「思慮を得る者は自分自身を愛する者、英知を保つ者は幸いを見つける。偽りの証人は罰を免れない。まやかしを吹聴する者は滅びる。愚かな者にぜいたくな暮らしはふさわしくない。奴隷が主人を支配するのは、なおさらのこと。人に思慮があれば、怒りをおそくする。その人の光栄は、そむきを赦すことである。王の激しい怒りは若い獅子がうなるよう。しかし、その恵みは草の上に置く露のよう。」
箴言19章9-12節
私たちは色んな中で生きています。家庭、学校、会社、地域…そうした中で一生懸命になるのも大事なのですが、自分自身をまず大切にする、愛することを忘れてはいけません。このいのち、神様から与えられたものなのですから、その時間の過ごし方、健康、色んな面で自分を大切にする、愛さないと、神様から与えられている大切な部分が欠けてしまう。何より神様は私たちをご詩人のイメージに似せてつくられ、最高傑作とされた素晴らしい存在。それを汚したり、傷つけたりするなんて。時には自分が嫌になるような事あってあるかもしれない。どうにもならない、と感じる時もあるかもしれない。そんな時は私たちを創られた、愛してくださっている父なる神様に帰ろう。神様はあなたを癒し救うためなら御子イエス様のいのちさえ惜しまなかった、そんな神様の愛があなたを包んでくださる。そしてそのあなたからさらに周りへと豊かないのちが溢れ流れていく。今日、改めて神様の愛を受けながらこの与えられた命、もう一度見かえしてみませんか?そしてこの神様の愛でいっぱいにしていただき、間対日に一日歩みたいものです。
さて、↑は神様が古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向け語られ示された箴言、知恵のことば・いのちのことば、そしてこれを受けソロモンが書き残し私たちにも示されたことばの続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られ示されていましたが、神様は私たちに良い思慮を得てほしい、と神様からその愛を、御心を溢れ流れさせてくださっているんですよね。どこにあるのか分からないのではなく、確かにその源に神様がおられ、神様から私たちを良いもので満たそう、着飾らせようという確固たる意志が注がれ、その御心を神様は行ってくださっているわけですね。神様が私たちをはじめに愛してくださっている、この神様との初めの愛、その関係にいつも帰りたいですね。ここに確かに愛がある。確かな神様がおられる。
その神様はソロモンに向け、また彼を通して私たちに向けてさらに「思慮を得る者は自分自身を愛する者、英知を保つ者は幸いを見つける」と語られ、これを受けてソロモンもこの知恵のことばを書き残します。
「自分自身を愛する者」というとあまりよく聞こえないかもしれないですが、実はイエス様は最も大切な教えは何ですか?とある日聞かれた時に、「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです」と教えられました。この2つの命令自体は旧約聖書の時代と言いますか、イエス様が人となってお生まれになる前の時からずっと神様から語られていた事、「きょう、私が命じておいた主のおきてと命令とを守りなさい。あなたも、あなたの後の子孫も、しあわせになり、あなたの神、主が永久にあなたに与えようとしておられる地で、あなたが長く生き続けるためである」と、神様が私たちの幸せを願って語られた律法など、それは結局この3つの愛に集約するんだよ、と仰られていたわけです。
形だけ誰かに従うふりをする、愛しているふりをする、そういうのではなく、まず神様を愛する事、そして「自分自身を愛する」、そのように「あなたの隣人(私たちの苦手な人も、ですよ?)を」愛する、この3つの愛に生きること、その中身に神様の幸せが私たちを満たされるんだよ、そう仰られるわけですね。何より神様は私たちを幸せにしたい、幸せに生きてほしい、そういう思いで溢れていることを忘れてはいけませんね。この3つの愛の関係の中に。神様と、人と、私たちの周りの人たち、家族、友達、学校、職場、地域、そうした中で神様の愛を現されることで。そう、全ての中心、主は神様、この神様の愛が溢れ流れ、いのちを、幸せをもたらして下さるのです。希望的観測ではない、確かにおられる、生きておられる、この天地万物を創られ、私たちをつくられ、いのちを与え、今日もすべてを保持し、また養ってくださっている神様が。
そういう意味では↑の「思慮を得る者は自分自身を愛する者、英知を保つ者は幸いを見つける」ということばと、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」というイエス様の仰られる大切な第1の戒め、これは同じ何です。思慮を得る、ということは、自分を愛する者は、この神様を心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くし神様を愛する。その中に神様の思慮が、英知が、愛が、御力が、素晴らしさが…もう、その全てが私たちに注がれ、私たちを保ってくださるのです。
ただ私たちは世の様々なものに影響を受けて、時に心を委ねて、状況にあきらめて、疲れて、心奪われてしまう。神様から愛された素晴らしい存在であるはずなのに。どうしてこんなことになったのだろう、そう思いたくなる時もあるでしょう。でもそんなものに私たちを支配させる、あなたをコントロールさせるなんてもったいない。神様はあなたに最高のものを与えたい、その神様から頂ける最高の愛を蔑ろにするなんてもったいないじゃないですか。神様はあなたに最高のいのちを与えてくださった、神様のイメージ通りに、神様に似せてつくられたのに、そんな素晴らしい私、あなたを奪わせるなんてなんともったいない話ではないですか。
私たちはこの神様の愛が日々の歩みの中に溢れることをどれだけ求めているでしょうか。私たちの健康だってそう、時間と言いますか神様から与えられた日々だってそう、罪やらそうしたものに奪わせてはいけない。自分なら何でもできると思って、それこそソロモンのように神様を追い出すのではなく、神様の霊で満たされていく、そうしたらいったいどれだけ素晴らしいあなたになるだろう、あなたの日々になるだろう。神様の愛が溢れるなんて。その愛はさらに豊かに溢れ流れ、その流れるところは全てが生きるのです。
「偽りの証人は罰を免れない。まやかしを吹聴する者は滅びる」といいますが、私たちの周りには偽りの証人と言いますか情報、証言が溢れている、いやそれが偽りかどうかさえ分からないほど今の時代は巧妙になっている。まやかしを吹聴されてもそれがまやかしかどうかさえ分からないくらい。でもそんなものによって、あなたが偽りの存在になってはいけない。神様があなたに注がれた愛から離れていって滅びに進んではいけない。むしろ神様は私たちの幸せを考え、愛するがゆえに、この偽りの支配から、罪の中から、疲れや思い煩い、痛み、まやかし、妄想したものから解放するため、神様は御子イエス様に私たちのこれらすべてを罪と共に身代わりに背負わえ、十字架にかけ、罰し死なせたのです。ありえない、でもそのありえないほどの愛、偽りではない本物の愛をここに実現させたのです。このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る人に、神様はこの人は無罪です、と証言してくださり、解放してくださったのです、このイエス様をもって。そして本来あるべきあなた、本物のあなた、神様のイメージされた最高のあなたに回復させてくださるのです。
私たちは一体この神様の愛をどれだけ受け取っているでしょうか。神様があなたに注がれている愛をあなた自身大切にしていますか?これを用いていますか?神様の偽りではない本物の御国、愛、御心が溢れ広がっていく事をどれだけ願っているでしょうか?
「愚かな者にぜいたくな暮らしはふさわしくない。奴隷が主人を支配するのは、なおさらのこと」。私たちにぜいたくな暮らしはふさわしくない、というわけではありません。贅沢をどうせするなら、神様の愛、素晴らしさがあふれた贅沢さなら本当に素晴らしいですよね。奴隷が主人を支配する、神様を自分の召使のようにする歩みじゃなく、私たちが神様の御前にへりくだり、神様の素晴らしさを求める、そこに確かに神様の素晴らしさが現れるのです。
ソロモンは別の書簡で「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。私は知った。人は生きている間に喜び楽しむほか何も良いことがないのを。また、人がみな、食べたり飲んだりし、すべての労苦の中にしあわせを見いだすこともまた神の賜物であることを。私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。神がこのことをされたのだ。人は神を恐れなければならない」と書き残しています。
神様のなさることはどんな時でも素晴らしい、美しく輝かせてくださるのです。確かに私たちは神様の初めから終わりまで見ているわけではないから分からなく不安になるかもしれない。でも神様は天地創造のはるか前からおられ、今もおられ、これからもい続けて下さる神様、支え、養われる、その素晴らしさをすべての時に現して下さる、美しく輝かせてくださる神様なのです。だから私たちはこの神様の御前にへりくだり、神様の素晴らしさ、取って食べていいよ、と言われている一つ一つのくだもの、恵み、これをいただこう。そこに神様は幸せを見出させてくださるのです。神様のなさることは他の何かで付け加える必要のないほどぜいたくな素晴らしいものなのですから、私たちにとって。それほどの尽きることのない愛で私たちを神様は満たして下さるのです。それこそ御子イエス様のいのちを私たちに与えてでも、あなたに生きてほしい、そう願われた神様の愛で。
「人に思慮があれば、怒りをおそくする。その人の光栄は、そむきを赦すことである。王の激しい怒りは若い獅子がうなるよう。しかし、その恵みは草の上に置く露のよう」。私たちは思慮をもち、神様の御心を祈りながら、この与えられた愛をもって生きよう、隣人に仕えよう。そこには人の怒りや何やらが引き起こすものではない、神様の恵みが、それこそ毎朝草の上に露が置かれているように、私たちの上に置かれているから。神様の御怒りではない、神様の赦しと愛が、イエス様のいのちにあって和解された神様の愛が、御心が現わされるなら、あなたは、あなたのいる場所は潤され、満たされる。私たちはもう神様から背負向け、背くような歩み方をやめよう。
パウロは「高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。また、人の益を計り、良い行ないに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように」と勧めます。私たちはこの世の富と思えるものを追い求めるのではなく、頼りにならないものにのぞみを置くのではなく、私たちのために御子イエス様のいのちをもってすべてのものを豊かに与えてくださり楽しませてくださる神様にのぞみを置き、この方が築き上げてくださる日々、満ち溢れさせてくださる日々に大いに期待し歩もう。神様の与えてくださる日々をどこまでも愛し喜ぼうではありませんか。