保証人・困っている時… | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「わが子よ。もし、あなたが隣人のために保証人となり、他国人のために誓約をし、あなたの口のことばによって、あなた自身がわなにかかり、あなたの口のことばによって、捕らえられたなら、わが子よ、そのときにはすぐこうして、自分を救い出すがよい。あなたは隣人の手に陥ったのだから、行って、伏して隣人にしつこくせがむがよい。あなたの目を眠らせず、あなたのまぶたをまどろませず、かもしかが狩人の手からのがれるように、鳥が鳥を取る者の手からのがれるように自分を救い出せ。」

箴言6章1-5節

 

困った時の神頼み、なんて言葉がありますが、いざとなったら神様を頼るけど、そうじゃない時は神様を否定したりする…、人はそんなところがありますよね。神様を信じているけど普段は神様の方法を否定して自分の好きなようにする、とか。でもそもそも、私たちのいのちを与え、保証してくださっている方がいるということを忘れていませんか?困ったら神様助けてください、と言ってはいけない、というわけではなく、もっと普段から神様を求めて良いんです。神様はあなたに最高のいのちを与えてくださったはずです。本物の良いもので満たしたい。それゆえに、あなたを取り戻すため、御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えてくださったわけです。そんな神様があなたを保証し、導いて下さる命、私たちはどれだけ期待しているでしょうか。

 

さて、↑は神様が古代イスラエル王国の3代目王ソロモン、また彼を通して私たちに向けて語られた箴言、神様からの知恵のことば、その続きとなります。神様はこの箴言の最初に、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と示されましたが、初めでいてくださる、全ての源であって下さる事、それは本当に感謝ですよね。その初めがダメだったり不安定なものであったら私たちは何を頼ったらいいのか。でも、父なる神様となって私たちを保証し導いて下さる、そういう方がいる、その方が私たちをその恵みで着飾らせてくださっている、その事を忘れてはいけませんね。

 

さらに神様はその知恵をソロモン・私たちに向けわが子よ。もし、あなたが隣人のために保証人となり、他国人のために誓約をし、あなたの口のことばによって、あなた自身がわなにかかり、あなたの口のことばによって、捕らえられたなら、わが子よ、そのときにはすぐこうして、自分を救い出すがよい」と、示されます。

 

今度は保証人について神様は語られるわけですが、これはただ単純に保証人になるならない、の話ではありません。この箇所から保証人になるべきではない、という風にストレートに受け取って、困っている人がいても助けようとしない、なんてクリスチャンの方だっていますし、そういう単純な話ではないのです。

 

ここまでの箴言のことばで「あなたの手に善を行なう力があるとき、求める者に、それを拒むな」という神様からの勧め、示された言葉がありましたね。困っている人がいるのにただこうあるから何しない、助けない、というのは違う。だからここで神様が仰られたいのは、急に保証人の話が出てきたわけではなく、↑の前の5章で夫婦・男女関係、人間関係の話があったように、私たちと隣人の関係について述べられている、そう思うところです。そもそも私たちは誰かと関わりながら生きている、その中で神様は神様を愛し、また隣人を愛し生きる事を願われているわけですから、人との付き合いの中で、何の知恵もなしに、あれはしない方が良い、これはした方が良い、と話を括るのではなく、そこに神様を求める、これが大事なのです。だって私たちには神様という善い力を知っているのですから。

 

話はだいぶ脱線しましたが、↑を見てみましょう。「わが子よ。もし、あなたが隣人のために保証人となり…」とまず示されていますが、保証人を必要とするほど困窮されている人がいる。ご存じいまの時代多くの困窮者がいます。その人たちを神様が覚えておられる事、これを忘れてはいけません。私たちもいつ困窮するかわかりません。保証人を必要とするレベルまで行くかはともかくとして、病気で働けなくなる、生まれつき厳しい環境にある、などいくらでもあります。日本にいるとその感覚に麻痺してしまいがちですが、世界を見渡せばそれが事実であることは認めざるを得ないでしょう。そんなの神様を信じていれば何とでもなる、といって何も手を貸そうとさえしない、それは少し違うのです。そもそも、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」とイエス様は教えられた(旧約時代も、です)のに、困っている人を気にかけない、というのは違うわけですね。

 

一つ覚えていていただきたいのですが、私たちは神様という方に保証されているから、守られ、支えられているから今、こうして生きているのです。私たちは神様の創られた世界に住まわせていただき、神様の与えてくださった土地で生きている。土地は国のものでも誰かのものでもない、神様が創られたところに人が住んでいるのですから神様のもの。全ての食べ物も神様が実らせて下さり、与えてくださっている。神様が倉に納めさえしない鳥さえ養い、野に咲く花さえ美しく着飾ってくださっている。私たちは神様が心配してくださって、またあなたに生きてほしいと保証してくださっている、養ってくださっている、その中で生かされているのです。誰一人神様の助けが必要ない人なんていない。神様ご自身が私たちの保証人となってくださっているわけですね。

 

私たちはこの神様に愛されている、生かされている、という大切な知恵をいただいている。いや、この知恵、神様の尽きることのない財産、愛が確かにある事を覚えましょう。そして、だからこそこの神様の知恵に頼っていいんです。困った時どうしたらいいのか。神様に祈っていいんです。誰か助けてくれる人を与えてください、でもいい、正しいアドバイスをくれる方を与えてください、でもいい、神様の財をもって金銭だけじゃない、その問題が解決し、神様の恵みで満たされる、新しいものに変えられる事を何より祈る、その中で私たちは神様のすばらしさを知るわけですね。↑の前の5章の中でも、「あなたの水ためから、水を飲め。豊かな水をあなたの井戸から」とあるように、神様の水ためから飲む、神様の井戸から水を求め進みゆく時、私たちの井戸は神様の恵みで、愛で、その必要は必ず満たされる。だから神様をまず第一に求めることを忘れてはいけません。

 

同時に箴言3章でも見ましたが、「あなたの手に善を行なう力があるとき、求める者に、それを拒むな」、と神様は示しておられましたよね。その善を行う力、本物の善は神様の内にある。神様は愛するあなたに、それこそ↑で「わが子」と呼びかけているように、我が子であるあなたの内に、またあなたの隣人の内に良いことを行いたい、現したいのです。だからもし目の前にいる困った方がいるなら、神様に祈って知恵をいただきましょう。そして本物の知恵、神様の御業がら現れることを祈りつつ行動に出る、そこに神様の知恵が、驚くべき御業が広がっていくのです。尽きることのないいのちの泉から。神様は求める者に良いことを拒まれる方ではない、だから私たちは神様の善いこと、善い業、その全てで全地が満ち溢れることを祈りたいものです。あなたの内にも、あなたの隣人の内にも、あなたのコミュニティの内にも…

 

私たちって神様によってみなつくられた者たちなんですよね。だから神様は互いに愛し合い、助け合う、そうして神様の家族としての形成をしていく事を律法というものの中で示されてきていました。↑では外国人(他国人)について取り上げられていますが、あの人は神様を信じていないから、とか、あの人は○○だからと言って助けない、それは悲しいですよね。でももし、そこに神様の愛が溢れることを願いその愛を現し助けるなら、その人が神様を体験して神様に立ち返るなら、どれだけ素晴らしいことでしょう。

 

いや、そもそもの話がですよ?私たちは神様からの助けを受けるに値しないものだったのです。神様から離れ、好き勝手に歩んで。本来もう神様から「他国人」と言われ、神様自身が損害を受けないように…とされてもおかしくなかった。↑の「他国人のために誓約をし、あなたの口のことばによって、あなた自身がわなにかかり、あなたの口のことばによって、捕らえられたなら」ということばは、私たちは他人事のように騙されないように気を付けなければ、と考えてしまいますが、とんでもない。私たちこそ神様を愛すると言いながら騙し、離れ、好き勝手に生きてきた神様の他国人とされてもおかしくないものだったのです。

 

しかしそのような私たちを神様は見捨てる事ができず、「わが子」とするために、私たちを保証人として、いのちをもって取り戻すために、御子イエス様に私たちの全ての思い煩い、神様に対する罪、あらゆるものを身代わりに背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせたのです。ありえない話。しかし神様は水からに損害をってでもあなたを取り戻そうとされたのです。それによってあなたが命を得られるなら、それこそ神様の益、喜びなんだ、と私たちを捨てるよりもイエス様のいのちを捨てあなたを救うことを選ばれたのです。これだけの愛を私たちはいただいているのです。それなのにどうして私たちはこの神様の愛が、知恵が、私たち自身の内に、また隣人に溢れることを願わないでいられましょう。いや、何より私たち自身が一番この神様の知恵、愛、いのち、神様が必要ではありませんか。

 

神様を信じて何になる?↑の保証人の話ではありませんが、損害を受ける?騙される?とんでもない、私たちは世の様々な富や情報に騙され神様の本物の希望を失う、そんなことがあってはいけないのです。神様がいのちをもって取り戻して下さった、保証されているいのちがどれだけ素晴らしいか。

 

神様は↑でそんな困った状況になったら(ここでは騙されて保証人になった場合について主に書かれていますが)、「あなたの目を眠らせず、あなたのまぶたをまどろませず、かもしかが狩人の手からのがれるように、鳥が鳥を取る者の手からのがれるように自分を救い出せ」と、一目散に逃げだすように、と教えておられます。私たちは私たちを捕えようとする様々なものに捕らえられどうにもならなくなった時、一目散に逃げだしていい。どこに?神様の所にです。神様が私たちをかくまって守ってくださるから。そしてその状況を神様は変えてくださるでしょう。だって、その偽りの契約を神様が破り捨て、神様とイエス様の血潮の血判によって契約していただいた、私たちはもう神様のものとされたのですから。

 

もう「他国人」、神様以外の偽りの偶像や何やらとあなたの心を契約で結んではいけない。騙され神様のくださったいのちを搾取されてはいけない。私たちはイエス様のいのちにあって神様と契約が結ばれている。私たちはもう神様の家族、子とされているのです。御子イエス様のいのちを惜しまず与えてでも。その我が子のために神様は惜しまず善を行ってくださり、その御手を今日も開いて下さっているのです。ですから、イエス様がいのちをもって取り戻されたこの素晴らしいいのち、またあなたの周りの隣人のうちに、神様のこの素晴らしいいのちが、愛が豊かに広がることを切に祈り願おうではありませんか。「神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です」と約束されている神様に、私たちは希望を抱きながら。