「高ぶる目とおごる心―悪者のともしびは罪である。勤勉な人の計画は利益をもたらし、すべてあわてる者は欠損を招くだけだ。偽りの舌をもって財宝を得る者は、吹き払われる息のようで、死を求める者だ。悪者は自分の暴虐に引きずられる。公義を行なおうとしないからだ。罪人の道はねじれている。しかし、きよい人の行ないはまっすぐだ。争い好きな女と社交場にいるよりは、屋根の片隅に住むほうがよい。」
箴言21章4-9節
人にはどこか自分が取るに足らない存在だと思われたくない、という不安や恐れがあり、その恐れを隠すためにこう、自分を良く、ないし強く見せようとしたりします。そこまでならまだいいのですが、自分を認めさせるために相手にひどいことを言ったり、傷つけたり、見くだしたりすることもあるわけです。まあそれの根っこにはもしかしたら自分があまり他から認められなかった、いやなことを言われてきた、傷つけられてきたからそれの反動で認められたい、というものがある、にじみ出ているのかもしれませんが。以前も書きましたが、まあ高慢になってしまうと、あまり周りが良く見えなくなったり、周りの声が聞こえなくなったりします。本来神様が私たちに良いものを与えようとしている、不安や恐れがある中で神様が助けを置いて下さっていたりしている、それを見逃してそこに神様が成そうとすることを見逃してしまう、そんなことだって起こりえる。もったいないじゃないですか。私たちは神様によって創られた大切な存在、この内に神様がどれだけ素晴らしいものを注がれているか、これを忘れてはいけません。神様はあなたを取るに足らないものではなく、最高のあなたにしようと日々働かれている。何より父なる神様は、御子イエス様を私たちを救うために身代わりにされてでも救い出された、そこまでされる神様がどうして取るに足らないあなたにされることがあるか。私たちは神様から離れず、遜り、この神様のすばらしさを受け取りこれに生きようではありませんか。私たちが高くあろうとして虚栄に生きるのではなく、神様の本物の愛に生きよう。
さて、↑は古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向けて神様が語られた知恵、いのちのことば・箴言で、これを受けてソロモンが私たちに書き残し示されたことば、その続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られ示されていましたが、私たちは様々なことに恐れを抱きどうしたらいいのか分からず道を見失いやすい。そんな中に神様は知恵・御心を現して下さり、私たちに希望をもたらして下さるわけですね。神様を侮って、そんな状況の中どうせというのではなく、この神様が成し遂げてくださる希望に信頼したいものですね。神様がその御心をもって飾られる素晴らしい日々を求め。
そんな神様はその知恵・愛を私たちに知らせるべく、ソロモン、そして彼を通して私たちに向け、「高ぶる目とおごる心―悪者のともしびは罪である。勤勉な人の計画は利益をもたらし、すべてあわてる者は欠損を招くだけだ」と語られ、ソロモンもこのことばを受け、書き残します。
これは本当に人の陥りやすい問題で、自分はあの人とは違う、優れているんだ、という思いから誰かを見下す、愛する事よりも見くだしてしまうわけです。それはサタンもやったことで、自分は彼になれる、神様より優れている、そう考えた結果、本来神様の被造物、最高だったはずの彼がすべてを失い地に落ち、周りを巻き込んで悪に引きずり込む、最後は滅びが決まっている。自分はサタンではないから大丈夫?ただ神様の御前に高ぶる時、神様などいらない、神様あなたは間違っている、とそういう目で見る時、私たちはこのサタンの手にとらわれてしまうわけです。せっかく神様から最高の存在として創られたその姿が失われていく、神様から頂けるはずの恵みを失っていってどうしましょう。それを神様は悲しまれるからこうしてここにソロモンに、また私たちに示されるわけですね。
まあこれだけの知恵、箴言を神様から示されながら彼は神様から離れていってしまった。重い重税をかけ民を苦しめたり(律法的にそもそも問題があった)、神様の与えてくださった妻に満足せず、妻と妾合わせて1000人の女性と関係をもったり…気が付いたら神様が国も自分自身も傷つき、ついには王国が分裂していってしまった、息子レハブアムの世代で。その高ぶりの心、民を愛さない、神様よりも自分の方が正しいとしたその歩みがすべてを壊していってしまった。
これ、王ではなくともあり得る話ですよね。高慢は破壊する。コミュニティ、人間関係、仕事、どこにおいてもいいものはもたらすことはできない。このおごり高ぶった心が膨らんでいった結果、その風船が割れるかのように壊れてしまう。ここで罪と表現されていましたが、まさに神様を神様としない、神様の前に高ぶり自分が自分が、と蒔いていく種はいつかは破裂する。愛するよりたかぶるその心が膨れ上がれば、それは壊れてしまう。多分これは皆さん言われなくともわかっているよ、というくらい実感されているかもしれません、見たことがあるかもしれません。面白いことに、ここに出てくる「おごる心」という言葉は「拡大した心、膨れあがった心」という意味なんですよね。そうなれば本来神様が与えようとしているあなたの姿、あなたへの恵みの日々が破裂するのは言うまでもないでしょう。
それならむしろ神様の愛が膨らんでいくならそれは素晴らしいものになるのではないでしょうか。イエス様もよくこの種についてのたとえをされていたのですが、御言葉の種、イエス様ご自身が私たちの内に留まる時、私たちは30倍、60倍、100倍の実を結んでいく事になります。それはどんな苦難困難、日照りも、茨もあなたをふさいだり奪ったり、枯れさせることはできない。不安になって自分を高く見せたりする必要もない。また「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります」と仰るほどにたとえそれが小さく見えても、神様が多くの人が休めるほど、安らぐほど、いや私たち自身の安らぎの場としても豊かに広がっていくわけです。広げてくださるのです。
また「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです」ともイエス様は仰られました。私たちは知らない、私たちの寝ている間、悲しみの中にいる間、人の手によらず神様がそれにクワを入れたり育てたりして成長させてくださりそれを私たちに収穫させてくださるのです。
私たちは自分が自分が、神様のやっていることは自分には合わない、どうにもならないと神様の御前に高慢になったりする。そして神様は互いに愛し合うことを教えながら、そんなことは何にもならないと周りにも謙遜ではなく高慢にぶつかっていく。でもそうではない、イエス様の種が、イエス様の愛の種が蒔かれる時、またイエス様のいのちが宿る時、そこにはもはや何ものも恐れる必要もない、私たちの安らぎの場所が与えられる。多くの人が、あなた自身も安らぐことができる場所となる、そんな場所に変えてくださるのです。なんてすばらしい話。そこに神様の御国が広がるんです。いのちが広がるんです。
私たちはおそれの灯火、神様への疑い、罪の灯火を灯して神様が本来与えてくださっている最高の場所、あなたを失ってはいませんか?自分は取るに足らないものと考えて大きく見せようとたかぶる必要もない、むしろ神様は私たちを取るに足らないものどころか最高の存在に作られたではありませんか。いやそれだけではない、その私たちが神様から離れ、取るに足らないものとされるような状態になっても神様は見捨てず、私たちの内にむしばんでいる不安や恐れ、何より罪、これらを取り除き、聖めるため、御子イエス様にこれら一切を身代わりに背負わせ、十字架に架け、身代わりに罰し、死なせたのです。しかし3日目によみがえられたことによってイエス様はこれらに完全に勝利された。このイエス様の十字架の御前に私たちが罪を悔い改め立ち返る時、私たちはこの完全な罪の赦しと癒しを受けるのです。取るに足らなくなったはずの私たちに復活のイエス様のいのちが与えられる、この愛が私たちの内に広がっていくのです。
イエス様は「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです」とも仰られました。人が死ぬ代わりにイエス様、何の罪もないイエス様のいのちという種が地に落ちて死なれたからこそそこに意味がある、このイエス様の死の種、復活の種が今日あなたのいのちを新しくし、また広げてくださる、多くの人たちが希望を見出す、そんなところへと変えていってくださるのです。私たちは高ぶってこの命を失うのではなく、遜り、また愛をもって仕える中にあってこの永遠のいのち、イエス様の愛が溢れることを祈り願う者でありたいです。この希望の灯火は決して消えることはないのですから。私たちは勤勉に働くイエス様に勤勉に希望を持ち歩もう。またこの愛を現すものでありたいですね。そこに神様のかけることのない希望が確かに溢れるから。
「偽りの舌をもって財宝を得る者は、吹き払われる息のようで、死を求める者だ。悪者は自分の暴虐に引きずられる。公義を行なおうとしないからだ。罪人の道はねじれている。しかし、きよい人の行ないはまっすぐだ。争い好きな女と社交場にいるよりは、屋根の片隅に住むほうがよい」と↑で語られているように、イエス様にある希望ではなく高ぶった心で接する中でどんなに利益を得ようとしてもそれはいつかは崩れてしまいます。しかしイエス様の愛、聖霊様の息吹がそこに、あなたに吹きかけられるなら、そこは生きる。死んだ場所ではない、いのちの場所と変えられる。高慢や世、不安や恐れに私たちは引きずられてはいけない。ねじれた道に進んではいけない。イエス様はあなたをいのちの道に導くために、遜り人となってこられ、何の罪もないイエス様が私たちの身代わりに罪を背負われ死なれるという、ありえないことをされてた、遜られてでもあなたをいのちの道に導いて下さった。そこに広がる希望を見ずしてどうしましょう。
私たちは世的には屋根の片隅に見えても、この神様がイエス様にあって与えてくださった本物のいのち、希望をしっかり握りしめ歩もう。そこは神様の働かれている希望が溢れているのだから。ここに私たちを、いのちを、私たちの置かれている場所をそのいのちで、愛で広げてくださる、くださった方が今日もおられるから。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる」。私たちは今日、この神様の御前にへりくだろう。神様が高ぶるものを退け、広げてくださる恵みが豊かにある事を祈りながら。「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます」。イエス様のいのちにあって私たちを引き上げてくださる神様、恵んでくださる神様が今日もあなたと共におられるから。