しらがは・・・その数は・・・ | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「しらがは光栄の冠、それは正義の道に見いだされる。怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。くじは、ひざに投げられるが、そのすべての決定は、主から来る。」

箴言16章31-33節

 

白髪…年と共に気になるようになってくるところ。白髪があるよ、と言われると結構気にしてしまう。まあ、きれいに白髪になれば、といいますか、はくはつになればいいんですけど、髪が薄くなるとね…まあそんなことはどうでもいいのですが、私たちのいのちって一日一日の積み重ねでこうして今があるわけですよね。ある意味では髪の毛が白髪になる時はそれだけの日々が積み重ねられてきた証。苦労の証?まあそれもあるのかもしれませんが、同時にあなたに関わった人たちとの時間であったりもしませんか?何よりあなたのいのちをくださった神様とあなたとの時間の積み重ね。たとえ白髪になろうと、頭がうすくなろうと、確かにそこには神様の輝きがある、輝いている。あなたの失われゆく日々、神様の恵みの日々が失われることがないように、御子イエス様のいのちをもってまであなたを取り戻された神様の栄光・素晴らしさが今日も輝いている。逆に神様のこの輝きを失わせることがないよう、私たちは日々この神様を求め歩もうではありませんか。

 

ということで、↑は神様が古代イスラエル王国の3代目の王であったソロモンに向けて語られた、またその彼を通して私たちに書き残された箴言、知恵・いのちのことば、その続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と示されていましたが、神様は、父なる神様は私たちを我が子と呼んで下さって、その神様の素晴らしさで輝かせてくださるんですよね。いつかは失っていく、輝きがなくなるような者ではなく、おろかなものでもなく、蔑む必要もなければ捨てる必要もないほどの最高の知恵・御心によって。それを得てほしいから、神様の話を聞いてほしい、従ってほしい、そう訴えておられるのですね。生まれてから今に至り、これからも。

 

そんな神様はさらにソロモン、また彼を通して私たちに向けさらに「しらがは光栄の冠、それは正義の道に見いだされる」と語られ、これをソロモンも書き残します。白髪があるよ!と言われると髪を触って、どこどこ?と言いたくなるところ、鏡を見たくなるところですが、人は年を取るという事を、老ける、と言いますか老化していく姿をあまり良くは考えないんでしょうね。私も肉体的な衰えを日々感じるところではありますが。ちなみに、私が高校生の頃フランス語の教師だった教師は、「フランスでは、あなたは17歳ですか?」と若く見られるよりも、「70歳ですか?」と言われる方が喜ばれる、と嘘かまことかそんなことを言っていました。自分の年を重ねてきた日々に誇りを持っているのかな?でも確かに、私たちが今いるのは、いのちが与えられて、誰かに守られ、支えられ、誰かとの関係の中に生きてきたその積み重ねがこの姿なわけですね。

 

でもそのいのちを与えたのは誰?偶然できた?とんでもない。人のいのちは偶然できません。人の誕生のプロセスを考えれば分かりますよね。どんなにその元となる何かができても、そこに命を吹き込むことはできません。お母さんの胎内で形作るのだって誰かがしなければこんな素晴らしいからだにはなりません。私たちの創り主なる神様が私たちにいのちを与え、体を形作り、また私たちの周りに様々な環境、家族、友、そうした環境を整えながら、また衣食住を与えられながら育ち、今ここにあるわけですね。

 

そういう意味では、私たちの今の姿、髪の状態など、恥ずかしいと思う必要はありません。ちなみに、髪の毛がない方も大丈夫です。以前レビ記の分かち合いの中でも見ましたが、ハゲは聖い、とはっきりと神様は言っています(頭皮の、と言いますか、皮膚病と比較してですが)さらに、ソロモンより先の時代になりますが、やはり以前分かち合いの中で見ました列王記の中でも、はげとある預言者を馬鹿にした人が雌熊に殺されるという出来事がありました。まあこれは預言者、神様の預言を馬鹿にするものがたどっていく姿を現されているのかと思いますが、預言者でなかろうと、あなたの今あるのはこの神様の働きにあってのことです。

 

だからその、雌熊の問題はともかくとして、今のあなたを馬鹿にはできませんよ?神様に生かされ、神様が働かれ守られ、今ここにあるのですから。また同じように神様によって造られた人を馬鹿にするのもとんでもない話。同じ神様の作品、愛された存在。むしろその人が落ち込んでいるなら、疲れているなら、困っているなら助けないと。それは↑の前の箇所で見てきたように、快い、親切なことばで互いの徳・神様の恵みに生きられるように、愛を語る、悪いことばや貶める言葉ではなく神様の恵みを知って生きられるよう語りかける、そのことだって同じ。その愛のことばによる関わり、神様の愛をもって語り仕える、その中に神様が働かれたなら、その人のいのちは素晴らしいものになるのではないか。その恵みが積み重ねられ、あなたの白髪?髪のうちにあらわれるといいますか、そこに神様の栄光・素晴らしさが輝いているわけです。

 

ちなみにですが、別に年を取ったから神様の素晴らしさが現わされている、とかそういうことはないんですよ?映画でサムソンとデリラって観たことありますかね。あれは聖書の中にある、と言いますか歴史で起こったサムソンという士師が国を守るために神様がたてられた時の出来事なのですが、彼は神様から選ばれ、ナジル人とされていました。ナジル人というのは何か特別に誓いを立てる人のことで、髪の毛に剃刀を当てません。他にも酒やぶどう酒を飲まないとか、死者に近づかない、などあるのですが。それはお酒の力よりも神様の力、聖霊様に委ねる、という意味合いもあるでしょう。そしてそのうちに神様が働かれると信じてサムソンが剃刀を髪にあてなかった間はものすごい神様の力、働きが彼を通してありました。しかしデリラに騙されてと言いますか、彼自身女性に弱かった面もあり、その秘密を洩らし、ペリシテ軍の襲撃にあった事があり、その時彼は力を失って何もすることができず、とらわれ、ちょっと口にするのも書くこともはばかれるような状態にされました。彼は神様を、これくらい、と侮った結果そうなったわけですが、彼が悔い改めたころ、髪の毛も伸びて来て神様により頼んだ最後は、神殿を丸ごと破壊するほどの力を取り戻した、という事がありました。

 

そういう意味では髪の毛は神様の力の象徴、神様がそのうちに働かれている証拠。あ、薄くなったり剥げてしまった場合も同じ。大丈夫です。先に挙げた通り神様の栄光が輝いて、聖くしてくださっていますから。

 

また、女性の髪の毛についても聖書で「女にとって髪は栄光である。それはヴェールの代わりに与えられたからです」とあります。まさに女性にとっても髪は神様がくださる美しさと名誉の象徴なのです。ヴェールなんて素敵な表現じゃないですか。そうしたもので神様があなたを覆ってくださっている、何と素敵な話。

 

もっというならイエス様は、「あなたがたの髪の毛はすべて数えられている」と仰られ、私たち一人一人のことを神様はご存じで、一本一本に至るまで心配される神様があなたをその髪の毛1本以上に心配して守られ、その光栄、神様のすばらしさ、美しさで覆ってくださる。

 

今日は髪の話題だらけですね。すみません。でもそう書いてあるのですからそこはご勘弁ください。そろそろ先に進みますが、神様は髪を超えて御子イエス様のいのちで私たちを覆ってくださったんですよ?知っていますか?私たちが神様から離れ、神様を疑い、神様のくださっているものを取り除く、それこそサムソンのようにそれを大切にせず、あなたというものを奪い去られた、そんなあなたを救うために御子イエス様のいのちを惜しまず与えてでも、罪人から神様の子という、先程の名誉の話のごとく、素晴らしい特権を与えてくださった、その神様の名誉が私たちに与えられている、この神様の働きが、聖霊様の働きがあり、満たされ、そのうちに神様の素晴らしさが輝いているんです。それなのに私たちは神様を疑って剃刀を当てたり、罵っている場合ではありませんよ?あなたの隣人(苦手な人も含め)との関係、会社、家族、そうした中で納得がいかずあれこれ悪いことばや神様への疑いを言っている場合じゃない、ここに神様の御働き、力が現され、覆われ、悔い改めた先に神様の働きがあったサムソンのごとく回復されていく事、神様が勝利して下さる事を信じて待ち望んでみませんか?神様の愛を語って、またその行動に現してみませんか?

 

「しらがは光栄の冠、それは正義の道に見いだされる」とありますが、まさに私たちは神様のその道の中に神様の正義、光栄を見出すのです。それは白髪になっても、髪が薄くなっても。自分の髪が心配で鏡をのぞく時、そのうちに働く神様のすばらしさを見出すのです。

 

その神様はソロモンに、また私たちに「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる」と語られます。私たちは状況に怒ったり、神様に対して自分の思う通りにならないからと怒るよりも、それでも神様があなたの日々の歩みの中に、築き上げてくださる神様の恵みに信頼し待ち望む、その中に本物の勇士なる神様が確かに駆けつけ、あなたのその状況を勝ち取ってくださり、勝利を治めてくださる。そこは神様の場所となる。だから私たちは心を治める、いや神様に納めていただく、守っていただこう。あなたの日々はイエス様がいのちをもって取り戻して下さったのだから。これを他のものに奪われてはいけない。攻め取らせてはいけない、支配させてはいけない。

 

ここまで箴言をずっと見てきていますが、その前半の方で神様が、「わが子よ。私のことばをよく聞け。私の言うことに耳を傾けよ。それをあなたの目から離さず、あなたの心のうちに保て。見いだす者には、それはいのちとなり、その全身を健やかにする。力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく」と語られていたことを覚えているでしょうか。神様のことばが私たちにいのちを与える、導いて下さる。神様の語る言葉は虚しくかえってくることはなく、必ずことを成し遂げてくださるのです。だから状況があなたにささやきかける声、サタンの声に耳を傾けている場合ではありません。この神様が今、この瞬間も働きながら、あなたの日々を、あなたを築き上げてくださっているのですから。あなたのために御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えてくださった神様を私たちは必ず見い出す、いや見い出させてくださる。私たちの全身を健やかにしようと神様は今日もあなたの内に、その愛ゆえに働かれているのです。だからこの心を治める、守ろう。神様に心を向け、耳を傾け。神様があなたを確かに守ってくださるのだから。

 

「くじは、ひざに投げられるが、そのすべての決定は、主から来る」。くじを引いて、とか占いとか、不確定な何かに尋ね求めるのではなく、この確かに今も生きて働かれている神様、その神様が決定され成し遂げてくださる御業に私たちは今日委ねよう。神様は気分屋ではないし、気が向いたら何かをされるのでもなく、偶然何かが起こるような不確定なことをするわけでもない、神様はあなたに最大限の愛をもって今日も働かれている、最高の計画をもって。御子イエス様のいのちを惜しまず与えてくださった、それほどの愛からくる計画を。私たちは主から来る救いを、勝利を、恵みを待ち望もう。この方が積み重ねてくださる恵みの日々、白髪になってもいつも働かれている神様に信頼し歩もうではありませんか。