知恵を見出す時…露が注がれる時… | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「幸いなことよ。知恵を見いだす人、英知をいただく人は。それの儲けは銀の儲けにまさり、その収穫は黄金にまさるからだ。知恵は真珠よりも尊く、あなたの望むどんなものも、これとは比べられない。その右の手には長寿があり、その左の手には富と誉れがある。その道は楽しい道であり、その通り道はみな平安である。知恵は、これを堅く握る者にはいのちの木である。これをつかんでいる者は幸いである。主は知恵をもって地の基を定め、英知をもって天を堅く立てられた。深淵はその知識によって張り裂け、雲は露を注ぐ。」

箴言3章13-20節

 

「もの」という表現をするときに「物」と「者」で大体使い分けますね。人間は物ではない。魂が与えられていて、生きている、生かされています。まあ物も製作者の思いが込められていて、その役割がありますが、残念ながら生きてはいない。でも突然発生するわけではなく、やはりつくり主がいる。そう全てはすべてのつくり主なる神様がいて、この方にあって美しい世界があり、また美しいいのちが与えられているのです。あなたも神様の最高傑作、作品であり、子、その我が子のために御子イエス様のいのちを身代わりにしてでもあなたに良いものを注ぎたい、与えたいと今日もその愛を向けられていることを忘れないでください。今日私たちはこの神様の愛をどこまでも追い求め、歩もうではありませんか。

 

さて、↑は古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向け、神様が示された知恵・箴言の続きになります。ソロモンはただ残念ながらこれだけの恵みを知って神様を求めるのではなく、段々離れていった、最後は神様を捨てたということを考えると、いかに神様に留まり続ける、求め続けるのか、それを思わされます。神様はこの箴言の最初で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」とソロモンに最初に示されていましたが、いつも「初め」である神様を求め続けたいものですね。

 

神様はさらにその知恵をソロモン・また私たちに向けてさらに「幸いなことよ。知恵を見いだす人、英知をいただく人は」と示されます。ここまで知恵とか知識とか、そんな表現が何度も出てきていましたが、この知恵というのは自分で発見することはできないんですよね。どこかから、誰かから見聞きしたものから見い出すといいますか。日本語で見ても、「恵」を「知る」となっていて気付くかもしれませんが、本当の知恵というのは神様からくるものであり、神様から頂くものなのです。神様からの恵み、それを知るのです。いや、注がれている神様の恵みを恵みとして受け入れる時、その知恵は、神様の恵み、神様の全てがあなたの内に満ち溢れる、私たちを「幸いな者」にしていただけるわけですね。

 

その知恵について神様は続けて「それの儲けは銀の儲けにまさり、その収穫は黄金にまさるからだ」とソロモンに、私たちに示されます。そう、それらは神様からくる知恵だからこそ、金銀にまさるわけです。そういう意味で、この世の金銀や成功を求める事や、得ようとすることが知恵なのではなく、また自分の考える結果を得ることが知恵、神様の御心だ、と考えるのは違うのです。これを気に入ったから、この知恵は、このアイデアは金のような格言だね、銀だね、これは気にくわないから、知恵でも何でもない、というものでもありません。

 

これは本当に私たちが陥りやすい罠です。誰しもが自分に役立ちそうなものをセレクトしていきます。ただ、それが本当にあなたのためになるのか、正しいのか?それはあなたに対して責任を取ってくれる?ただ、神様からの知恵は違います。神様がそこに働かれるからこそ、金銀にまさる、そこに神様の儲けと言いますか、あなたのうちに良いものをもたらして下さる、神様が働かれてあなたのうちに驚くべきことを「神様が」もたらして下さるのです。私たちは何を祈り求めているでしょうか。

 

1世紀の伝道者、パウロは「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように」と祈ります。すべての源なる「父なる神様」が、私たちの内なる人を強くしてくださる、満たして下さる。私たちの内に住まわれるイエス様が、この世では測れない愛、御心を現して下さり、満たして下さる、と。だから、「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方」祈り求めるのです。

 

私たちは神様をこの世レベルの偶像や何かと同列に下げていませんか?神様の与えてくださる御心が自分のお心や計画にどうして勝る事ができるでしょう。クリスチャンであってもこの点で本当に気を付けなければいけません。神様は「自分にとって満足させる」ことをもたらさない、と考え、普段自分で口で告白していること、祈っていることと違う選択をすることがあります。しかし、私たちは人知をはるかに超える神様の御心、愛を求めよう。

 

神様はここでさらに、ソロモン・私たちに「知恵は真珠よりも尊く、あなたの望むどんなものも、これとは比べられない」と示されるわけですが、そういえばイエス様はこの真珠について、「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから」と教えられましたね。

 

この豚にしても犬にしても当時のイスラエルで言われていた、考えられていたのは汚れたもので、豚の飼育などは特にイスラエルでは最も嫌われていた職業。イエス様は彼らを捨てる、というよりも、そのようなものになってはいけない、というのです。その価値もわからず、本物の真珠、神様が現わそうとしている御心、知恵、愛、ご計画…そうしたものに価値を見出さず、同じように見える、いやもっと輝いて見える偽物の真珠を喜び、神様の聖さ、いのちを失う者、神様の恵みから引き裂かれるような者であってはいけないのです。の場合は神様のこの御言葉は何の役にも立たない、という方もいるのですが、それを役に立たないものにするのは人であって、神様が働かれるから、そこに本当の意味のあるものとなるのです。

 

イエス様はあなたに本物の真珠を与えてくださっているはずです。私たちは、その豚になっていませんか?神様のくださっている最高の真珠の価値を見出そうともせずに意味のないものとして扱っていませんか?私たちは神様の真珠を、真珠と思っているでしょうか?求めているでしょうか?神様があなたにその真珠を首飾りとしてあなたにかけてくださるとき、私たちの日々はどれだけ輝くでしょうか。

 

イエス様は「また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます」とも教えられましたが、全部を売り払ってでも求める価値がある、と。どうしてか、そこに埋められた本物の真珠、神様があなたの内に働かせてくださる知恵、御心、愛、御力、ご計画…そうしたものはそれほどの価値がある、あなたの全生涯、日々、場面、関係…そうした中に輝いている、神様が輝かせてくださるのだから。だから、この神様のたった1つの真珠を求めよう、と語られるのです。イエス様がそのたった一つ部の真珠、御子イエス様のいのちという真珠をあなたの内に与え、そのうちに驚くべきことをなして下さったのです。

 

なぜそこまで神様は私たちにされるのか。神様は↑で「その右の手には長寿があり、その左の手には富と誉れがある」とあるように、私たちに長寿を願われているのです。神様はかつてモーセを通して「きょう、あなたは、上は天、下は地において、主だけが神であり、ほかに神はないことを知り、心に留めなさい。きょう、私が命じておいた主のおきてと命令とを守りなさい。あなたも、あなたの後の子孫も、しあわせになり、あなたの神、主が永久にあなたに与えようとしておられる地で、あなたが長く生き続けるためである」と、神様があなたに心を留めてくださっているから、私たちもこの神様に心を留め、この神様のみことば、ご計画に信頼しようではないか、と語られるのです。神様の御心が、御力が、愛が私たちの内に留まり、私たちを幸せにして、その日々が長く、とこしえに働き私たちもその中に生かされている、そんな神様のいのちの中に私たちを招いて下さっている、神様の富と誉の中に私たちを招き、支えてくださっている。私たちがこの世の偽物の真珠の輝きに生きるのではなく、神様の本物の輝きに生きる事を願われているのです。

 

「その道は楽しい道であり、その通り道はみな平安である」それをもたらされるのは神様です。時にこの世の楽しみ、自分の考える楽しみと神様の与える楽しみは違うように見えるかもしれませんが、しかし聖書の中で、ある人が神様の御傍にずっといながら「ご覧なさい(元のことばでは、「おい、そこのお前」と言っている)。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません…」と、何も良いものも与えて下さらない、何も楽しいことはなかった、と文句を言いました。しかし神様は「子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか」と答えたのです。

 

神様はずっと一緒にいる、良いものも与えてくださっている、でもその良いものに気づかず自分の求める者をくれないからと文句を言う。でもそうじゃない、神様は彼に、私たちに、楽しみ喜びを与えてくださっている、一緒にこの楽しみを味わおう、そう呼びかけてくださっているのです。あなたも、偽の知恵によって死んでいた、そのあなたに本物の愛、知恵、御子イエス様のいのちを私たちの身代わりにして罰し、死なせるというあり得ないことを実行してまで、そんな神様を「おい、そこのお前」と自分の召使を呼ぶかのように好き勝手にふるまう私たちのためにさえ、そのいのちを与え、生き返らせ、本物の愛の中に招かれたわけです。

 

しかしイエス様は私たちに喜び、楽しみをもたらし平安をもたらすためにご自身の全てを与えてくださった。あなたはこのイエス様の命がけの愛、真珠、その知恵のすばらしさをどれだけ知っているでしょうか。求めているでしょうか。イエス様のいのちがもたらしたこのいのちの木、実をしっかりと握っていますか?「主は知恵をもって地の基を定め、英知をもって天を堅く立てられた。深淵はその知識によって張り裂け、雲は露を注ぐ」。この天地万物を創られた神様が、あなたのために御子イエス様のいのちをもってまで救い出された方が、十字架によって天を開き、その露を滴らせ、私たちを今日も潤して下さり生かして下さっているのです。この神様の知恵、愛によって今日も私たちは築き上げられ、驚くべき恵みがここに現わされるのです。今日、私たちはイエス様を求めましょう。人の知恵ではない、このイエス様にあって現わされた本物の知恵が、御心が豊かに現され、主が輝かせてくださることを切に祈り求めようではありませんか。