「主は悪者から遠ざかり、正しい者の祈りを聞かれる。目の光は心を喜ばせ、良い知らせは人を健やかにする。いのちに至る叱責を聞く耳のある者は、知恵のある者の間に宿る。訓戒を無視する者は自分のいのちをないがしろにする。叱責を聞き入れる者は思慮を得る。主を恐れることは知恵の訓戒である。謙遜は栄誉に先立つ。」
箴言15章29-33節
目は口程に物を言うと言いますが、ただ何かを見るだけではなく、その目「つき」にその人の感情が現れたりします。ある意味では言葉には表れないその人の情熱が、誰かへの訴えが力づけることもある。すごいですよね。ただ見るだけではなく、目を通しても誰かにいい意味で働きかけることができるなんて。まあ逆に嫌な思いをさせることもありますが…ある意味では心の鏡のようにもなっているのかな。そういう意味で私たちは日々何を見ているのか、それも問われるのかもしれません。私たちが見ているものに希望を見出し、それが心、そして顔に現れ、誰かを力づけることができる。じゃあ何を?やはり一番力強いものを見るのが一番です。そこに希望を見いだせる。そう、神様。神様は私たちの希望となってくださる。この神様が私たちの心に働きかけてくださる。様々な御業、神様の日々現して下さっている養い、栄光・素晴らしさ、何よりその愛を私たちは見せていただき味わわせていただける。あの十字架に、私たちを救うために私たちの身代わりに全てを背負われ、そのいのちを投げ出してでも救われたその愛に私たちは希望を見いだせる。今日私たちはこの方に目を留め歩もう。主の希望が今日をもたらしてくださるから。
さて、↑は神様が古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向けて語られ、またそのソロモンを通して私たちにも示された知恵のことば箴言の続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と示されていましたが、神様は私たちに良い知らせを届けたいから訴えるわけですよね、良い道に導こうと。わが子たる私たちを愛してくださっている父なる神様は、霊肉共に健やかにしようと日々私たちを養ってくださる、だからこの神様の希望の光、源に帰ろう、と訴えるわけですね。この神様のもとにこそ命がある、と。
そんな神様はさらにソロモン、また彼を通して私たちに向け、「主は悪者から遠ざかり、正しい者の祈りを聞かれる」と語られます。え?祈りを聴いてくれないの?とこれを読まれた方は思うかもしれません。まあそもそも日本にいると、お願いを叶えてもらう、そんな感覚で祈ると言いますか、神社だのパワースポットだの出かけていきますが、祈りというのはただ願い事を言う、叶えてもらう、とかそういうものではないのです。というよりも存在もしないものに祈っても答えてはくれないですよね。むしろ存在する、この天地万物を創られあなたをつくられいのちを与えた方、あなたを愛しておられる方があなたの祈りを聴いておられる、聞いて下さっている方があなたと関係を持ってくださるのです。
考えてみると、大切な人と時間を過ごすのって、何か自分の願望を叶えるためとか、相手の思いにこたえるために過ごすわけではないですよね。一緒にいる時間、話す時間、楽しむ時間、ご飯食べる時間、色々です。それなのに神様は願いを叶えてもらうだけの対象?それって本当に神様を思っている?
ここで神様は「悪者から遠ざかり」と表現されていますよね。この悪者には様々な意味合いがあると思います。それこそ言葉通り悪いことをする、している人とか。でもそれだけではなくあなたを傷つける何ものかから心を離す。もしくは神様ではないあなたをとらえる者から離れる、遠ざかる、そんな意味合いもあるでしょう。そして先ほども申し上げましたが、関係、神様とその創られた私たち、その関係の中に帰ってくる、心を向け、祈る、それが大事なのです。その中で願い事だけではない、あなたの心の内を知っておられる神様があなたの心に触れてくださり癒して下さったり、またその道を示して下さったり、色んなことを語らって元気づけてくださるでしょう。その中でも、まさに関係という言葉通り、一緒に歩んでくださる。すぐそこにおられるからこそ、私たちは祈っていい、求めていい。大切な人と過ごす以上の素晴らしい喜びがその中に現れてくるはずです。そして神様は「正しい者の祈りを聞かれる」とあるように、まさに神様の正しさ、愛からくる御心、そこへとあなたと一緒に進み導いて下さるのではないでしょうか。
イエス様は祈ることについて何度も教えられた、という事は祈っていることを聞かれていることがわかりますが、イエス様は十字架に架かられる前夜、弟子たちにこれから苦難困難が来る、しかし「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです」と語られました。彼らはイエス様と一緒にいながらもイエス様の心を見ようとしていなかった、でもイエス様を求めて良いんだ、見るべきはその苦難困難じゃなく、イエス様を見て、イエス様を求めていい、その中で神様の喜びが私たちに溢れ、私たちに喜びが満ち溢れさせてくださる、と約束されました。イエス様の十字架による、私たちと神様との和解、そこに回復された関係が喜びに満ち溢れたものになる、だからイエス様の御名によって祈っていい、求めて良いんだ、と仰られたわけですね。本来正しくない、神様から離れていた私たちをイエス様の十字架によって義としてくださる、正しいものとされ、そこに豊かな関係が結ばれる、何と感謝なことでしょうね。この十字架によって、イエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る全てのものが神様の子として迎え入れてくださるのだから。
さらに↑で「目の光は心を喜ばせ、良い知らせは人を健やかにする」と語られていますね。序論でも見ましたが、目力というのは本当にすごいものがあります。ただものを見るだけではない、もちろん見るという事ができ、その見たものから情報を得たり、励まされたりするからすべてはそこから始まるのですが、その誰かの与える情報、それは誰かを励ますことができます。その表情に感情が現れ誰かに希望をもたらすことができる。
そういえばイエス様は「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう」とも仰られていますよね。まさに私たちが目で見ているものが良い意味でも悪い意味でも影響を受ける。それはあなたの内にともるとイエス様の言う光にも影響を与え、周りにも影響を与えてしまうわけですね。では何を見ていればいいのか。世の中様々なことがある。でもまことの光なるイエス様を見る時、私たちの内に希望の光が灯され、心を喜ばせ、私たちを健やかにして下さります。
イエス様は「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」と仰られ、私たちと共にいてくださり、私たちが暗闇の中を歩むことなく希望をもたらして下さる、と。イエス様は「わたしが世にいる間、わたしは世の光です」とも仰られている通り、今イエス様は世の光としてその希望を灯して下さっている。世の中様々な暗いこと、辛いことがある中で、確かにイエス様の光が輝いている、暗闇の中で暗闇を見てもしょうがない。しかし先にも申し上げました、私たちのためにいのちを投げ出し救われたイエス様、身代わりに陰府にまで降られたイエス様が行けないところはない、あなたの暗闇の中にあっても共にいて、イエス様はその知恵・御心を現し、あなたを悲しみから喜びへ、心身共に健やかにしてくださる。
このイエス様の希望の光が私たちの目に喜びの光をもたらし、そのイエス様の希望をもったあなたの歩みが、仕える姿がさらに周りに溢れていく。何と感謝なことだろう。私たちは、あなたは誰を、何を見ていますか?このイエス様にどれだけ希望を抱いているでしょうか。
様々な迫害にあっていたパウロ、それでもイエス様に従い続けた、希望を持ち続けたパウロは「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。…聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです」と語っています。いつまでも残る希望、その希望が私たちに注がれている、最も優れた神様の愛が私たちに注がれている、だからどんなことがあってもこの希望は失望に変わることはない。イエス様の命がけの愛が私たちに注がれた、その希望なのだから。だから艱難な時であろうと、忍耐すべき時であろうと、その中に抱き続けるこのイエス様にある希望が私たちをいのちの道へと導くのです。この神様の希望が心身を健やかに、元気にしてくださる。そのように心配してくださっている神様があなたの祈りを聴き、またこの豊かな関係の中に招いてくださっているのです。
「いのちに至る叱責を聞く耳のある者は、知恵のある者の間に宿る。訓戒を無視する者は自分のいのちをないがしろにする。叱責を聞き入れる者は思慮を得る。主を恐れることは知恵の訓戒である。謙遜は栄誉に先立つ」。私たちはこのイエス様のことばを聞いているだろうか。イエス様の注がれている、注がれた愛、今イエス様が働かれていることを見ているだろうか。それは自分には関係ない、と離れていないだろうか。まことに正しい方、あなたのためにいのちさえ惜しまなかったイエス様が今日あなたの内に宿られ働かれている。私たちはこの祈りと共に、イエス様にあって結ばれた神様との関係をもう蔑ろにしてはいけません。この神様の御心・知恵、そこに込められた思慮、この神様の愛をしっかり握りしめよう。この愛はあなたを裏切ることはない。祈って答えられない、適当な答えを返す方ではない、イエス様のいのちさえ惜しまない神様が最大限の答えをもってあなたに答えてくださる。
私たちはこの神様の御前に謙遜にあろう。神様がちょうど良い時に引き上げてくださる。この神様が引き上げてくださった、死からいのちへ引き上げてくださった新しいこの道をどこまでも歩もうではありませんか。「幸いなことよ。主をおのれの神とする、その国は。神が、ご自身のものとしてお選びになった、その民は。主は天から目を注ぎ、人の子らを残らずご覧になる。御住まいの所から地に住むすべての者に目を注がれる。…見よ。主の目は主を恐れる者に注がれる。その恵みを待ち望む者に。彼らのたましいを死から救い出し、ききんのときにも彼らを生きながらえさせるために」。私たちはあなたに目を向けられている、恵みを、平安を与えてくださる、死からいのちへ、暗闇から光へ引き上げてくださった幸いの中をただ進もうではありませんか。また、目から希望の光が失われた人にこの希望を届けたいものです。あなたの持つイエス様にある希望をもって仕える、愛する、励ます、その中に神様が働かれる、輝きを灯されることを信じ。