいものですね。知恵はどこにあるのか?幸せはどこにあるのか?と人はさあ餓死求めますが、神様は働いている、私たちと共にいる、だからこの神様に呼びかけて、祈っていいんです。聖霊様があなたを導いて下さるから。
箴言と言いますかソロモンの知恵は神様から来ています。神様の知恵は日々私たちに語りかけられていることを覚えつつ、↑の続きを見て行きたいのですが、「悪者に向かって、『あなたは正しい』と言う者を、人々はののしり、民はのろう。しかし、悪者を責める者は喜ばれ、彼らにはしあわせな祝福が与えられる。正しい答えをする者は、そのくちびるに口づけされる」とさらに語られていますね。
これ、今書きました知恵の選択の話の通りなんです。これは自分の利益になるから、と事実を捻じ曲げて間違っていることを正しいという、という事ですよね、わかりやすく言いますと。後は二枚舌もそうでしょう。ある時ある人とは正しいことを正しいと言い、別なところでは悪いという、もしくはその人がいない所では陰口を言う。それはダメなのは言うまでもありません。仕事、仲間内、学校、家庭…どこでも同じです。正しいことを捻じ曲げて人を苦しめる、そんなことが結構まかり通ってしまっている世の中ですが、それは良いことを生み出さない。悲しみや痛みが生まれ、憎しみが生まれたり、争いにまで発展することもある。本当に正しいことではなく、間違ったもの、知恵、そうしたものに場を支配させて何を見出す事ができるだろう。そうやって本当の正しさを捻じ曲げてこびへつらう歩みや、二枚舌を使う人を人は良く思わず、結局その人自身がここにある通り苦しむだけ。
このことば、もう少しよく見て見ますと、「呪い」と「祝福」ということばが使われていますね。祝福は神様から来るもの、呪いはその対極に位置します、わかりやすく言いますと。そういう意味では私たちは自分の利益やら人間関係を心配して二枚舌になるのではなく、神様の知恵といいますか、ここにある本当に正しいこと、正しい人(?)である神様の「祝福」、愛が、その愛からくる御心が成ることを願い、またその知恵に従いたい、御言葉に従いたいものです。御言葉は神様の約束、そのうちに神様は確かに働かれる。
ある人はそんなきれいごとばかり言っていられないんだ、というかもしれない。でもそんな何ものかもわからないものにあなたのいる場所、あなたの日々、あなたのいのちを委ねるなんてもったいなくありませんか?そうではなく神様がここに働かれて、それこそきれいにしてくださる、聖めて下さるなら最高ではありませんか。
自分に都合のいいことをこれが正しい知恵だ、と言ったり、それこそ「悪者に向かって、『あなたは正しい』と言う者」になるのではなく、探し求めたりするのではなく、あなたをつくられた神様、いのちを与えてくださった神様、この天地万物をすべ治めてくださっている神様、何よりそうして神様から悪いものにはなれていってしまったあなたを救うべく、御子イエス様にその思い煩いも、痛みも、何より罪も一切身代わりに背負われ、十字架にかけ、罰し死なせた、そこまで愛し抜かれた神様を求めよう。いや、この神様を求めずしてどうして本物のいのち、祝福を受けられるだろう。本来神様から離れ、「悪者・罪人」と宣告され、呪われてもおかしくない私たちのためにここまで愛し抜かれた、そんな方が他にどこにいるでしょう?これ以上の愛がどこにあるでしょう?私たちがこのイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る時、私たちの罪は取り除かれ、神様の子とされる、本物の祝福に、いのちに与らせていただけるのです。この十字架の内に神様の完全な知恵・御心が現わされ、あなたにこれを受けてほしい、と招かれたのです。
コラという人は「まことに御救いは主を恐れる者たちに近い。それは、栄光が私たちの国にとどまるためです。恵みとまこととは、互いに出会い、義と平和とは、互いに口づけしています。まことは地から生えいで、義は天から見おろしています。まことに、主は、良いものを下さるので、私たちの国は、その産物を生じます。義は、主の御前に先立って行き、主の足跡を道とします」と詩に残しました。彼の一族は、かつてイスラエルの民が神様の助けによってエジプトから救われて、先祖たちに与えると約束されていた地に帰る途中、神様を疑い離れ、滅びかけた一族でした。しかし彼らの一族は神様の憐れみを受け、残り、ついにはダビデ王(ソロモンの父)の世代で賛美隊として用いられるほどにその喜びに満ち溢れていました。その一族の一人がこのように詩に残したのです。神様は確かに遠く離れておらず近い、見捨てられなかった。神様の恵みとまことがこんな彼らと出会ってくださって、罪ゆえに義とされないはずの彼らを義とされ、平和へと導いて下さった。まさに神様の恵みがこの日々、いのちに産物を生じさせてくださり、彷徨っていた彼らの道、疑い離れていた道を恵みの道に引き戻して下さったんだ、と。それがまさにイエス様の十字架によって私たちの内にも成就したわけですね。呪いは祝福へと変えられた、あの十字架上でイエス様が私たちの罪の呪い、裁きを引き受けられたことで。
「外であなたの仕事を確かなものとし、あなたの畑を整え、そのあとで、あなたは家を建てよ。あなたは、理由もないのに、あなたの隣人をそこなう証言をしてはならない。あなたのくちびるで惑わしてはならない。『彼が私にしたように、私も彼にしよう。私は彼の行ないに応じて、仕返しをしよう』と言ってはならない」。私たちはこの神様によって仕事と言いますか、日々の歩みを確かなものとされる、この事を忘れないでください。神様があなたの畑を整えようとしてくださっている。私たちは雨が降らないから、と神様を求めることを諦めてやめるのではなく、その雨が降って回復、産物を取るその日のために備えよう。あなたのその愛の行動、↑の二枚舌とかそういう行動ではなく、イエス様の愛を受けたものとして愛するその行動、神様の知恵と逆の家、道を進まず神様の知恵、御言葉に生きよう。神様がそのあなたを通してあなたの日々を建て上げられるなら最高ではありませんか。
偽りの証言、正しい証言、隣人を傷つけたりそこなうような歩みではなく、イエス様も互いに愛し合うことを教えられたように、このイエス様の愛をもって愛し合う、仕え合う、そのような者でありたいですね。本物の証言と言いますか知恵、イエス様の救い、愛を語る、これに生きる中で、神様がたて上げてくださる家、御国を私たちは待ち望もうではありませんか。イエス様の十字架にあって現わされた本物の証言は、確かに私たちを癒し、また新しくしてくださる、聖めて下さるから。この十字架から確かに今日もその愛が、御力が、知恵が、御心が、その全てが溢れ流れている。あなたはこの知恵をいただいていますか?求めていますか?

