「わが愛する者よ。私はあなたをパロの戦車の雌馬になぞらえよう。あなたの頬には飾り輪がつき、首には宝石をちりばめた首飾りがつけてあって、美しい。私たちは銀をちりばめた金の飾り輪をあなたのために作ろう。王がうたげの座に着いておられる間、私のナルドはかおりを放ちました。私の愛する方は、私にとっては、この乳房の間に宿る没薬の袋のようです。私の愛する方は、私にとっては、エン・ゲディのぶどう畑にあるヘンナ樹の花ぶさのようです。ああ、わが愛する者。あなたはなんと美しいことよ。なんと美しいことよ。あなたの目は鳩のようだ。私の愛する方。あなたはなんと美しく、慕わしい方でしょう。私たちの長いいすは青々としています。私たちの家の梁は杉の木、そのたるきは糸杉です。」
雅歌1章9-17節
君の瞳は〇〇のようだ、何か歌などに出てきそうですが、それほどの表現は相手をよく見ていないと、知っていないと出てこない。というよりもそれを言ったところで虚しく終わるだけな気がします。ただ神様は私たちの目と目を合わせるかのようにその瞳は「鳩のようだ」など、私たちの思い、内なる部分を知ってくださっているんです。神様にとっては私たちは大切な子、ご自身のつくられた存在、御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えるほどに愛された子、そんなあなたに神様がどんな思いを持ち、どんな計画をもっておられるのか。顔と顔を合わせた素晴らしいいのちの関係、ここに現わされる神様の大いなる御業に期待しようではありませんか。
さて、↑は歌の中の歌、多くの歌の中の最高傑作と言われる、ソロモン王が歌ったとされる雅歌の続きになります。ここまで詩人は、「あの方が私に口づけしてくださったらよいのに。あなたの愛はぶどう酒よりも快く、あなたの香油のかおりはかぐわしく、あなたの名はそそがれる香油のよう。それで、おとめらはあなたを愛しています。私を引き寄せてください。私たちはあなたのあとから急いでまいります。王は私を奥の間に連れて行かれました。私たちはあなたによって楽しみ喜び、あなたの愛をぶどう酒にまさってほめたたえ、真心からあなたを愛しています。エルサレムの娘たち」と、偽りではない、本物の愛を求め神様に心を向け歌ってきました。そのように神様を求める人を神様は喜んで、口づけをもって受け入れてくださり、神様の喜びで満ち溢れさせてくださるわけですね。たとえ汚れた私たちを聖い神様の内に。
そんな詩人・花嫁・私たちに向け、花婿・神様(終わりの時で見るならイエス様)は、↑で歌い答え、またそれに詩人も自分の愛を語る、そんなやり取りが進められます。まず神様は「わが愛する者よ。私はあなたをパロの戦車の雌馬になぞらえよう。あなたの頬には飾り輪がつき、首には宝石をちりばめた首飾りがつけてあって、美しい。私たちは銀をちりばめた金の飾り輪をあなたのために作ろう」と、神様の愛を求める詩人・私たちにその愛を語られます。
それにしても、そうして神様と愛を語り合う、思いを語り合える関係なんて本当にすごいですよね。といいますのもね、昔イスラエルの民が神様の助けによってモーセを通して出エジプトを果たして約束の地に向かう道中、モーセの姉が「主はただモーセとだけ話されたのでしょうか。私たちとも話されたのではないでしょうか」と非難したことがありました。兄のアロンや姉である彼女を差し置いて、と。まあ他にも事情はそれぞれあったのですが、まさに直接的に話せる、そんな関係に神様は招いて下さっている。モーセの姉も兄も役割の差はあっても神様を求めよう、聞きたい、そんな思いは当時さほどなかった。でも、神様は本当は顔と顔を合わせて語り合う、そんなことを望まれているのでしょう。モーセも「主の民がみな、預言者となればよいのに。主が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに」と言っていたほどですし。実はこれが、詩人がこの雅歌で歌っている願いであり、また後に神様がイエス様を通して救いが起こった後、成就することとなるのですが。しかし、そんな遠い先でなくとも、今詩人は神様と対話することが赦されている。なんと素晴らしい関係だろう。
話は逸れましたが、神様はここで私たちを「パロの戦車の雌馬」とたとえてます。どうも調べてみますと、「かつてエジプト軍がユダヤへ攻め上ったとき、ユダヤの方は雌馬を放ったところ、エジプトの戦車をひく雄馬は雌馬を追いかけ、エジプトの作戦は狂ってしまった。雌馬にたとえられた花嫁は、雄馬が魅了されるほどに美しいということか」ということがわかりました。まあそれの真偽はともかくとして、エジプトの馬は賞賛され、ソロモンもエジプトから多くの馬を輸入しました。ですから、その馬の美しさに花嫁がたとえられていると考えてもおかしくないですね。花婿は花嫁の美しさに魅了されているのですから。
ただ、この神様の詩人・私たちへの思いはここに留まりません。「あなたの頬には飾り輪がつき、首には宝石をちりばめた首飾りがつけてあって、美しい。私たちは銀をちりばめた金の飾り輪をあなたのために作ろう」と神様は語られていますね。神様が宝石で飾ってくださる、ということなのですが、これはただ単なる物理的な宝石で着飾らせますよ、という話ではありません。まあそうさせてくださる場合もあるかもしれませんが。
花嫁の首にかけられる首飾りは、宝石(真珠)の一つ一つに穴を開けて糸を通して作られるものですが、それは一つ一つの宝石に穴が開けられて、それを糸で結ぶことで、一つのつながりになります。それでこの宝石・真珠ですが、イエス様は「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません」と仰られました。この真珠は聖なるもの、もっと言うなら神様のみことばになります。豚に真珠、ということわざがありますが、そのもとになったみことばですね。しかしその聖なるみことばを、神様を神様としない、神様のみことばの素晴らしさを知らない私たちにむしろ与えてくださり、そのみことばを、↑の歌と合わせるなら、「宝石のように輝かせてくださる」のです、あなたの内に。神様の一つ一つのみことばを一つにして実現させあなたの内に輝かせてくださる。神様のみことばが、愛が、その全てが輝くのです。愛するあなたの内に神様のみことばの約束を輝かせる、働かれるのです。神様の愛はことばを語るだけにとどまらず、その愛を実現されるのです。そうして神様が「金の飾り輪をあなたのために作」ってくださるそのいのちはいかばかりか。
そんな神様の愛の歌に詩人は「王がうたげの座に着いておられる間、私のナルドはかおりを放ちました。私の愛する方は、私にとっては、この乳房の間に宿る没薬の袋のようです。私の愛する方は、私にとっては、エン・ゲディのぶどう畑にあるヘンナ樹の花ぶさのようです」と今度は神様に向かってその思いのたけを歌にして歌います。
どうもオリエントの世界では、香水はとても大切で、ある意味では名は体を現す、の香りヴァージョン、その香水がその人そのものを現すこともあるそうです。あまり詳しくはないのですが、日本にも似たような文化があり、聞香(もんこう)といって、心を傾けて香りを聞く、心の中でその香りをゆっくり味わうというものがあるそうです。香道というもので。なお、ナルドというのはかぐわしい、という意味で、非常に高価なものだそうです。しかも石の瓶に入れて一度割って出したらそれで終わり、それをある女性はイエス様のために使ったことがありました。本来は自分が結婚する時のために取っておく本当に大切なものなんだそうです。香水って、何かに入れてますよね。それを香りを放つほどだったということはその大切なナルドを、この神様との関係において使わずしてどうする、と言わんばかりに一生に一度、ただ一つの香水、ナルドを主の前に捧げたのです。この方と本物の関係になりたい、と。
そしてもう一つの彼女・詩人の願いはいつも主の香りをまとっていたい。イエス様の放たれる香に満たされ、喜びたい、そういう思いがこの没薬の袋に込められているわけですね。当時の女性はどうも首から小さな香り袋をさげていたそうですから。先程の宝石の話と合わせてみるなら、まさに神様のみことば、その約束が輝き、またその香りが私たちを覆い、そのイエス様の御力が、愛が、その全てが覆われ、放たれ、そのイエス様の実力がさらに周りに良い影響をもたらしていく、働かれていく。この愛する方、神様の他にその香りはない、とその喜びを歌っているわけですね。なお、ヘンナ樹についてはブログの方にも画像を残しておきますが、その花はバラの花のような甘い香りがするそうです。その神様の素晴らしい香りを求めます、と。
(これがヘンナ樹の花だそうです)
ある人は神様は無味無臭、信じて何になる?とか色々言いますが、とんでもない。ダビデ王は「主のいつくしみを味わい、見つめよ。主に身を避ける人は幸いである」とうたいましたが、神様はいつくしみを注ぎ、味わわせてくださる。その香りは私たちはどれだけこのイエス様の香りを、なされる一つ一つのわざを、愛を味わい求めているでしょうか。神様は、私たちを花嫁としてもう一度迎えるため、神様から離れ見捨てられてもおかしくなかったのに、御子イエス様にその罪もすべて一切身代わりに背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせたのでした。この愛、死と復活というその香りが私たちを招いて下さっているのです。死してその匂いを覆いながら、あなたの身代わりに死なれた、そのからだを新しいものにされる、放置されるのではなく神様の子とされる、そのことを十字架と復活によって現された。この愛が今もイエス様から放たれているのです。そのイエス様が無味無臭?とんでもない。この方が飾られる宝石、輝かせてくださる御言葉、愛、いったいどれだけすばらしいことか。
神様は「ああ、わが愛する者。あなたはなんと美しいことよ。なんと美しいことよ。あなたの目は鳩のようだ」と私たちになお訴えます。あなたはなんと美しいんだ、と繰り返し繰り返し。それゆえに私たちのために御子イエス様のいのちを惜しまず与えてくださったのです。私たちの目は鳩のよう…、別に目が鳩のようにかわいらしい、美しい、と言っているわけではありません。まあもちろん神様は私たちを最高傑作につくってくださったわけですから、美しい、と言ってくださるでしょうけど、でもそれだけじゃないんです。目は口程に物を言う、ではありませんが、目は全身の様子を現すことばなんです。あなたの全身、全てが鳩・聖霊様に満たされ美しく輝いている、そんな様子を神様は喜ばれているのです。
神様は私たちを今日も喜ばれています。「ああ、わが愛する者。あなたはなんと美しいことよ。なんと美しいことよ」と語りかけてくださっている、神様がそうしてくださっている。あなたの全身を輝かせてくださっている。聖霊様で、その御言葉の約束で、御子イエス様のいのちで。神様の愛があなたの内に輝いているのです。鳩がただ一人(匹)の伴侶を見つめるがごとく、私たちはただこの神様だけを見つめよう。その時私たちは私たちを愛する神様を、その栄光・素晴らしさを、その御業を、恵みを知らせていただけるから。
詩人は↑の最後で「私の愛する方。あなたはなんと美しく、慕わしい方でしょう。私たちの長いいすは青々としています。私たちの家の梁は杉の木、そのたるきは糸杉です」と告白します。後者は当時の最高の家の性質。私たちの家、日々を神様が素晴らしいものに建て上げてくださるのです。私たちはこの神様が建て上げてくださる日々、その中に輝かせてくださる神様の美しく麗しいその御業、その全てに信頼し、期待し、「私の愛する方」、神様から離れず生きよう。私を愛してくださる神様が今日もあなたにその愛を注がれているから。

