「知恵は、ちまたで大声で叫び、広場でその声をあげ、騒がしい町かどで叫び、町の門の入口で語りかけて言う。『わきまえのない者たち。あなたがたは、いつまで、わきまえのないことを好むのか。あざける者は、いつまで、あざけりを楽しみ、愚かな者は、いつまで、知識を憎むのか。わたしの叱責に心を留めるなら、今すぐ、あなたがたにわたしの霊を注ぎ、あなたがたにわたしのことばを知らせよう。わたしが呼んだのに、あなたがたは拒んだ。わたしは手を伸べたが、顧みる者はない。あなたがたはわたしのすべての忠告を無視し、わたしの叱責を受け入れなかった。それで、わたしも、あなたがたが災難に会うときに笑い、あなたがたを恐怖が襲うとき、あざけろう。恐怖があらしのようにあなたがたを襲うとき、災難がつむじ風のようにあなたがたを襲うとき、苦難と苦悩があなたがたの上に下るとき、そのとき、彼らはわたしを呼ぶが、わたしは答えない。わたしを捜し求めるが、彼らはわたしを見つけることができない。なぜなら、彼らは知識を憎み、主を恐れることを選ばず、わたしの忠告を好まず、わたしの叱責を、ことごとく侮ったからである。それで、彼らは自分の行ないの実を食らい、自分のたくらみに飽きるであろう。わきまえのない者の背信は自分を殺し、愚かな者の安心は自分を滅ぼす。しかし、わたしに聞き従う者は、安全に住まい、わざわいを恐れることもなく、安らかである。』」
箴言1章20-33節
世の中には本当に多くの情報が溢れています。一昔前と違ってネットなどで容易に情報が仕入れられるようになりましたからね。ただ、その真偽は結局読み手に委ねられている。場合によっては今のシステム上、自分が見ている動画などに近いものが表示されて行きますから余計にその真偽が分かりづらくなっている。そしてそれがさも正しいかのように考えてしまう…でも本当に正しいことはどこにあるのか、あなたを支えているのは誰なのか?目に見えない誰かではなく、この天地万物を創られた神様、あなたをつくられ愛しておられる父なる神様、この方が私たちが見ていない、聞いていないだけで、ご自身の確かな御業を、愛を現して下さり、また支えてくださっているのです。あなたのために御子イエス様のいのちを持ってまで取り戻そうとされた方があなたに本物の平安を与えようと。私たちは今日、この神様を見、またその御声を聞いているだろうか。
ということで、↑は神様が古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに示された知恵、その箴言の続きになります。箴言の、いや私たちが生きる上で本当に必要なのは知恵や知識ではない、もちろんそれらも必要ですが、それらを含め、全ての源なる神様を求め、この神様の知恵、力、愛、その全てに私たちは生かされているわけですね。だからこそ、箴言の最初で言っているように、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」という神様がソロモンに、私たちに導かれたこのことばを忘れてはいけません。神様を恐れる、神様ご自身の御前に知恵や知識、態度、すべてにおいてへりくだる、その中で神様の全てが私たちの内に働き、神様の素晴らしい恵みの飾りが私たちを輝かせてくださることを忘れてはいけません。
それで↑に話を進めますが、「知恵は、ちまたで大声で叫び、広場でその声をあげ、騒がしい町かどで叫び、町の門の入口で語りかけて言う。『わきまえのない者たち。あなたがたは、いつまで、わきまえのないことを好むのか。あざける者は、いつまで、あざけりを楽しみ、愚かな者は、いつまで、知識を憎むのか。わたしの叱責に心を留めるなら、今すぐ、あなたがたにわたしの霊を注ぎ、あなたがたにわたしのことばを知らせよう。…』」と神様はソロモンに示されます。
ここで「知恵」という「存在」が登場します。分かりやすく言いますと擬人化ですね。本当の知恵というのは黙っていない。曖昧にしない。ただ、厳密にはこの知恵というのは、ここまで見てきたように世の中にあるようなその真偽が定かではないようなものではなく、神様ご自身です、神様のなさること、語られること、その全てがある意味で知恵であり、知識であると言っていいでしょう。実際に少し先の9章ではこの知恵の正体が御子イエス様ということがわかるのですが、なぜ神様は知恵を語られるのか、それはイエス様が知恵として現されるように、私たちに生きてほしい、幸せになってほしいからです。
神様の知恵、律法・十戒は、イエス様の時代の宗教家のイメージからあまり警戒されがちですが、しかしそれらは神様が与えたものであり、「イスラエルよ。聞いて、守り行ないなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり、あなたの父祖の神、主があなたに告げられたように、あなたは乳と蜜の流れる国で大いにふえよう」と、神様が仰られたように私たちが幸せになる、神様のくださる本物の幸せに生きること、それを願われ与えられた知恵、道なのです。
私たちはこの知恵といいますか、あなたを幸せにしたいと思われている神様のお働きがここにある事、それを忘れてはいけません。様々な情報や価値観、また人、時代の流れなどに囲まれてどうしたらいいのか分からない時、そこに確かに立っておられる方がいる。確かに大声を出してあなたに聞こえるように、あなたの内に働こうとされている方がいる。私たちはこの方の声、まことの知恵を聞き分けよう、見よう。
知恵、神様は「わたしの叱責に心を留めるなら、今すぐ、あなたがたにわたしの霊を注ぎ、あなたがたにわたしのことばを知らせよう」と仰られます。世の中の現状は「わきまえのないことを好」み、「あざける者は、いつまで、あざけりを楽しみ、愚かな者は、いつまで、知識を憎む」、そんな状況にありました。理不尽なことがまかり通る、それはどの世の中でもあるといえばあります。もしくは神様のことばよりも、こっちの実践的な本や人の言っていることの方が自分には役に立ちそうだ、と、まさに知識・神様を恐れず侮る、そんな状態にありました。これ、私たちもありますよね。自分に利するものを知恵、知識だ、と考え、そうではないものをあざける。でも、それらは決して生きているわけでもなく、あなたに向けて書いた本でもない、ただあなたがこれは自分に役に立ちそうだ、と思って選んだだけ。
しかし、私たちはここに、このような私たちにさえ心を留めておられることにしっかり私たちも心を留めましょう。神様はあなたの霊を注ぎたい、神様の全てで満ち溢れさせたい、その思いでいっぱいなのです。神様の霊は私たちを生かす、本当の意味で生きたものとするために、神様が人をつくられた時に吹き込まれた大切なものです。しかし私たちはこの与えられた霊を、様々な罪によって傷つけ、失ってしまった。そんな私たちに神様の霊が、憐みが、注がれる、ただ一時的な助けになりそうな知識ではない、神様ご自身の霊が注がれる、聖霊様が注がれ、私たちをそのいのちに満ち溢れさせてくださるのです。
イエス様は、まことの神はどこにおられるのか、いつ救いが来るのか、と彷徨い、それこそ本当に迷っている民に向け、「立って」、「大声で」、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」と仰られました。↑でも大声で招かれ、叫ばれた知恵、確かにイエス様という知恵が来られ、招かれたのです。どこか遠く離れたところからではない、今目の前にいるあなたの目の前に立って、語られるのです。この霊を注ごうと。
それはこの世にあるような偽物や紛い物、もしくは悪霊ではない、三位一体なる神様、新しい助け主なる聖霊様が私たちの内に注がれ、腹の底から湧き出で私たちを満たすのです。この方がすべての事を教え、またイエス様の仰られていることを分かるように助けてくださるのです。私たちにはイエス様のことを何でもわかるわけではない、でもイエス様の愛が私たちに溢れ、また働かれる中で、確かにイエス様こそまことの救い主であり、他にはないことを知るのです。↑で知恵・イエス様を憎む、と言っていますが、イエス様は私たちを憎み、何かに陥れるのではなく、むしろあなたを愛し、ご自身の内に引き上げようとしてくださっているのです。ご自身の知恵と言いますか、その愛の内に。その知恵の内に満ちる命の内に。
かつて宗教家の将来のホープと言われながら、そんなものはイエス様の救ってくださった新しいいのちとは比べ物になどならないと考えたパウロは、「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです」と語りました。
すべての事は神様から始まり、神様によって成り、そして神様のご計画されている最高へと至る、私たちの知恵や知識では想像しえない驚くべき神様の知恵や知識が私たちを導かれるのです。このイエス様のうちにこそ知恵と知識との全ての宝が隠されているのです。私たちはこの世の知恵や知識と比べて自分の合う方を選ぼうとする、でも比べるまでもない、あなたを愛し、神様のつくられたあなたに、底知れぬ深い愛を、言い尽くせないほど大きな愛を、あなたに与えたい、現したいのです。苦難や災難になった時に応えないこの世の知恵や知識ではない、それでもあなたを憐れまれる神様は、あなたにもう一度↑にあるように安らぎを与えたいのです。
イエス様は、私たちにとって、神様の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられるべく、私たちのこの失ってしまった魂、いのち、とらわれた様々なものから解放し、イエス様ご自身の内におらせる、招くため、私たちの思い煩いも痛みも、何より罪も一切身代わりに、十字架に架けられ、罰せられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の打ちに招かれた。このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る時、私たちは神様の子としてイエス様のこの究極の知恵、愛の中に招かれているのです。このイエス様のいのち、愛ゆえに、このイエス様の十字架と復活によってあらわされる知恵、知識、愛、いやイエス様の全てが私たちの内に現され、生きたものとされるのです。このイエス様の知恵、イエス様が生きて働かれる、霊に満ち溢れた新しいものとされるのです。ここにイエス様の全てが満ち溢れるのです。
私たちがこのイエス様に立ち返り、聞き従う時に与えられるのは、「安全に住まう」ことと、わざわいの恐れから解放された「平穏さ」、これが約束されています。このイエス様への信頼ゆえに安全と平穏さが保障されるのです。どんなに災いが襲ってこようとこれを奪い取ることはできません。この世の知恵や知識が与えるもの・平穏ではない、上からの知恵、イエス様が天から降られ、私たちの間に住まわれ、そのいのちと共に惜しむことなくあなたに注がれているのだから。自分の行いの実で本来知恵や平安とは真逆の実を刈り取るところ、私たちはイエス様が行われた実、十字架で私たちの罪を身代わりに背負って罰せられて死なれた、そしてその一粒の麦が死に、よみがえることで私たちにその豊かな実を結ばせてくださるのです。
「しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます」。今日あなたは上からの知恵、イエス様のいのちにあって蒔かれたいのちを、その実をいただいていますか?