いのちを守るために | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「知恵を得ることは、黄金を得るよりはるかにまさる。悟りを得ることは銀を得るよりも望ましい。直ぐな者の大路は悪から離れている。自分のいのちを守る者は自分の道を監視する。高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。へりくだって貧しい者とともにいるのは、高ぶる者とともにいて、分捕り物を分けるのにまさる。みことばに心を留める者は幸いを見つける。主に拠り頼む者は幸いである。」

箴言16章16-20節

 

高山病というのがあります。これにかかると段々まわりの、風景が見えなくなり、音もよく聞こえなくなるそうです。頭痛、吐き気、嘔吐、食欲不振、倦怠感、眠気、めまい、睡眠障害なども出てくるそうですが、それによって歩行障害やら意識障害、呼吸障害などに発展していのちの危機になるとか。高慢「病」に似ていますね。高慢になると同じように周りの人の声が聞こえなくなる、状況を見なくなる。他の人の頭を悩ませ、その人自身もそうですが本来のいのちの歩みや意識から離れ倒れてしまう。私たちはそうならないためにも、神様を見、神様の御声を聞かなければいけない。あなたの事をだれよりもご存じの方神様は私たちの歩行・歩みを支え、導いて下さるのですから。あなたのために御子イエス様のいのちさえ惜しまない方が。そこまでされたこの方があなたのいのちを良いもので満たそうと日々働かれているのです。私たちは今日、この神様が現わそうとしている愛、素晴らしさを求めよう。神様の御前にへりくだり、この愛にもう一度帰って、この神様の愛の流れの中、歩ませていただこうではありませんか。そこは全てが生きるから。

 

さて、↑は古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向けて、またその彼を通して神様が語られ示された知恵のことば・箴言の続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と示されていましたが、私たちに神様の最高の知恵・愛からくる御心を受け取ってほしいからこうして語られているわけですね。愛するわが子に、父なる神様として、つくり主なる神様が最高のものを与えたい、最高の命に生きてほしい、と惜しむことなく。この世のどんな美しく見えるものにも勝る神様の御心が、知恵が私たちを輝かせてくださる。神様という初めからいつも私たちの生きるすべてがあり、そこから流れ続けているこの神様の愛を、御心を受け取りにおいでと神様はいつでも待っている、この事を忘れてはいけませんね。

 

そんな神様はさらにソロモン、また彼を通して私たちに向けその知恵を語られますが、↑では「知恵を得ることは、黄金を得るよりはるかにまさる。悟りを得ることは銀を得るよりも望ましい」と語られ示されます。

 

たぶんこのことばを一番実感したのはソロモン自身でしょう。ソロモンは王になる時、神様から「あなたに何を与えようか。願え」と聞かれたんです。そこで彼は「あなたは、あなたのしもべ、私の父ダビデに大いなる恵みを施されました。それは、彼が誠実と正義と真心とをもって、あなたの御前を歩んだからです。あなたは、この大いなる恵みを彼のために取っておき、きょう、その王座に着く子を彼にお与えになりました。わが神、主よ。今、あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべを王とされました。しかし、私は小さい子どもで、出入りするすべを知りません。そのうえ、しもべは、あなたの選んだあなたの民の中におります。しかも、彼らはあまりにも多くて、数えることも調べることもできないほど、おびただしい民です。善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、このおびただしいあなたの民をさばくことができるでしょうか」と答えました。

 

ソロモンは自分の父である前王ダビデの姿を見、また国が祝福されていたことを見てきました。まあもちろん失敗があったり、様々な問題が起こってはいたのですが、それでも神様の恵みと憐みによって国が神様によって確かに祝福されていたことを。神様の恵みがあったからこそなんだ、それが彼の思いだったのです。ただ自分にはそんな国を治めるような知恵などないことを彼自身分かっていた。子ども、彼自身、自分は何でも知っている出来る大人なんだから神様など必要ないとは考えず、むしろ子どものように神様に知恵を求めたのです。

 

すると神様は「あなたがこのことを求め、自分のために長寿を求めず、自分のために富を求めず、あなたの敵のいのちをも求めず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたので、今、わたしはあなたの言ったとおりにする。見よ。わたしはあなたに知恵の心と判断する心とを与える。あなたの先に、あなたのような者はなかった。また、あなたのあとに、あなたのような者も起こらない。そのうえ、あなたの願わなかったもの、富と誉れとをあなたに与える。あなたの生きているかぎり、王たちの中であなたに並ぶ者はひとりもないであろう。また、あなたの父ダビデが歩んだように、あなたもわたしのおきてと命令を守って、わたしの道を歩むなら、あなたの日を長くしよう」と答えてくださりました。まさに、神様の知恵、語られる言葉に従い歩む中に神様の祝福がある。「わたしの道を歩むなら」、そこに神様の全てが現わされる、用意されているんだ、と。

 

↑の「知恵を得ることは、黄金を得るよりはるかにまさる。悟りを得ることは銀を得るよりも望ましい」ということばは、まさに神様の道を歩む中に全てが与えられる、この考える金銀と思えるもの、それに「並ぶ者はない」神様のくださる恵みが与えられる、そういうわけです。私たちはこの神様のくださる悟りをこの世のものと並べて見ていませんか?ケースバイケースでこの件は神様にお願い、この件は神様の考えと私の考え、時代は違うから黙っていてくれませんか?としていませんか?ソロモンはその生涯の後半、神様だけではだめでしょう、と考えて諸外国との外交によって国を保とうとして、神様との交わりが希薄となり、ついには自分を他の神々に明け渡してし、せっかく神様のくださっていた黄金にも勝る素晴らしいいのちを失ってしまったのです。

 

「わたしの道」、神様の御心が現わされるその中を私たちは信じて進んでみましょう。他の何かに置き換えるなんて必要はない、そこには確かに神様にしか与えることのできない、神様由来の最高をあなたのために備えて下さっているから。イエス様も「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」と語られました。神様を求める中で、神様からすべての良いものが与えられる。神様の国から神様の義があなたの内に、また周りに現されていく、神様の愛からくる良いものが与えられる、これを神の御子イエス様が約束されたのです。あなたはこの神様に勝るものを何かに求めていませんか?この天地万物を創られ、あなたをつくられ、愛してくださっている神様に勝るものはありません。他のものに目を輝かせている場合ではありません。神様のくださる恵み、知恵、そのすべてに目を輝かせ、このいのちの道を歩みましょう。その歩みを、あなたを丸ごと神様が支えてくださるから。

 

「直ぐな者の大路は悪から離れている。自分のいのちを守る者は自分の道を監視する」とありますが、私たちは神様を信じて何になる?とその道は狭く見える時があるかもしれません。しかし、その道は神様に続いている。ここまで見てきたような、この世の何にも比較にならないほどの神様の恵みが、神様があなたに備えて下さったいのちの道なのです。神様があなたの日々を保全し守ってくださっている、その日々に必要なものをいつも備えて下さっている。これ以上に安全で確実、確かな道はない。こに続いているか分からない道、日々ではない、神様が保証してくださっているのです。だからこそ、ソロモンのように、自分の内に何かおかしなものが置かれてないか、支配されていないか、心を奪われていないかよく見てみませんか?傷や悲しみ、痛み、罪…神様はこれらを癒し聖め、そのいのちを回復させたいのです。

 

ダビデ王は「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。あなたは前からうしろから私を取り囲み、御手を私の上に置かれました」、と詩に残しました。神様は私たちの心の内を探り知っておられ、全てをご存じ、その上で支えてくださっているのです。彼の見えない、知らないうちに確かに神様が様々な助けを送ってくださったり、支えて下さていた、と。

 

彼はかつては高慢になり大きな罪を犯しましたが、それでも神様に立ち返り、改めて神様の恵みがどれだけ素晴らしいのか実感したのでしょう。この詩の最後に、「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください」と告白的に残しました。もし自分の内に神様の御前に高ぶったところがあるなら、自身の傷や痛み、神様の御前に傷のある道があるならそれを癒し、神様の正しい道へ、いのちの道へと導いて下さい、と。

 

「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。へりくだって貧しい者とともにいるのは、高ぶる者とともにいて、分捕り物を分けるのにまさる」。まあ高慢な人にあまり人はついて行かないし、良い関係は築けない。ただ気づかないだけで私たちもあの人はおかしい、間違っている、自分こそが正しいと言わんばかりに見くだすことだってある、下手をしたらこれを神様にも向けてしまう。

 

でも神様は私たちに破滅の道ではなく生きる道を、いのちの道を生きてほしいと願いあなたをつくられ、あなたを日々養おうとその御手を伸ばされているんです。私たちのうしろを支え、見えないところでいつも支え養ってくださっている。私たちが当たり前と思っているだけで。それこそ↑の黄金に勝る喜びをあなたに与えたい、現したい、その知恵・御心を現したい、それなのに私たちがその知恵を求めず高ぶって、神であるかのようにふるまってどうしましょう。むしろそうして私たちが神様から頂いたはずの最高のいのちを神様から離れ失っていく、そんな私たちを救うため、私たちのこの罪・神様を神様とせず好き勝手に歩んできた子の罪、一切を御子イエス様に身代わりに背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子としてくださるのです。このイエス様にあって私たちの全ては癒され、新しいいのちが与えられたのです。高慢になることなくへりくだりにへりくだられたイエス様によって分捕りものと言いますか全てが与えられるのです。このイエス様のいのちにあって与えられたもの、切り開かれた道、新しいいのちに何が勝る事ができるでしょう。

 

「みことばに心を留める者は幸いを見つける。主に拠り頼む者は幸いである」。私たちはこの命をかけて愛されたイエス様に心を留めよう。このイエス様が与えてくださる幸い、十字架によって成し遂げられ与えられた幸いに生きようではありませんか。そこからさらにイエス様の幸いがあなたの周りに溢れ、癒され、主の幸いに満たされることを祈りつつ、私たちもこのイエス様の御ことばにへりくだり、従い生きようではありませんか。このイエス様の御ことばは私たちのいのちのパン、あなたを日々生かし養い、幸いとしてくださるから。あなたのいのちを守り救うために来られたイエス様は遜られ仕えられた、私たちは高ぶるのではなく、このイエス様の御前にへりくだり、生きよう。イエス様が今日もあなたのいのちを守られるから。