整えられた食卓 | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「知恵は自分の家を建て、七つの柱を据え、いけにえをほふり、ぶどう酒に混ぜ物をし、その食卓も整え、小娘にことづけて、町の高い所で告げさせた。『わきまえのない者はだれでも、ここに来なさい』と。また、思慮に欠けた者に言う。『わたしの食事を食べに来なさい。わたしの混ぜ合わせたぶどう酒を飲み、わきまえのないことを捨てて、生きなさい。悟りのある道を、まっすぐ歩みなさい』と。あざける者を戒める者は、自分が恥を受け、悪者を責める者は、自分が傷を受ける。あざける者を責めるな。おそらく、彼はあなたを憎むだろう。知恵のある者を責めよ。そうすれば、彼はあなたを愛するだろう。知恵のある者に与えよ。彼はますます知恵を得よう。正しい者を教えよ。彼は理解を深めよう。主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。わたしによって、あなたの日は多くなり、あなたのいのちの年は増すからだ。もし、あなたが知恵を得れば、その知恵はあなたのものだ。もし、あなたがこれをあざけるなら、あなただけが、その責任を負うことになる。」

箴言9章1-12節

 

近年生活様式も変化してきたため、家族全員そろっての食事というのはなかなか難しくなってきましたが、食卓は健康・元気を得る場所、心を回復させる場所、そうした色んな面で家族で助け支える、また励ます、などいろんな要素がありますね。家族は神様が定めた形ですが、その中にもし神様を求めるなら…まあそもそも私たちはみな、神様によってつくられた存在、神様の家族とされている。その神様の家族の中に生きる事を赦され、その神様に支えられ生きるはずだったんですよね。ただ私たちは神様の暮れるあれは自分には合わない、おいしくない、ダサい…そんなことを考え、もっといいものを求めにはなれていってしまった。でも神様はそんな私たちをもう一度その食卓に招こうと御子イエス様を遣わし手くださった、あなたを救い出すため、そのいのちを身代わりにしてでも。そこまでして取り戻されたこのいのち、結ばれた神様との関係、どれだけ素晴らしいか。あなたはこの神様のくださっている恵みを恵みと思って受け取っていますか?

 

さて、↑は古代イスラエル王国の3代目の王で知者とも知られていたソロモン、そして彼を通して私たちに向けて神様が語られ示された箴言・知恵のことばの続きになります。この箴言の最初の方で神様は、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と、示されていました。私たちをたて上げ、養い、強くする、元気にする、癒すのはどこかの知恵や知識、本、そうしたものではなく、その源、愛からくる知恵・御心を行われる神様から来て、その神様のことばがあなたを建て上げ、養い、力づけ、最高のあなたに変えてくださる、だからこの知恵を、知識を求めよう、と訴えられていたわけですね。

 

そんな神様は、↑の前の章でイエス様こそその知恵の源であり、私たちをたて上げるんだ、ということを訴えてきましたが、さらに「知恵は自分の家を建て、七つの柱を据え、いけにえをほふり、ぶどう酒に混ぜ物をし、その食卓も整え、小娘にことづけて、町の高い所で告げさせた。『わきまえのない者はだれでも、ここに来なさい』と」と訴えます。

 

知恵は自分の家を建てる、これまた不思議な表現ですね。では、これを読んでいる皆さんに聞きますが、その知恵は何の知恵を使って家を建てるのでしょう。誰が建てるのでしょう。一級建築士?デザイナー?家を建てる時、経験がある方はご存じかと思いますが、様々な人がかかわります。専門家、お金を出す人、色んな人が一つの「良い家」を建てるために互いに協力して建て上げていきます。適当な知識や考えでは良い家は建たず、それは何かあれば簡単に倒れたり、壊れたりします。その建て、維持することにしても、払い続けるための知恵や、その資金も必要になり、それを満たす何かが必要になってきます。あなたの家、いやそれだけではなくあなた人生、いのちという家、その上であなたは何の知恵をもってでは建てるでしょう。

 

ここで出てくる知恵、という存在ですが、れは8章から見てきているように、天地創造より前からおられた御子イエス様になります。「主は、その働きを始める前から、そのみわざの初めから、わたしを得ておられた。大昔から、初めから、大地の始まりから、わたしは立てられた。深淵もまだなく、水のみなぎる源もなかったとき、わたしはすでに生まれていた。山が立てられる前に、丘より先に、わたしはすでに生まれていた。神がまだ地も野原も、この世の最初のちりも造られなかったときに。神が天を堅く立て、深淵の面に円を描かれたとき、わたしはそこにいた。神が上のほうに大空を固め、深淵の源を堅く定め、海にその境界を置き、水がその境を越えないようにし、地の基を定められたとき、わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しみ、神の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ」とこの知恵なる方について語られていましたが、まさにこの家を建てられたのは御子イエス様なんです。最初から、この天地創造に携わっていた、無から有を造られ、この天地万物を創られた方、御子イエス様がたててくださる、何と素晴らしい事か。

 

私たちの知恵がたてるのではない、知恵なるイエス様がたててくださる、しかもその創られたものを、私たちを楽しみ喜んで下さるなんて。この8章のことばと合わせると、全ての源を堅くされた方があなたの家・いのち、日々に柱をしっかりとたてて、支えてくださる、何と感謝なことでしょう。7つの柱、数の問題ではなく(まあ大他の聖書の解説者は完全数の7というのでしょうが)このすべてを創られすべ治めておられる方が、あなたという人の柱となり支えてくださる。

 

でも、もう少し踏み込んでみたいのですが、私たちのいのち・日々を神様がただ支えてくださっている、助けてくださる、人が中心の、まあどこかの○○ファーストじゃありませんが、人が中心のいのちではない、この完全なる神様が支えてくださっている世界、そのうちに私たちを住まわせてくださっているのです。知恵なる神様、全ての源なる神様が創られた世界、働かれている日々、その中に私たちは住まわせていただき、また生かされているのです。人がつくった世界に人がいるんじゃなくて、神様が創造された世界に人は置かれ、住まわせていただき、生きているのです。

 

「いけにえをほふり、ぶどう酒に混ぜ物をし」とありますが、いけにえというのは私たちの罪の身代わりに本来屠られるものです。つまり、私たちを生かすための神様は犠牲を払ってでも私たちを生かそうとしてくださっている、その強い意思がここに現わされ、これを私たちに提供されるわけですね。神様はそうして食卓を備えて下さっているのです。イスラエルでは、食卓を共にするということはその人を受け入れる、仲間とするということを意味します。その食卓に、この世界の創り主なる方が、全ての知恵なる方が招いてそこで私たちにいのちの食事を備え、またただ食べさせて終わりではなく、励まし、力づけてくださる。神様の家族として招いて下さっている。そこに神様の素晴らしいものを備えて下さっているわけです。神様が私たちに与えたい、食べてほしい、生きてほしい、その知恵が、御心が私たちの内に入っていき、また生かして下さるのです。ただつくられた世界に私たちを置かれて無責任に終わるのではなく、そこに神様が働かれ、養ってくださっている。何と感謝なことだろう。

 

↑の中盤辺りでこの知恵なるイエス様は、「『わきまえのない者はだれでも、ここに来なさい』と。また、思慮に欠けた者に言う。『わたしの食事を食べに来なさい。わたしの混ぜ合わせたぶどう酒を飲み、わきまえのないことを捨てて、生きなさい。悟りのある道を、まっすぐ歩みなさい』と」と語りかけられていますね。わき前のない人に、見捨てるのではなく、おいで、と招いて下さっているんです。思慮を失い、どうしたらいいか分からないくなっている人たちに、このイエス様が差し出して下さっている善いものを、いのちのパンを、食べてほしい、生きてほしい、神様の愛からくる知恵・御心が私たちのみ失った道、いのち、そうしたものを回復させ生かしたい、生きなさい、生きて!そう訴えるのです。あなたがふらつき倒れ、道を失いどうにもならなくなることを悲しまれるイエス様は、もう一度イエス様のいのちにあって私たちをたてなおしたい、イエス様のいのちが満ち溢れるその本物の中に生きてほしい、と。

 

私たちはどこに向かい生きているだろうか。誰を求め歩み、そのいのちを建てあげようとしているのだろうか。しかし神様は神様から離れていった私たちを、「ここに来なさい」と、悲しみや苦しみ、暗闇、何より罪の中に留まっているのではなく、わき前のない者たちが支配する中にいるのではなく、神様の世界、神様のすべ治める本来の場所に私たちを招いて下さっているのです。いつまでいつかは死に行くのものを食べているのか。知恵なるイエス様が、「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物」を求めイエス様のもとに来るように、仰られたように、イエス様はいつかなくなる一時的なものではなく、永遠なるその愛、御心をもって私たちを生かして下さる。

 

その為に神様は御子イエス様に私たちのこれらの思い煩いや痛み、悲しみ、何より罪、一切を身代わりに背負わせ、十字架に架け、罰し、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め、立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださる。神様の家族に、家に、私たちがいきるためなら、いけにえとして御子イエス様の御からだを引き裂き、その血を流させ、死なせてでも、あなたに生きてほしい、と願われたこの方が治める中に招き入れてくださるのです。愛するあなたが生きるためなら、と最も大切な御子イエス様のいのちを引き裂き、最も良いものを与え、あなたに生きてほしいと願われた、この方が私たちを生かしてくださっている。

 

これだけ私たちを愛してくださっている方を、私たちの主として求めていますか?その主のもとにへりくだっていますか?私たちの知恵の中に神様を住まわせるのではなく、神様の知恵・働かれている恵みの中に私たちは飛び込み、生かされ、歩もうではありませんか。明日、また詳しく見ますが、「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。わたしによって、あなたの日は多くなり、あなたのいのちの年は増すからだ」と語られるイエス様が、聖なる悟り、知恵・御心を働かせて私たちのいのちの年を増し加えてくださる。もうこのあなたのいのちを支配するのは、恐れや不安じゃない、誰かの知恵やらもたらすものではない、あなたのためにご自分の御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えた方が今日あなたの内にその知恵・御心を現し、恵みを増し加え、生きて働かれ、私たちを生かして下さっているのです。

 

私たちはこの方を今日、どれだけ求めているでしょうか。「もし、あなたが知恵を得れば、その知恵はあなたのものだ」と神様がその愛ゆえの知恵・御心をあなたに注がれる。それを受け取る時、その御心があなたの内に現され、そこは主の勝利が、いのちが、愛が溢れ広がります。イエス様はその食卓にご自身の全てをあなたに食べてほしい、と用意してくださっています。それを私たちはいただかせていただけるのです。あなたはこの知恵・御子イエス様のいのちを心の底から求め、いただいていますか?主は心の底からあなたを愛されています。あなたは?