本物の愛、正しいはかり | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「欺きのはかりは主に忌みきらわれる。正しいおもりは主に喜ばれる。高ぶりが来れば、恥もまた来る。知恵はへりくだる者とともにある。直ぐな人の誠実は、その人を導き、裏切り者のよこしまは、その人を破滅させる。財産は激しい怒りの日には役に立たない。しかし正義は人を死から救い出す。潔白な人の道は、その正しさによって平らにされ、悪者は、その悪事によって倒れる。直ぐな人は、その正しさによって救い出され、裏切り者は、自分の欲によって捕らえられる。悪者が死ぬとき、その期待は消えうせ、邪悪な者たちの望みもまた消えうせる。正しい者は苦しみから救い出され、彼に代わって悪者がそれに陥る。神を敬わない者はその口によって隣人を滅ぼそうとするが、正しい者は知識によって彼らを救おうとする。」

箴言11章1-9節

 

人は様々な物差し・基準で何かを見、測り、判断します。でもその物差しがもし間違っていたら…人は様々な経験を積んで色んな考え方、知識、知恵などを身に着けていきますが、だからと言ってその人は偉い、優れているとでも言えるのか。誰かを見下したり、非難批判できるほど正しいのか。これ、やられると本当にきついんですよね。私の何をあなたは知っているのだろうか、と。まあそれはともかく、私たちは神様の目で見る、これが必要です。私たちにはどうにもならない、と自分の物差しで諦めるのではなく、神様の知恵・御心を求める中に驚くべきことが起こる。私たちは神様を変な物差しや基準で見て諦めたり、低く見ていませんか?この方が作り出される何か、なされることを私たちは求めよう。御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えてまで、愛するあなたを、わが子を取り戻そうとされた、そこまでした神様の愛が、その御心が働かれるところにどれだけ素晴らしいいのちが溢れるか。神様から離れ、価値なき者とされそうなところを、神様のそれでも愛をもって愛するわが子として取り戻して下さった神様を今日、求めよう。

 

さて、↑は古代イスラエル王国の3代目の王ソロモンに向けて、そして彼を通して私たちに対して神様が語られ示された箴言・知恵のことば、その続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と示されていましたが、私たちは人の知恵やら知識やらを求め、またそれに振り回され、善い飾り、アクセサリーを見つけ、身につけたかと思えば、あなたを下げてしまうものになったり、疲れ果てさせる。でも本物の愛からくる知恵の源、神様の価値からみた最高の御心が神様から溢れ流れてあなたを生かし、満たす、見かけだけではないうちからそのいのちで溢れさせて下さる事が見えてきますね。

 

そんな神様が示された箴言、私たちのいのちの源となる神様のいのちのことばを受け取ったソロモンは、さらに「欺きのはかりは主に忌みきらわれる。正しいおもりは主に喜ばれる」と書き残します。

 

はかりというのはある意味で何かを決める基準になります。単位の決定方法とかもそうですよね。何かの値段を決めたり。古代から商売などでこのはかりというのは、重さや量を図るために用いられていた、ある意味では正直・誠実が問われるものでした。ですからそのはかりの基準を動かしたりかえたりしたら大変なことになりますよね。自分に何か利益をもたらす人に基準を変えたり、有利に働かせる、そういうのは今の時代だってありますよね。そういうのは当たり前のことでお分かりと思いますが、やめましょう、それは神様が嫌うことです、という勧めです…ではこの話は終わりません。

 

今書いていた文面を読んでいて気付いた方もいるかもしれませんが、これは商売だけの話だけではなく、神様との関係、隣人のとの関係においても同様の事が言えます。自分に利益をもたらす人、そうじゃない人、自分に価値観に合う人、合わない人、あの人はかつてあんなことをした、自分にしたから、やり返してやろう、困らせてやろう…色々あると思いますが、そうじゃないんだよ、と。

 

神様はかつてイスラエルの民がエジプトの奴隷状態に400年近くの間あった時、モーセという人を通して救い出し、彼らの先祖たちに約束していた約束の地(まあ正確には、彼らの先祖たちを神様はその地に導いて住まわせてくださっていたのですが、飢饉などによって移住せざるを得なかった。しかしその地でエジプトをある意味で助けた)に導いておられた際、民が幸せに生きるため、幸せなコミュニティを築くために様々なことを教えてくださったのですが、その中に「あなたがたはさばきにおいても、ものさしにおいても、はかりにおいても、分量においても、不正をしてはならない。正しいてんびん、正しい重り石、正しいエパ(容量の単位)、正しいヒン(液体の単位)を使わなければならない。わたしは、あなたがたをエジプトの地から連れ出した、あなたがたの神、主である」というものがありました。

 

そう、「さばき」においてもです。もちろん裁判、というものもありますが、私たちは人との関係において、「あの人は○○だ」と自分のはかり、価値観で決めつけたり、罵ったりして、不当に貶めたり、下手をすれば、そんな人に良いものを受ける資格などない、助けてあげる必要なんてない、この程度で十分だろう、とすることもある。これ、本当に怖い話ですよね。でもいったい何の資格があって、どれだけ偉くてそんなことを言えるのか、することができるのか。

 

ここで神様はその理由として「わたしは、あなたがたをエジプトの地から連れ出した、あなたがたの神、主である」と語られます。これは定型文的なように繰り返し神様は語られる言葉、と言う人がいるのですが、そうではなく、これがすべての原点なのです。誰からも見捨てられてしまっているような人たちを分け隔てなく、それこそ救われてもなお神様に不平不満を言ったり、本来神様から愛を受けるに値しない、神様の厳しいはかりがあるとしたら、誰も神様の裁きに耐えられないような私たちを神様は救い出したんだ、その愛を受けたあなたがどうして誰かをそうしてはかりにかけるの?と仰られるのです。彼らも、あなたも同じ神様の憐れみを受けた、本来受けることができないはずの恵みが与えられた人でしょ?と

 

人には色んな所を通って痛みもあって、そんな神様みたいなはかりなんて持てない、とたぶん考えると思います。私も持てません、というよりも誰も持つことなんてできない。でも、神様と同じはかりを使う、というよりも、私たちは神様のはかりに委ねるのです。

 

実はこのことばが語られた同じ章で、聖書の中で有名なみことばトップ3に入るであろうことばが語られています。それがこの神様のことばと連動しているのですが、それは「復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である」というものです。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい、ということばが主に知られている言葉で、イエス様もこれが2つある最も大事な神様の命令の一つとしてこれをあげられたほど。神様が主だから、自分の様々な痛みに対するある意味で復讐であったり、誰かへの復讐であったり、そこにとらわれるのではなく、神様のはかり、主である神様に委ね、愛することを選ぼう、と。その愛を通してその人が変わるかもしれない。後は神様のはかり、神様の御心、御業に委ねよう、と

 

私たちは自分のはかりで物事を考え、決断する。どうせこの人は変わらない、この状況は変わらない…などいろいろ考える。でもそうじゃないんです。ある人は口で、歌で、「神様に不可能なことはありません」と呪文のように言うけど、実際のはかりを見たら自分のはかりで、どうせこの人は…とさばき、はかって、自分のジャッジを降す。でもそうじゃなく、神様のはかりにあって不可能なことはない、神様のはかりでなされることには人の降す者とは違う驚くべきことが起こる、それを私たちは信じているでしょうか。神様のはかりに委ねているでしょうか。

 

「高ぶりが来れば、恥もまた来る。知恵はへりくだる者とともにある。直ぐな人の誠実は、その人を導き、裏切り者のよこしまは、その人を破滅させる」という、神様から示された↑の箴言、これをしっかり胸に刻もう。私たちは神様のはかりより自分のはかりが正しい、あの人より自分のはかりが正しい、と高ぶって恥を見てはいけない。神様がせっかく良いことをしようとしているのにそれを退けて、サタンを喜ばせてはいけない。

 

知者、神様にへりくだるものとなろう、神様の御前にへりくだる、神様のはかりに委ねる時、そこには神様の素晴らしさ・栄光、それこそ知恵・神様の御心、御業が現わされる。私たちはこの神様にいったい何が勝れるのか。私たちはこの愛を受け、私たちの隣人、私たちの隣にいる人だけじゃないですよ?あなたの好きな人も苦手な人も含め、この神様の愛をもってつかえる、誠実でありたいものです。神様に誠実でありたいものです。時々によってはかりをかえるものではなく、神様のもとに自分自身も進み出、委ね、また神様から離れている人がいるなら、彷徨っている人がいるなら、一緒に進み出る者でありたいものです。そこに破滅ではなくいのちが、神様の御心が確かに溢れかえるから。

 

さらに神様はソロモンに「財産は激しい怒りの日には役に立たない。しかし正義は人を死から救い出す。潔白な人の道は、その正しさによって平らにされ、悪者は、その悪事によって倒れる。直ぐな人は、その正しさによって救い出され、裏切り者は、自分の欲によって捕らえられる。悪者が死ぬとき、その期待は消えうせ、邪悪な者たちの望みもまた消えうせる。正しい者は苦しみから救い出され、彼に代わって悪者がそれに陥る。神を敬わない者はその口によって隣人を滅ぼそうとするが、正しい者は知識によって彼らを救おうとする」とその箴言を示されました。詳しくは明後日見ますが、私たちが持っている経験や価値、財産はいつの日か役に立たなくなる日が来る。自分が依り頼んできたはかり、基準、それらは終わりの日には何の役にも立たなくなってしまう。

 

しかし私たちは先にみた救いの話の通り、神様によって、本来その憐れみも恵みも、祝福も受けるに値しないはずのものだったのに、救われた、御子イエス様に神様は私たちのこの思い煩いも痛みも、何より罪も一切身代わりに背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせてまで私たちを救われたことを忘れてはいけません。神様は最も大切なものといいますか、イエス様を私たちの身代わりにされた、与えてくださったのです。このイエス様が私たちの身代わりに罰せられ、死なれたことによって私たちが負わなければならない罪の呪い、刑罰、すべては取り除かれる。でもそれだけではなく、イエス様が3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め、立ち返る全ての人の罪は赦され、神様の子とされる。その特権が与えられているのです。ここに神様の正義があり、はかりがあり、財産がある。

 

本来私たちは罪によって死という結果を受けなければならないのに、それをイエス様に負わせてまであなたに赦しと共に新しいいのちを与えてくださった。この神様の裁き・はかりによって決められた、あなたの内に注がれる愛は、御心はいかばかりか。それなのにどうして他の誰かを裁くことができるだろう。むしろ同じように神様の憐れみを受けたものとして、神様のはかり、御心に私たちは共に進みゆくものでありたいものです。そして神様にある正義、財産、最高の恵みを受ける者でありたいですね。世の欲や偽物のはかりに縛られ生きるのではなく、測り知れない神様の本物のいのち、愛、それゆえの知恵・御心にゆだね。