真実な愛と心を | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「隣人をさげすむ者は思慮に欠けている。しかし英知のある者は沈黙を守る。歩き回って人を中傷する者は秘密を漏らす。しかし真実な心の人は事を秘める。指導がないことによって民は倒れ、多くの助言者によって救いを得る。他国人の保証人となる者は苦しみを受け、保証をきらう者は安全だ。優しい女は誉れをつかみ、横暴な者は富をつかむ。真実な者は自分のたましいに報いを得るが、残忍な者は自分の身に煩いをもたらす。悪者は偽りの報酬を得るが、義を蒔く者は確かな賃金を得る。このように、義を追い求める者はいのちに至り、悪を追い求める者は死に至る。」

箴言11章12-19節

 

言葉があるというのは本当に素晴らしいことで、これによって会話ができ、誰かを励ましたり、力づけたりできます。でも一方で残念ながら誰かの悪口を言ったり、陥れることを言ったり…そうして誰かを傷つけることもしばしば。これはなぜでしょうね、自分をよく見られたいからなのか、人を批判することでストレス発散をしているのか。それは本当に残念な話です。私たちの口は神様を喜び、またこの愛を受けて互いに愛し合う、といいますか、その愛を現すために用いられるなら、そこに神様の豊かないのちが広がるのではないか。愛は人を生かす力がある。ならなおのこと、神様の愛が現れることを願ってみませんか?神様はわが子たるあなたを、あなたの周りにいる人たちをも愛し、生きてほしいと御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えてまで愛し抜かれた、今もその愛が注がれているのだから。このイエス様の愛に生かされ今日も歩もう。このイエス様のことばに頼り、またこの愛を現すものでありたいものです。

 

さて、↑は神様が古代イスラエル王国の3代目の王ソロモンに向けて語られた箴言、いのちのことばそのものですね、そしてそのソロモンを通して私たちに対して示された箴言・知恵のことばの続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と示されていましたが、神様は私たちを蔑まない、愛しているからこそ、語られる。本物の知恵・愛からくる御心を受け取ってほしい、生きてほしい、そう招いて下さっているわけですね。神様が初めに私たちに素晴らしいものを与えてくださっている、私たちの生きる源となってくださっている、だからおいで、と。

 

そんな神様はソロモンに、「隣人をさげすむ者は思慮に欠けている。しかし英知のある者は沈黙を守る。歩き回って人を中傷する者は秘密を漏らす。しかし真実な心の人は事を秘める」と示し、これを受けた彼はさらに続けて書き残します。

 

人は誰かを蔑んだり、中傷して回る、相談されたことをぽろっと口から漏らす。私も色んな所を通ってきて、色んな人と出会ってきましたが、どういうわけか人が集まると誰かの話になって、そこから井戸端会議が始まる。そして怖いのは、その人がどういう人なのかも知らない人が、その自分の知っている人が話している事を聞いて、そうだよね、と同調し、気づいたらその人を蔑むようなことばをその中で話し始める。よく知りもしない人をどうしてそんなに言えるの?あなたはそんなに優れている、素晴らしいの?そんなに言いたいことがあるなら会って直接言えばいいのに、など思いますよね。井戸端会議じゃなくても、自分の考えや我を通すために誰かを蔑んでみて語ることもありますが。

 

神様はソロモンに「隣人」、といっても隣に住んでいる人の事だけではなく、あなたの仲の良い人も、また苦手、仲の悪い人もこの隣人に入っています、その「隣人を蔑む者は思慮に欠ける」とはっきりと語られます。正直、その蔑む、もしくは誰かから入ってきた情報を鵜呑みにして自分でよくその人も知らずに、自分の価値観や考えも含めたフィルター越しにその人を見ると、その中で本当に正しい関係など持てません。どんなに「自分はその人を愛しているから、大切に思っているからこう言っているんだ」と言っても、そこに本当に愛はありますか?思っていますか?自分の思いや我を通すためにそれを言っていませんか?そこには何のいのちももたらしません。そんなフィルター越しで見てるだけ、外からがやがや同調するように言っている言葉など相手の耳には届きません。心に響きません。

 

これに対して神様はソロモンに対して「しかし英知のある者は沈黙を守る」と示されます。沈黙は金なり、ということわざがありますが、口論や何やらを避けたり、誰かを傷つけるような言葉が出そうになる時、感情的になって口から思わぬ言葉が飛び出そうな時…そんな時は沈黙を守る、これがそのことわざの意味なのでしょう。黙って黙する、これも時には必要なことです。でも黙して終わりも本当に英知がある、とは言えない。先程の「思慮」という表現と合わせるなら、「思慮」という部分がここに加わると別な形へと変貌します。

 

では、何に思慮するのか。一度沈黙し、祈るのです。今何を語るべきか、私が今働いている場所、関係、その中で時には相手も問題がある事もあるでしょうから、沈黙する事だけが正しいと言えるわけではありません。もし何か間違っていることを行っている時、黙っていることは時にはそれはその人をさらに間違った方向に向かわせることもある。それは、思慮のある人のする事とは違います。だから、私たちは本当に英知ある方に祈るのです。今何を語るべきか、聖霊様を通して、それこそ今ソロモンに知恵を授けてくださっているように、聖霊様を通して神様は私たちにその英知・知恵を与えてくださる。何を今すべきか、言うべきか。自分の思いやことば、行動を一度沈黙する、行動を止めて祈るのです。

 

何を?パウロは同じように聖霊様に導かれ「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい」と語ります。人の得を養う、役に立つ言葉、聞く人に恵みを与えるように、と。その恵みは人の思うものではなく、神様の恵みです。神様の恵みが今ここにある事を祈り願い、従う、その中に神様の恵みが、英知が、御心が現わされるのです。もしその人が問題を抱えているならその人を励ます言葉、間違いを犯しているなら神様のもとに一緒に立ち返る、祈り、回復へ向かっていく。あれこれ批判をするのは簡単。でもイエス様はそうではなく、厳しいことばももちろんイエス様は語られましたが、それ以上に成されたのは、悔い改めに、神様の恵みに帰るようにいつも語られていました。イエス様は批判をして終わり、ではなく神様の恵みを受けよ、本当に必要なのは、その人に訪れるべきは救いの時、恵みの時、その為にイエス様は人となって生まれてこられ、また惜しむことのない愛をどこまでも現されたのですから。

 

集まって話をすることを否定しているわけではないのですが、むしろイエス様は「まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」と仰られました。私たちがイエス様に祈り願うなら、天と地が繋がる、天で行われる御心が地でも行われるのです。まさに主の祈りというもので祈る通りのことがまさに起こる。神様と私たちが繋がる時、あなたの前にいる人、困っている人、家族、隣人…そうした方々と天が繋がるなら、一体そこにどれだけの恵みが広がる事だろう。神様の英知が、知恵が、御心が広がる事だろう。

 

神様は私たちを蔑むのではなく、愛される方。沈黙されるのはなく、愛を実行に移される方。蔑むなら神様は黙ってますよ。でも神様は愛しておられるから語られる、あなたを導かれる、その愛を行動に移し、実践される。あなたを愛するゆえに、救うためなら、黙って見捨てるのではなく、むしろ何の罪もない御子イエス様に私たちの罪を身代わりに背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせたのです。そして3日目によみがえらせてくださったことによって、同じようにイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、古いその人は新しい者、いのちへと変えられるのです。神様の英知が、愛が、このイエス様の十字架に完全に現されたのです。

 

私たちはそもそも、誰かを蔑んだり、あれこれ言う前に、本来神様に蔑まれ捨てられるはずだったもの、その私たちを神様は見捨てなかったことを忘れてはいけません。これだけ愛された私たちがどうして誰かを蔑んだりできましょう。むしろこの愛を知ったなら、この愛をもって語り、また行動、仕える者でありたい。あなたに神様がどれだけの愛を現されたのか、これを受け、さらにこれが広がっていく事を願わずしてどうしましょう。神様にある得を養うことばをあなたが語るなら、行動するなら、そこは悲しみや破壊ではなく、いのちをもたらすのです。

 

歩き回って中傷ではなく、歩き回って愛するものでありたいですね。イエス様もある気に歩き回って、社会から見捨てられた人や、誰も近づいてくれない人、罪を犯した人、彷徨っている人、老若男女問わずその足を運びに運ばれその愛を現し、語り、また行動されました。私たちはイエス様にはなれませんが、しかしイエス様の愛をもって語り、また仕えるところに、先程のイエス様のことばではありませんが、天と地が繋がり、神様の英知・愛、御心が現わされる。私たちはこの神様の御心がなることを願っていますか?それとも沈黙していませんか?その頂いた愛をあなたはどう用いていますか?

 

「指導がないことによって民は倒れ、多くの助言者によって救いを得る」とありますが、神様は私たちの指導者、といいますか救いとなられるため命をかけられた、救いをあなたに得させるためにいのちをかけ、実際に身代わりになって死なれてでもその救いの道を示されました。そこまでされた復活のイエス様が今日あなたの指導者と言いますか主としてあなたと共におられ導かれる。あなたが倒れることがないように。そして神様の素晴らしさの内に住まうことができるように。神様の御心の内に。

 

「他国人の保証人となる者は苦しみを受け、保証をきらう者は安全だ」。もちろん外国人をだから避けなさい、と言っているわけではありませんよ?他国人というのは当時のソロモンから見たら外国の民であり、また外国人がもたらす異国の偽の神々。これを良いよいいよ、と受け入れソロモンは失敗しました。しかし私たちはまことの保証なる神様を知っているはずです。あなたはこの神様を神様としていますか?神様にある完全な安全、平安を受け取っていますか?神様を知らずに歩む、苦しみの中にいる人たちももちろんいます。私たちはこの方々に同時にこの本物の保証、安全である神様の愛を、イエス様の救いを届ける、この愛を受けたものとして、この愛をもって仕え、彼らが神様の平安、いのちを頂けるよう祈り、また行動するものでありたいですね。↑の口の話ではありませんが、そのあなたの語る言葉、行動する愛を通して確かに神様の栄光が現わされる。そこに広がる命、私たちはどれだけ待ち望んでいますか?

 

イエス様は罪人である私たちを嫌わず蔑まず愛し抜かれました。イエス様はこの愛をあなたにも受け取って、その蔑む心や苦しみ、痛みから解放されることを願い今日もその愛を注がれている、まずこの愛を私たちは受け取り、癒しを受け、また変えられよう。そしてこの愛が今日もあなたの周りにも豊かに溢れ広がることを祈ろうではありませんか。神様の義が蒔かれるところに確かに神様のいのち、恵みの刈り取りの日が必ず来るから。