たとえ7回転んでも | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「もしあなたが苦難の日に気落ちしたら、あなたの力は弱い。捕らえられて殺されようとする者を救い出し、虐殺されようとする貧困者を助け出せ。もしあなたが、『私たちはそのことを知らなかった』と言っても、人の心を評価する方は、それを見抜いておられないだろうか。あなたのたましいを見守る方は、それを知らないだろうか。この方はおのおの、人の行ないに応じて報いないだろうか。わが子よ。蜜を食べよ。それはおいしい。蜂の巣の蜜はあなたの口に甘い。知恵もあなたのたましいにとっては、そうだと知れ。それを見つけると、良い終わりがあり、あなたの望みは断たれることがない。悪者よ。正しい人の住まいをねらうな。彼のいこいの場所を荒らすな。正しい者は七たび倒れても、また起き上がるからだ。悪者はつまずいて滅びる。あなたの敵が倒れるとき、喜んではならない。彼がつまずくとき、あなたは心から楽しんではならない。主がそれを見て、御心を痛め、彼への怒りをやめられるといけないから。悪を行なう者に対して腹を立てるな。悪者に対してねたみを起こすな。悪い者には良い終わりがなく、悪者のともしびは消えるから。わが子よ。主と王とを恐れよ。そむく者たちと交わってはならない。たちまち彼らに災難が起こるからだ。このふたりから来る滅びをだれが知りえようか。」

箴言24章10-22節

 

人は自分の弱さを認めるのがなかなか難しいのか、苦手なのか、強く見せるために着飾ったり、気張ったりするのですが、それは疲れてしまうし、いつまでも続かない。その虚像を見せ続けるのに疲れてしまう。そもそも私たちは弱くていいんです。私たちの弱さの内に完全に働かれるイエス様がおられるから。たとえ7度転ぼうと8度起こして下さる、いやもっと言うなら、転ばぬように支えてくださり、苦難の中でも共にいて支え、主が力強く働いて下さるから。何より私たちを創られた天の父なる神様は、私たちをわが子と呼び心配してくださっている、そして私たちを救うためなら御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えてくださった。こんな方が私たちの内にいつもその良いことを現されている。だから私たちはこのイエス様の力強い御手の下にへりくだろうではありませんか。

 

さて、↑は古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向けて神様が語られ示された知恵・いのちのことば・箴言で、神様の愛ゆえ、本物のいのちを得てほしいというその御思いから語られたもの、これを受けてソロモンが私たちに書き残し示されたことばになります。それで神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られましたが、考えてみますとこの世界を創られたのも神様の驚くべき知恵、また私たちを治めておられるのも神様の知恵、全て神身様の愛、御心によるわけです。世のどんなものがはじめなのではない、この神様の愛が私たちの生きる初めであり、これを何ものにも奪わせてはいけない、ないがしろにせず、この神様の愛に生きたいものですね。

 

その神様はなお、この知恵をソロモンにさらに示し、それを受けてソロモンは応答するように箴言をさらに残していくのですが、↑では「もしあなたが苦難の日に気落ちしたら、あなたの力は弱い」と書き残します。これはなかなか強烈なことばですね。苦難の日に気落ちするのは、それは人間なら誰しもそうです。それはあなたの力が弱いからだ、と言われたらなおのこと。でも、これは厳密にはそういうことを言いたいわけではない。

 

パウロは「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです」と手紙に書き残ました。彼は目に病っていた、相当彼は苦しみました。またそれ以外にも彼を苦しめる迫害、むち打ち、何度も殺されそうになるなど、もうどうにもならない場面さえありました。

 

しかしパウロは聖霊様の声を聞くのです。イエス様の恵みが十分に、他の何者が働こうと、そんなものを吹き飛ばすほどに働いている、この弱く苦しみの中に陥りそうになっている時、実は確かにイエス様も共にいて、その恵みが十分になるほど満ち溢れる、これを勝ち取らせてくださる、そこに力強く働いている、強めてくださるんだ、と。だからこの力強い神様の御手の内にへりくだろう、と勧めるわけですね。

 

同じように多くの問題、迫害があって、力弱くなったように見えるペテロ、そんなペテロも「神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです」と語ります。色んな神様の御前に高ぶる者たちがいる、でも、神様が心配してくださっている、神様が神様の力強さの内に引き上げてくださる、働いて下さるから、だからこの神様を待ち望む、遜ろう、この恵みをいただこう、そう招かれているわけですね。

 

弱くていい。その弱さの内に完全に働かれる神様がいるんだから、だから「もしあなたが苦難の日に気落ちしたら、あなたの力は弱い」とありますが、力の弱い私たちを神様に委ね、気落ちした状態から引き上げてくださる神様の力強い働き、誰よりも深く愛し心配してくださっている神様に祈り求め、委ねたいものです。気落ちしている状態、それは誰でもある、でもその私たちと一緒にいて一緒に引き上げてくださる方がいるのだから。

 

そうして見ますと、↑の続きの箇所の意味がよく見えてくるのではないでしょうか。↑で「捕らえられて殺されようとする者を救い出し、虐殺されようとする貧困者を助け出せ。もしあなたが、『私たちはそのことを知らなかった』と言っても、人の心を評価する方は、それを見抜いておられないだろうか。あなたのたましいを見守る方は、それを知らないだろうか。この方はおのおの、人の行ないに応じて報いないだろうか」と語られていますが、私たちを捕えようとして色んな意味で命を奪い取ろうとする者がいる、そんな中に神様はその御手を伸ばされている。

 

神様は私たちを黙って見ている方ではありません。こうして誰かに語りかけ、その誰かを通して働かれる。御言葉を通して、祈りを通して。ただ残念ながら互いに愛し合いなさいと教えられて愛さないで逆を進む人もいるなど、神様の愛を知りながら応答しない所に残念なことが起こること事実。ただ神様ご自身が働かれ不思議な御業を現されることもある事を忘れないでください。神様は「わたしはそのことを知らなかった」と人のようには言わない。その神様の働きの前に、いや私は知らなかった、なんて言ってみて見ぬふりをしないようにしたいものですね。

 

イエス様は「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。…まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」と、また「のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。…まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです」と語られました。

 

これは厳密には最後の裁きの時のことなのですが、しかしそれを理由にこのイエス様のことばを適当に見てはいけません。この小さなものに広がる御国、これを私たちが求めないでどうしましょう、という話です。呪われたものと一緒の扱いになるなんてもったいないじゃないですか。一緒に神様の御国を味わう、招かれるのではなく、その逆の味を味わうなんて。神様の力強い働きが成されるその業を期待しなくてどうしましょう。もちろん私たちに出来る事なんてたかが知れているかもしれない、でもたかがしれないから何もしないのではなく、互いに愛し合いなさい、というイエス様の教え、イエス様の愛を受けたのに誰かを憎む歩みではなく、自分さえよければいいというものではなく、このイエス様の愛を届ける、このイエス様の愛をもって仕える、そんな者でありたいですね。一緒に神様の御国を味わうものに。

 

と、そのように神様は様々な形をもって働きかけてくださります。そして「わが子よ。蜜を食べよ。それはおいしい。蜂の巣の蜜はあなたの口に甘い。知恵もあなたのたましいにとっては、そうだと知れ。それを見つけると、良い終わりがあり、あなたの望みは断たれることがない。悪者よ。正しい人の住まいをねらうな。彼のいこいの場所を荒らすな。正しい者は七たび倒れても、また起き上がるからだ」と語られている通り、私たちに神様は蜜を食べさせてくださる。私たちの口に甘く、知恵、心を満たして下さるその蜜を。良い終わりに導いて下さる、どんなにつらい時も一緒にいて、その蜜で元気を与え、心もからだも魂も満たして下さる、その方が最後まで私たちの望みが断たれることがないよう養い、導き、守ってくださるのです。悪者が私たちのこのいのちを奪いにこようとも主がおられる、だから私たちはこの主の御住まいに、イエス様の十字架にあって、本来悪い者と言われ、その正しい者、神様のもとに住まうなど赦されない、恵みに与ることが赦されないはずなのに、招いて下さるのです。

 

私たちのこの思い煩いも、痛みも、何より罪も一切身代わりに背負われ、十字架に身代わりにかかられ、罰せられ、死なれ、また3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る時、私たちは罪人・悪者から神様の子とされる。イエス様のいのちにあってこの家の中に、いのちの中に招かれたのです。「わたしはそのことを知らなかった」とはせずに、このイエス様の十字架にあってあなたを救い出されたのです。それなのにこの神様の愛を、神様自身を知らなかったなんて言って恵みを失うことがあってはいけません。神様は何もしないじゃないか、と離れていくのではなく、この方の力強い御手のもとにへりくだろうではありませんか。正しい者として7度転ぼうとも8回起き上がらせてくださるこの方がいるのだから。この方が働かれているのだから。

 

↑の最後「あなたの敵が倒れるとき、喜んではならない。彼がつまずくとき、あなたは心から楽しんではならない。主がそれを見て、御心を痛め、彼への怒りをやめられるといけないから。悪を行なう者に対して腹を立てるな。悪者に対してねたみを起こすな。悪い者には良い終わりがなく、悪者のともしびは消えるから。わが子よ。主と王とを恐れよ。そむく者たちと交わってはならない。たちまち彼らに災難が起こるからだ。このふたりから来る滅びをだれが知りえようか」、このことばは厳しいかもしれません。しかし、ここまで見てきたように、後は私たちはこの神様の力強い働きに委ねようではありませんか。その人が変えられるように、神様の御心を楽しめる日が来るようその御心を求めよう。悪者に灯火を消させるのではなく聖霊様の炎が輝き、この方の成し遂げてくださる勝利を待ち望もうではありませんか。力強い、聖霊様の炎は今日もあなたの内に輝いているから。

 

箴言24:16「正しい者は七たび倒れても、また起き上がる」