この世界を組み立てた方があなたと共にいる:いのちを愛する | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「『…主は、その働きを始める前から、そのみわざの初めから、わたしを得ておられた。大昔から、初めから、大地の始まりから、わたしは立てられた。深淵もまだなく、水のみなぎる源もなかったとき、わたしはすでに生まれていた。山が立てられる前に、丘より先に、わたしはすでに生まれていた。神がまだ地も野原も、この世の最初のちりも造られなかったときに。神が天を堅く立て、深淵の面に円を描かれたとき、わたしはそこにいた。神が上のほうに大空を固め、深淵の源を堅く定め、海にその境界を置き、水がその境を越えないようにし、地の基を定められたとき、わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しみ、神の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ。子どもらよ。今、わたしに聞き従え。幸いなことよ。わたしの道を守る者は。訓戒を聞いて知恵を得よ。これを無視してはならない。幸いなことよ。日々わたしの戸口のかたわらで見張り、わたしの戸口の柱のわきで見守って、わたしの言うことを聞く人は。なぜなら、わたしを見いだす者は、いのちを見いだし、主から恵みをいただくからだ。わたしを見失う者は自分自身をそこない、わたしを憎む者はみな、死を愛する。』」

箴言8章22-36節

 

人は色んな技術の進歩、科学の進歩、AIの台頭などに驚かされますが、どんなにそれらが発展してもすべての源、つくり主、創造主なる神様に勝る事はできませんし、同じことをすることもできません。神様の創られたものを使って何かをすることはできても、0からはできない。シンギュラリティでしたっけ?AIの独自発展、あれも、ネット環境がなければできない。人のいのちも誰もつくることはできない。ただこの世界を創られた神様は全てを治め、今もその働きをされています。私たちにいのちを与えてくださった神様はつくられておわりではなく、今日も養ってくださっているんです。その世界が始まってからずっと。こんな神様を信頼しないで誰を信頼しましょう。そんな愛するあなた、わが子と呼んで下さる神様はあなたを救うためならその愛を惜しまず、御子イエス様のいのちさえ身代わりにさせてまで救わんとされた、その方が今日あなたに生きてほしいと願っている。あなたは今日、誰を求め生きるだろうか。

 

さて、↑は古代イスラエル王国の3代目の王で知者とも知られていたソロモンに向けて、また彼を通して私たちに向けて神様が語られ示された箴言・知恵のことばの続きになります。この箴言の最初の方で神様は、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と、示されていました。彼は知者で富を多く持っていましたが、王になる前は自身も認める未熟者でとても国を治められるようなものではなかった、でも、彼が神様に知恵を求める中で、神様からの知恵に満たされ(知恵の霊)ていきました。そういう意味ではすべての源は神様を求めることから出発するんですね。本当の知者、イエス様が私たちの内に麗しい業をなして下さる、だからこの神様を求めようと導き、金言というよりも神様の知恵を箴言で語り続けた。そうして生きてほしい、と。

 

そんな神様は、そのイエス様を知恵と表現しながら↑ですべての源なる方について「主は、その働きを始める前から、そのみわざの初めから、わたしを得ておられた。大昔から、初めから、大地の始まりから、わたしは立てられた。深淵もまだなく、水のみなぎる源もなかったとき、わたしはすでに生まれていた。山が立てられる前に、丘より先に、わたしはすでに生まれていた。神がまだ地も野原も、この世の最初のちりも造られなかったときに。神が天を堅く立て、深淵の面に円を描かれたとき、わたしはそこにいた。神が上のほうに大空を固め、深淵の源を堅く定め、海にその境界を置き、水がその境を越えないようにし、地の基を定められたとき、わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しみ、神の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ」と語られます。

 

そもそも知恵という存在は世界の始まる前から存在していたのです。この「わたしを得ておられた」ということばを、自分の事と当てはめたいところですが、残念ながら違う、これは御子イエス様の事です。もちろんあなたもあなたの生まれる前から神様の御手の中全てのご計画をもっておられ、愛されていたことは間違いありません。

 

ただここで仰りたいのは、人は自分のする事を誇る、自分こそ知者だ、と色々考えるわけですが、そうではなく、このすべてを創られた方、天地万物の創られるずっと前からすでに存在しておられた方がいる、そう訴えるわけですね。設計者が一番設計物のことを知っています。それはそうですよね。人は自分のことは自分が一番わかる、自分は何でも知っているんだ、自分が正しいんだ、と神様の知恵、聖書のみことば(神様のことば)、を時に自分の考えと合わないと否定しますが、そうじゃない、何もなかったところにこの完全な世界を創られた方、組み立てることができる方がいる、そんな方に頼っていいんです。物とか、一時的な価値観ではない、初めからおられた知恵なる方、御子イエス様がそこにおられたのです。

 

その御子イエス様は「わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しみ、神の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ」と仰られていますよね。私たちのことをいつも見ておられ、喜び楽しまれる、その瞳をもって見ておられ、また守られている、今も保持してくださっている。もちろん喜び楽しんでおられる、とありますが、私たちの苦難の時に笑ってなどおられないでしょう、その知恵をもって私たちをいのちの道に導こうとされているのです。イエス様は私たちを喜び楽しまれるけど、私たちが苦難に陥ることを悲しまれるゆえに働かれ、その知恵、御心を現して下さり、いのちの道へと導こうと私たちにいつでも働きかけておられる、私たちがイエス様を求めることを何より待っておられるのです。

 

↑の前の箇所で「わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見つける」と語られていましたが、イエス様はすぐ近くにおられ、私たちはそのイエス様の御心を、愛ゆえのそのご計画を見させていただける、それを私たちは求めるでしょうか。

 

1世紀に神様の愛を、イエス様の救いを伝えていたパウロは、聖霊様に導かれ「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています」とやはり同じことを訴えます。ただつくられただけではない、今もこの被造物、また私たちを成り立たせ続けている、守られているわけですね。天地創造の時から、ソロモンの時代、そして1世紀のパウロの時代、そして今に至るまで、そのイエス様の働きは変わりません。

 

イエス様は今から約2000年前に一時的に存在されたのではなく、永遠の昔から存在されていた方、その方が昔も今も、これからも働かれておられるのです。あなたへの愛を現したいと今日も語りかけておられる、その愛をもって知恵・御心を私たちの内に成し遂げようとしてくださっているのです。この天地万物を創られた、その世界に私たちを住まわせてくださった主は、この知恵・いのちのうちに私たちを住まわせてくださる、招いて下さっているわけです。死の道ではない、いのちの内に住んでほしい、と、「見よ、全ては非常によかった」と仰られた世界を創られたイエス様が、私たちに非常によい命、日々を設計され、導こうとされているのです。一時的な喜びではない、永遠のいのちのうちに。

 

私たちはこのイエス様の設計されようとしている素晴らしいいのちの日、日々をどれだけ求めているでしょうか。今日は必要ない、今日はお願いします、ではなく私たちのいのち全体をイエス様の愛ゆえの知恵・御心で覆われ、建て上げられていくなら、それはどれだけすばらしいことでしょう。私たちのいのちは、このイエス様が建てあげてくださるからこそ素晴らしい

 

ソロモンは、「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる」と、詩に残しています。私たちの家、いのちを主が建てあげて虚しくない、喜び楽しませてくださるイエス様がおられ、立て上げてくださる、この方がすべてを備え、養ってくださっている、その事を私たちは忘れてはいけません。

 

今、神様はその私たちの救いとなられる知恵なるイエス様がどんな方なのかを示しながら、ソロモン、また私たちに「子どもらよ。今、わたしに聞き従え。幸いなことよ。わたしの道を守る者は。訓戒を聞いて知恵を得よ。これを無視してはならない。幸いなことよ。日々わたしの戸口のかたわらで見張り、わたしの戸口の柱のわきで見守って、わたしの言うことを聞く人は。なぜなら、わたしを見いだす者は、いのちを見いだし、主から恵みをいただくからだ。わたしを見失う者は自分自身をそこない、わたしを憎む者はみな、死を愛する」と訴えます。わが子よ、と。父なる神様にとってあなたも大切な我が子、神様の創られた大切な存在なのです。その私たちに幸いを得てほしい、あなたのために神様にとって大切な御子イエス様をあなたに与えるんだ、と。巧みな業、愛ゆえの知恵・御心をもってあなたを幸せにしたい、その思いを今語られます。

 

いや、語るだけではなくその完全な愛を実行に移された、私たちの内に満ちている様々な思い煩いや痛み、悲しみ、何より罪の呪い、罪自体を取り除き洗い聖め、新しい最高のあなたに回復させるため、御子イエス様にこれら一切を身代わりに背負わせ、十字架に架けられたのです。この素晴らしい世界を創られた方、父なる神様と天地創造の前から顔と顔を合わせ、永遠に信頼し合っていた素晴らしい関係にあった、そんな素晴らしい方なんだ、と知恵なるイエス様を示されてきた、そのイエス様を十字架に私たちの身代わりにかけ、罰するという考えられないことを実行され、その最大の知恵・愛を現されたのです。あなたの内にいのち、光を灯すため、死ではなくいのちを与えるために。でもイエス様は死んだまま終わらなかった、3日目によみがえらせていただいたことによって、これらすべてに勝利された、打ち砕いて下さったのです。そうしてこのイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださる、その特権を与えてくださり、本当の幸せ、幸いな人としてくださるのです。

 

私たちはこのイエス様の命がけの愛、あなたを訪問され拒否する私たちをそれでも愛し、救うために十字架にまでかかられいのちまで捨てられたイエス様をいつまで拒否しているのだろう。私たちに生きてほしい、とご自分の命を投げ出してまで取り戻されたこのイエス様の愛、いのちをどうして否定できるだろう、自分の方が優れたものをつくれると言えるのだろう。命をかけてあなたを愛された、その愛ゆえに今日その知恵・御心を成そうとしてくださるイエス様のノック、訪問を受け入れ、生きるものとなろう、生かしていただこう。死を招き入れてはいけない、イエス様を受け入れ、この方の働かれる本当の幸いな日々を歩もうではありませんか。