―この世界には素晴らしいものが満ち溢れているんだ― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言。これは、知恵と訓戒とを学び、悟りのことばを理解するためであり、正義と公義と公正と、思慮ある訓戒を体得するためであり、わきまえのない者に分別を与え、若い者に知識と思慮を得させるためである。知恵のある者はこれを聞いて理解を深め、悟りのある者は指導を得る。これは箴言と、比喩と、知恵のある者のことばと、そのなぞとを理解するためである。主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである。わが子よ。罪人たちがあなたを惑わしても、彼らに従ってはならない。もしも、彼らがこう言っても。『いっしょに来い。われわれは人の血を流すために待ち伏せし、罪のない者を、理由もなく、こっそりねらい、よみのように、彼らを生きたままで、のみこみ、墓に下る者のように、彼らをそのまま丸のみにしよう。あらゆる宝物を見つけ出し、分捕り物で、われわれの家を満たそう。おまえも、われわれの間でくじを引き、われわれみなで一つの財布を持とう。』わが子よ。彼らといっしょに道を歩いてはならない。あなたの足を彼らの通り道に踏み入れてはならない。彼らの足は悪に走り、血を流そうと急いでいるからだ。鳥がみな見ているところで、網を張っても、むだなことだ。彼らは待ち伏せして自分の血を流し、自分のいのちを、こっそり、ねらっているのにすぎない。利得をむさぼる者の道はすべてこのようだ。こうして、持ち主のいのちを取り去ってしまう。」

箴言1章1-19節

 

この世界を見回すと本当にすごいですよね、どうやったらこんなすごい世界ができるんだろうと思うことがたくさん満ち溢れています。私たちのからだ一つとってもそう。ある意味では生きていられるのが不思議なほどに一つ一つが精密にできています。いったいこれは偶然できた?いえ、これはあなたに神様が与えてくださったからだ、作品であり、我が子への最高の思いをもってつくられた、あなたに素晴らしい命を生きてほしい、と。私たちはこんな素晴らしい神様が創られた世界、いのちを生きている、生かされている、そのことを忘れないで歩もう。私たちには確かに神様の支えがある、この確信をもって生きようではありませんか。

 

ということで今日から古代イスラエル王国3代目の王ソロモンが残した箴言、厳密には彼の内に見せ、働かれている神様の素晴らしさの言葉の数々を共に見ていきたいと思います。歴史書の中には、「神は、ソロモンに非常に豊かな知恵と英知と、海辺の砂浜のように広い心とを与えられた。それでソロモンの知恵は、東のすべての人々の知恵と、エジプト人のすべての知恵とにまさっていた。彼は、すべての人、すなわち、エズラフ人エタンや、ヘマンや、カルコルや、マホルの子ダルダよりも知恵があった。それで、彼の名声は周辺のすべての国々に広がった。彼(ソロモン)は三千の箴言を語り、彼(ソロモン)の歌は一千五首もあった」と、神様があらゆる知恵を与えてくださり、その心を広げてくださったこと、それは知者と言われる誰よりも優れていた、とありますが、一方でその数についてはこの箴言は904節しかありませんからそれには到底届きません。詩篇の中にもソロモンの歌はありますが、昨日まで見ていました雅歌と合わせても1500には到底及びません。しかし、この中に厳選された箴言をことばだけ知る、知識として入れておく、ではなくその源なる神様が彼にその数では表せないほど大きな知識と言いますか愛、いや神様そのものが支え、導いていたのではないか。その神様を私たちが求めていく事、それがこの箴言の中に込められていることでしょう。特に↑を読んでいただければ見えてくるかと思いますが、父から子へ、まことの父なる神様から、大切な我が子、あなたへの愛のメッセージが。私たちもこの神様のことばを超えた大きな愛を追い求めて生きたいですね。

 

ということで、まずソロモンは「イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言。これは、知恵と訓戒とを学び、悟りのことばを理解するためであり、正義と公義と公正と、思慮ある訓戒を体得するためであり、わきまえのない者に分別を与え、若い者に知識と思慮を得させるためである。知恵のある者はこれを聞いて理解を深め、悟りのある者は指導を得る。これは箴言と、比喩と、知恵のある者のことばと、そのなぞとを理解するためである」と書き記します。

 

この箴言には色んな実践的な言葉があります。格言と言いますか、ある意味では生きるための処方箋、方法論的に見えるところが多いのですが、これは良いこと、これは悪い事で切り分けるのではなく、本質は、神様に喜ばれる歩みをする事、そこにあるわけです。ここでソロモンが「体得する」ため、といっていますが、ソロモンの教えではなく、神様が諭して下さる言葉が私たちを生かして下さる事を信じ、それに従う、それに従い生きる、いやこの神様のみことばが私たちの内に神様の御力が働く、そのような歩みに導かれているわけです。

 

パウロは「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます」と言いますが、まさに神様の生きたことばが私たちの内に力ある事を成され、私たちの全ての内に働いて下さる。弱いところ、どうにもならないこと、また問題のあるところ、全ての内にその御言葉が刺し通される時、変えられていくわけです。箴言はソロモンに神様は示された言葉でしょうが、私たちにも神様はそうしたみことばを語ってくださるということを忘れてはいけません。あなたはこの本物の知恵なる神様「ご自身」を求めていますかただ自分にとって都合のいい所だけを受け取り、これはいらない、と取捨選択するのではなく、私たちはすべての源なる神様を求め続けたいものです。

 

先に進めて、ソロモンはここで「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ」と語ります。これがこの箴言の全て、と言ってもいい大切なみことばです。ソロモン自身は正直な話、聖書になじみのある方はご存じかと思いますが、とてもこんなことをかけるほど正しい人ではありませんでした。ソロモンが在位していた前半はまだ、それこそ大岡越前のようなジャッジをしたり、国も正しく治めていましたが、だんだん神様の与えてくださっている良いものを良いと思わず様々な国と国交を結びながら異教文化を持ち込御国をけがし、神様の与えてくださったたった一人の奥さんではなく、700人の奥さんと300人の妾にその満たされない心を求めていった。でも、先ほどの歴史書でも紹介しましたが全ての知恵の始まり、源、心を満たすのは神様だったのです。神様が彼の弱さの内に働かれていた、彼も王になる前に自分は若く、この国を正しく治められない、その為に神様の知恵を求め、神様はその知恵とともに全ての必要を満たして下さった、全ては神様から来ていたわけです

 

神様は別にあなたを上から押さえつけたいわけではないのです。それは昨日まで見ていました雅歌で現された神様の愛の言葉の通りです。なぜこのことばを神様はソロモンに示されたのか。神様はその良いもので私たちを満たしたい。だから、神様を求めてほしい、愚かなことを神様はされない、愚かと言いますか、悲しいあなたになってほしくない、神様の良いもので満ち満ちたあなたになってほしい、その思いが、その愛がここに込められ語られたのです。

 

ソロモンは「わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と今語ります。もちろんお父さんお母さんが我が子に何でも好き放題していい、とかそういう話ではありませんよ?事実ソロモンが重税政策などを行っていたのを見て、息子も影響を受け、王国分裂のきっかけを作りましたからね。そういう意味でまずここまで見た通り、神様を求める事なのです。わが父、本当の父なる神様、その父なる神様がこの方が私たちを導いて下さっていることを忘れてはいけません、親・父なる神様として子である私たちを養ってくださっていることを。

 

かつてバビロン捕囚を体験した詩人は、そんな厳しい中にあっても、「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」と神様との体験を歌に残しました。父なる神様は私たちのゆくべき道を示して照らして下さる、だからこの神様が切り開いて下さる、我が子を愛する神様が暗闇ではなくいのちの道を歩めるようにその御言葉をもって働かれているから、私たちはこの父なる神様に信頼しよう、と。家庭であっても、仕事であっても、同じです。すべての中心は自分が主人だったり柱なのではなく、神様なのですから。そこに神様が花開いて神様の恵みが飾られるような素晴らしさで溢れさせてくださるなら、なんと素晴らしい話でしょう。

 

神様は私たちの父となってくださった。何と感謝なことでしょう。それゆえに、私たちを作ってくださった、その魂を与えてくださった神様として大切な我が子を捨てられない、それゆえに神様にとって最も大切な御子イエス様に、私たちが本来負うべき罪の代価を支払わせ、十字架にかけ、罰し、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の「子」として迎え入れてくださるのです。イエス様のいのちとともに全ての良きものを注ぎたい、とご自身の全てを注ぎだして下さった。すべての良いものはこの神様から来ているのです。

 

イエス様の弟ヤコブ(イエス様は聖霊様によってマリヤの胎に宿りましたが、ヤコブはマリヤとヨセフの子)が「愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです」と語るように。神様はすべての良い贈り物をイエス様ゆえに、与えてくださる、神様が創られる最上の、完全な賜物を。神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。

 

だからこそ、ソロモンに、また私たちに神様は「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ」と、この神様を求めることを強く訴えるのです。「初め」、まさにすべての源なのだから。「わが子よ。罪人たちがあなたを惑わしても、彼らに従ってはならない」と仰られるように、私たちは様々なものや現象、人、そうしたことに惑わされるのではなく、神様が照らされる、開かれる道、イエス様のいのちを持ってまで開かれたこのいのちの道を歩みたいものです。あなたを我が子よ、と呼び、我が子のために御子イエス様のいのちさえ惜しまなかった父なる神様があなたを喜び待っておられるから。「子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。…死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか」とあなたと喜び楽しむ本当の関係を持ちたいと。詳しくは明日また見ますが、「わが子よ。彼らといっしょに道を歩いてはならない。あなたの足を彼らの通り道に踏み入れてはならない」と訴えられているように、私たちは我が子と呼んで下さる神様が導かれる道を歩ませていただこう。命をかけて愛され、その道を開かれたイエス様、命を奪うのではなく与えるためにその身を捧げつくされたイエス様が今日、あなたと共におられるから。