「わが子よ。あなたの父の命令を守れ。あなたの母の教えを捨てるな。それをいつも、あなたの心に結び、あなたの首の回りに結びつけよ。これは、あなたが歩くとき、あなたを導き、あなたが寝るとき、あなたを見守り、あなたが目ざめるとき、あなたに話しかける。命令はともしびであり、おしえは光であり、訓戒のための叱責はいのちの道であるからだ。これはあなたを悪い女から守り、見知らぬ女のなめらかな舌から守る。彼女の美しさを心に慕うな。そのまぶたに捕らえられるな。遊女はひとかたまりのパンで買えるが、人妻は尊いいのちをあさるからだ。人は火をふところにかき込んで、その着物が焼けないだろうか。また人が、熱い火を踏んで、その足が焼けないだろうか。隣の人の妻と姦通する者は、これと同じこと、その女に触れた者はだれでも罰を免れない。盗人が飢え、自分の飢えを満たすために盗んだとしたら、人々はその者をさげすまないであろうか。もし、つかまえられたなら、彼は七倍を償い、自分の家の財産をことごとく与えなければならない。女と姦通する者は思慮に欠けている。これを行なう者は自分自身を滅ぼす。彼は傷と恥辱とを受けて、そのそしりを消し去ることができない。嫉妬が、その夫を激しく憤らせて、夫が復讐するとき、彼を容赦しないからだ。彼はどんな償い物も受けつけず、多くの贈り物をしても、彼は和らがない。」
箴言6章20-35節
人は誰しも美しいものに惹かれます。女性でも美的な何かを追及するという意味では同じです。もしくは輝かしい何かを求めたり、これまた惹かれることがあります。ただこれに心をとらわれ過ぎると時に大変なことになります。金銭的なことであったり、関係であったり…これ以上は書かないでおきますが、だいたい想像がつきますよね。ただ、本当に美しいことをなして下さるのは、まばゆいほどに素晴らしいことをなして下さるのは神様であることを忘れてはいけません。また何より誰をうらやむのでもない、あなたという人を美しくし、また輝くものへと神様はしてくださるのです。あなたの内に輝く神様が。あなたを救うためなら御子イエス様のいのちを惜しまなかった神様が今日あなたの内に働かれ、また輝いて下さっている、その事を覚え歩もうではありませんか。
さて、↑は神様が古代イスラエル王国の3代目王ソロモンに、そして彼を通して私たちに向けて語られた箴言・知恵のことばの続きになります。箴言の最初で神様は、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と示してくださりましたが、私たちの考えや求めるもの以上の、いや天地を超えて高い神様の愛、御心、その知恵は私たちにいのちを、愛を、美しさを、輝かしさを与えてくださる。すべての良いことは神様から来る、だからこの神様にどんな時でもへりくだることを忘れてはいけませんね。いやその最高の所に招きか立っておられる神様をいつも求めたいものです。
その私たちの全ての源なる神様は、ソロモン・私たちに向けてさらに「わが子よ。あなたの父の命令を守れ。あなたの母の教えを捨てるな。それをいつも、あなたの心に結び、あなたの首の回りに結びつけよ。これは、あなたが歩くとき、あなたを導き、あなたが寝るとき、あなたを見守り、あなたが目ざめるとき、あなたに話しかける。命令はともしびであり、おしえは光であり、訓戒のための叱責はいのちの道であるからだ」と語られ、示されます。
↑を読んでいて多くの人が目につくのは不貞関係の問題でしょう。そう、それは誰しもがわかる通りダメな事、どんな理由があってもダメなことはダメ。女性だから、男性だから、同性?いずれも関係なくダメなものはダメ、なのですが、まずその根拠としてこの御言葉があるわけです。人は何となく気になる言葉、惹かれる言葉、格言っぽいことばに心惹かれるところがあります、↑の不貞問題然り、でも一番肝心なのは、私たちの支えになっているのは何なのか、その支え、と言いますかかなめと言いますか、初めなる神様を求めることを私たちは忘れてはいけないのです。偽りの関係ではない、本物の関係、親子関係、父なる神様が私たちをわが子、と呼んで下さる、そんな素晴らしい関係に私たちが招かれている、その神様を求めずして何を求めましょう。
ここで出てきている言葉は、決して目新しいことばではありません。聖書の中で、ずっとずっと言われてきた言葉なのです。まあ正確にはお父さんお母さんが子どもに教えるよう神様は教えてこられました。それは私たちが幸せになるため、いや神様の与えてくださる本物の幸せをいただき、生きられるように。ただ別にお父さんお母さんが好き勝手に考えることを教えるように、ということではなく、神様の語られる御言葉(律法とも言ったのですが)を、神様がそれこそまことのお父さん・父なる神様として私たちを愛し、養ってくださっていること、その神様を伝える事にあったのです。ただ、残念ながらイスラエルの民はこれにことごとく失敗、神様のみことばを、それこそ自分の好きなように捻じ曲げ、自分の都合のいい様に子どもたちに伝えていった結果、イスラエルの民はどんどん堕落していった、本当の幸せの源なる神様を見失い、本当の幸せを失っていったのです。
神様が私たちを、わが子と呼んで下さり、「あなたが歩くとき、あなたを導き、あなたが寝るとき、あなたを見守り、あなたが目ざめるとき、あなたに話しかけ」てくださる、「ともしびであり、おしえは光であり、訓戒のための叱責はいのちの道」としてくださる、神様があなたの心と結びつき、あなたと共にいてくださるという約束を、私たち自身も心に結び付ける時、そこにはまさにこの約束通り、神様がどんな時も私たちの道を照らし、導いて下さるのです。神様のみことばが、それを語り事をなして下さる神様が、あなたの道を輝かせてくださる。何と感謝なことでしょう。
同じように告白したバビロン捕囚という苦難を通った詩人は「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」と告白しながら、この悩みの時、神様のみことば通り、神様が生かして下さる事を願い、それが自分の心の喜びとなったこと、神様が永遠のゆずりを与えてくださったことを語りました。試練の中、どん底の中にあっても、確かに↑でも語られている通り、神様が見守り、導き、語りかけ、いのちの道へ、神様の道へ回復・導いて下さった、その事を彼は告白しました。
昔から、ソロモン、そしてバビロン捕囚期、そして今もこの約束は変わらずあなたの道の光と神様はなって導かれる、この事を私たちは忘れてはいけませんね。その光の源を私たちが捻じ曲げる必要はない、そして神様のくださる命を、幸せをくすませてはいけない。不貞関係とかそういうものではない、神様が私たちを引き寄せてくださっている、何と感謝なことか。
↑で神様は「彼女の美しさを心に慕うな。そのまぶたに捕らえられるな。遊女はひとかたまりのパンで買えるが、人妻は尊いいのちをあさるからだ」と、語られますが、私たちは自分の目に美しいと思える女性(女性の目から見たら男性でもいいと思いますが)、ないし何かを求めます。もちろん神様が創られた女性・男性、もしくはなにかは美しいでしょう。何せ神様の最高傑作ですから。不貞関係、となると話は別です。世の中を見回しますと、多くの人がこの罠に陥っていますが、私たちは神様が今あなたに与えてくださっている家族、もしくは関係、環境…そうしたものが神様から与えられていること、神様がその光を灯して下さっているということを忘れてはいけません。神様がそこに美しさを現して下さっているのに、「隣の芝は青く見える」と言って惹かれてどうしましょう。もっと神様があなたに与えてくださっているものの内に喜びを見出してはどうだろう。尊いいのちをあさる、その相手を間違ってはいけません。むしろあさる必要のないほどの喜びを神様が与えてくださっているではありませんか。
十戒の中で神様は「あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない」と教えられましたが、貪る云々の前に、神様があなたに最高の全てのものを与えてくださっている、神様があなたに与えてくださっている美しい誰か、何か、関係、環境、その全てに感謝し、喜びを見出そう、と神様は仰られているのです。どうせ貪るなら神様、神様があなたにとっての最高を与えてくださっている、私たちはそのことを忘れてはいけません。神様が与えてくださっているすべてをどこまでも貪ると言いますか、求め続けよう、そこに神様の御心、知恵、そこに神様の美しさがあなたの内に現され、またそこは↑にある通り輝くのですから。あなたのゆく道を神様が輝かせてくださるから。
私たちは何より神様を求めることを、全ての美しさ、喜び、善、それらすべての源なる神様を求めることをやめてはいけません。神様は↑の後半にあるような「人は火をふところにかき込んで、その着物が焼けないだろうか。また人が、熱い火を踏んで、その足が焼けないだろうか」と仰られているような、私たちを焦げ付かせ、その本来の神様から与えられている日々、いのち、そうしたものを失わせない、むしろあなたの内に燃える神様の愛が、喜びが、灯が輝き、生かして下さるのです。罪によって、その報いや刈り取りによってこれらを失うことがあってはならないのです、神様があなたのすべてとなってくださるのです。
神様は私たちの内にある様々な思い煩いや痛み、悲しみ、罪、そうしたものを取り除き回復させるために、御子イエス様のいのちを惜しまず与えてくださりました。私たちが負うべき報いや痛み、それらをすべて身代わりに背負わせて。そこまでしてでもあなたをもう一度取り戻そうとされた、罪も汚れも、一切取り除き新しくしようとしてくださったのです。その神様があなたの内に輝いている、何と感謝なことでしょう。人の妻云々の前に、神様以外の何かに喜びをもう見い出している場合ではありません。このイエス様のいのちをかけた愛以上の喜び、愛、救い、あなたを生かすものはどこにいったいあるというのでしょう。
このイエス様にあって今日神様があなたに刈り取らせてくださる恵み、喜びを私たちはいただこう。ここに全てがあると信じて刈り取らせていただこう。そこに確かに神様のいのちがあり、これによって私たちは生かされるのですから。
1世紀にイエス様の愛を伝え続けたパウロは、迫害下にあっても「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」と語りました。そのように、人の目には見えないように見えて、確かにその愛を現された、いや今も現され続けている神様の愛を今日、私たちは見上げよう。御子イエス様の十字架に現された、目に見える本物の神様の愛から目を離してはいけません。このイエス様のいのちにあっていつまでも続く永遠の愛、いのち、その中に神様が私たちを招いて下さっている。この神様の栄光・素晴らしさを仰ぎ見、歩もうではありませんか。「彼はどんな償い物も受けつけず、多くの贈り物をしても、彼は和らがない」とは逆に、神様がイエス様にあって償われた私たちを受け入れ、このイエス様のいのちという贈り物をもって今日も私たちを和らげ、また喜びで満たして下さるから。だから私たちもいつまでも神様から離れずいつまでも神様を求め続けようではありませんか。