「思慮のあるしもべは、恥知らずの子を治め、その兄弟たちの間にあって、資産の分け前を受け継ぐ。銀にはるつぼ、金には炉、人の心をためすのは主。悪を行なう者は邪悪なくちびるに聞き入り、偽り者は人を傷つける舌に耳を傾ける。貧しい者をあざける者は自分の造り主をそしる。人の災害を喜ぶ者は罰を免れない。孫たちは老人の冠、子らの光栄は彼らの父である。すぐれたことばは、しれ者にふさわしくない。偽りのくちびるは、高貴な人にはなおさらふさわしくない。」
箴言17章2-7節
日本ですと愛、というと何か照れ臭く感じることかもしれませんが、この愛って大切ですよね。あ、愛は恋愛的な愛だけではないんですよ?古代ギリシャ語ですと分かりやすいのですが、大きく分けて4つあるらしく、まずエロース、情熱的な愛、恋愛、欲望、そしてフィリア、友情、仲間同士の愛、さらにストロゲー、家族的な愛、自然な情、最後にアガペー、無条件・自己犠牲的な愛、相手の益を第一に求める愛という具合に分類されるそうです。家族や友人との中にもこの愛が流れている。あるいみではどんな中にも必要なのがこの愛なのでしょう。聖書でも、いつまでも残るものとして信仰、希望、愛といいます。これはたぶんチャペルや教会で結婚式を挙げると聞いたことがあるかもしれませんが、その中で最も優れているのが愛、と言います。人の愛には限界は確かにあるかもしれません。だから色んなことでうまくいかない。でも神様は、私たちをつくられた父なる神様はあなたを心から愛し、その愛を注いでくださっている。どんなところにも、どんな場面にもご自身の最高を現したいのです。だから私たちはどんな時にもここに神様の愛が現れることを願い祈ろ。その中にこの完全な神様の愛が現わされたらなんと素晴らしいことか。神様はあなたを救うためなら御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えてくださった、それほどの愛が注がれている。私たちはこの方の愛を、この方をどこまでも追い求めよう。神様の愛があなたを今日も覆う。
さて、↑は古代イスラエル王国3代目の王であったソロモンに向け、神様が語られ示された箴言と言いますか知恵のことば、またその彼がこれを書き残し私たちにも語られたことば、その続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られ示されていましたが、神様は私たちのうちに知恵・御心を働かせてくださっているんですよね。私たちはこんなところに何があるだろう、そう思う中にあって世を恐れるのではなく神様を恐れる、神様の御前にへりくだる中で神様の知恵が完全に現され神様の飾りと言いますか、良いもので満たして下さる。この神様を求めていい、と招いて下さっている、何と感謝なことでしょう。
そんな神様はソロモンに、また彼を通して私たちに向けてさらに、「思慮のあるしもべは、恥知らずの子を治め、その兄弟たちの間にあって、資産の分け前を受け継ぐ」と語られ、示されます。昨日の分かち合いでは困っている人にあなたの持っているよいものを分かち合う、愛を分かち合うことを見ましたが、さらに一歩踏み込んで、「思慮あるもの」であることをここで語られています。思慮、というと何かこう、よく考えて行動するとかそういう風に感じがちですが「慮」、配「慮」の部分がここにはあるんですよね。相手に配慮をする、相手のことを考える。
仕事などもそうでしょうけど、お客さんへの配慮、思慮が行き通っていると好感が持てて、また行きたい、と思ってもらえるようになりますよね。また、何も考えずに相手にずかずかと踏み込んであれこれ持論を展開するよりも、思慮あるアドバイスは相手を助け成長させることができるし、ここで言っていることはまさにその通り、と多分ほとんどの人が思うでしょう。この配慮って本当に大切だと思います。もちろん配慮が行き過ぎて相手を逆に傷つけるなど、なかなか難しい所もあるのですが、そこは「思慮」してその人に何が必要何かを考える必要もありますね。でもそうした小さな事と思うことに忠実な中にあって大きなものを得るのではないか、と思います。
イエス様は私たちに互いに愛し合うことを教えています。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」と。イエス様が教えられている通りに。その互いに愛し合う中にあって神様の愛が豊かに現されるのです。この配慮、というのもその一つですね。もし、私たちがそういう意味で、自分の思慮を超えてこの神様の思慮、私たちに現したいという愛、御心を思い、祈り、導かれ、それを行うなら、私たちのできる小さなことを超えた神様の大きなことがその人の内に現される。そこになる。そこに神様の御国が広がる、神様の愛が、配慮が、思慮が、その知恵・御心が溢れた場所へ。そこに受け継がれる神様から来る「資産の分け前」はいかばかりだろう。
私たちはどうしても自分がしたいことを人に押し付けたり、語って、下手をすれば屈服させようとする。高ぶって。もちろん言わなければいけないことも時にはあるのですが、私たちは互いに愛し合うことを忘れていませんか?クリスチャンでも起こる事。神様を愛します、と言ってそう歌って、祈って、でも互いに愛し合うことを忘れる。神様を愛するという事は神様の戒めを守る事とイエス様は教えられている、この互いに愛し合うという事は最も大切な教えの一つと仰られたこの事を忘れて。「銀にはるつぼ、金には炉、人の心をためすのは主」と↑で語られていますが、自分の内側にある様々な思いをるつぼのように不純なものを私たちの心の内を取り除いていただき、神様の愛で満たされる、そのことを忘れてはいけませんね。神さまより前に出て、押しのけるのではなく、神様の思慮、配慮がなることを祈り、何をすべきか、何を語るべきか委ねる、その中に神様の知恵、驚くべきことが現わされるのではないでしょうか。人の心を知る神様が最善をなして下さる。あなたは神様の資産の分け前がここになることをどれだけ求めているでしょうか。
神様はさらに、「悪を行なう者は邪悪なくちびるに聞き入り、偽り者は人を傷つける舌に耳を傾ける」と語られ示されていますね。これはある意味で先ほどの思慮あるものと真逆の行動です。邪悪とか、偽りもの、と言われるといやな感じをされるかもしれませんが、神様はそうしたものにあなたの唇や、あなたと誰かの関係、どこかでの付き合い、そうした場所が満たされることを良しとは思わないのです。時には色んな誘惑がある、自分の思う通りに行かない時、あまりよくない選択をするときもある、イライラしてその感情や、ささやく声に耳を傾けてしまうこともある。でも、神様はそれを悲しまれるのです。
先程、主に誰かとの関係において自分がする思慮・配慮という面で見ていましたが、その前に神様はあなたの内にそうした偽りものが支配される、それらの思「惑」があなたを支配することがない様に、神様の思慮・愛で満たされることを、この神様があなたを思って語られる言葉に耳を傾けよう、そう訴えるわけです。神様の唇には偽りはなく、その口から出た言葉が虚しくかえってくることはなく、必ずことを成し遂げてくださります。神様があなたの家を、日々をたて上げてくださっている、いのちを、神様の愛で満ち溢れさせてくださっている。その神様があなたに、またあなたの周りにその愛を溢れ流れさせてくださっている。神様の愛の川は枯れることはなく尽きることもありません。私たちが耳を傾けているのは誰の声、何の声ですか?神様の声に耳を傾けていますか?
「貧しい者をあざける者は自分の造り主をそしる。人の災害を喜ぶ者は罰を免れない」。私たちは誰かをあざけっている場合ではありませんよ?イエス様は「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。…まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」と仰られました。そのあなたを通して神様はやはり働かれるのです。そこに神様の供えられた御国が成るのです。神様が創り上げようとしている素晴らしいものをあざけりそしって、人の災害、残念なことが起こる事をどうして望めるのでしょう。神様はあなたに生きてほしい、とその恵みを注がれているのに。
「孫たちは老人の冠、子らの光栄は彼らの父である」。神様は孫と言いますか、子に良いもので満たしたい、あなたが生きること、幸せになることが神様の冠と言いますか喜びなのです。神様は私たちがこの神様からの栄誉を失い、悲しみに沈んでいる、そんな私たちを「思慮」、思い、思い抜いて、あなたを救うために神の御子イエス様にその思い煩いも痛みも、罪も一切身代わりに背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせました。そこまでしてでもあなたに生きてほしい、救われてほしい、神様の御国を継いでほしい、その思いでこの究極の愛を、思慮を現されたのです。この神様の愛が私たちを今日生かして下さり、また注がれているのです。それなのにどうして私たちはこの神様のなさろうとすることを貧しい、とあざけったりそしったりすることができるでしょう。神様はあなたをあざけらず、その愛を惜しまず与えられたのにどうして、この愛を馬鹿になどできるでしょう。
「すぐれたことばは、しれ者にふさわしくない。偽りのくちびるは、高貴な人にはなおさらふさわしくない」。このかみさまのことばが、本来相応しくない、神様の愛を受けるにふさわしくないものに注がれている。それでもあなたに生きてほしい、とあなたに今日も語られている。私たちはこの神様の愛を、配慮をどう今日受け止めているでしょうか。神様はあなたに偽ることなくその愛を語り、現し、それを行ってくださっている。だから私たちもこの神様の真実の愛をどこまでも追い求めようではありませんか。そしてこの神様の愛を分かち合う者であろうではありませんか。しれものだった私たちを神様の子へと引き上げてくださった、こんな私たちを救うために御子イエス様のいのちをさえ惜しまず与えてまで救ってくださった。この神様の思慮が成し遂げてくださる大いなる計画に信頼し、期待し、歩もうではありませんか。「思慮のあるしもべは、恥知らずの子を治め、その兄弟たちの間にあって、資産の分け前を受け継ぐ」。この神様がイエス様にあって与えてくださった資産の分け前、そこから広がるその御国、いのちが豊かに現され、私たちの内にも喜びが広がりますように。神様の愛、思慮は今日もあなたに、あなたの周りにも注がれている。神様の愛する力は無条件に今日も注がれる、この無限の愛の大きさにただ感謝し、今日も歩もうではありませんか。この神様の無限の愛が無限に、豊かに広がり、全てを生かし、癒し、満たす、そのことを信じ期待して.