―回復の日:あなたと一緒にいる― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「『…部族の名は次のとおりである。北の端からヘテロンの道を経てレボ・ハマテに至り、ハマテを経て北のほうへダマスコの境界のハツァル・エナンまで―東側から西側まで―これがダンの分である。ダンの地域に接して、東側から西側までがアシェルの分。アシェルの地域に接して、東側から西側までがナフタリの分。ナフタリの地域に接して、東側から西側までがマナセの分。マナセの地域に接して、東側から西側までがエフライムの分。エフライムの地域に接して、東側から西側までがルベンの分。ルベンの地域に接して、東側から西側までがユダの分である。ユダの地域に接して、東側から西側までが、あなたがたのささげる奉納地となる。その幅は二万五千キュビト、その長さは東側から西側にかけて部族の割り当て地の一つと同じである。聖所はその中央にある。あなたがたが主にささげる奉納地は、長さ二万五千キュビト、幅二万キュビトである。祭司たちへの聖なる奉納地は次のとおりである。北側は二万五千キュビト、西側は一万キュビトの幅、東側は一万キュビトの幅、南側は二万五千キュビトの長さである。主の聖所はその中央にある。この区域はツァドクの子孫の聖別された祭司たちのものである。彼らは、イスラエル人が迷い出たときいっしょに迷い出たレビ人とは異なり、わたしへの任務を果たしている。彼らの地域はレビの部族の地域に接し、奉納地のうちでも最も聖なる地である。レビの部族の分は、祭司たちの地域に接して、長さ二万五千キュビト、幅一万キュビトである。すなわち、全体の長さは二万五千キュビト、幅は一万キュビトである。彼らはそのどの部分も、売ったり取り替えたりしてはならない。その初めの土地を手放してはならない。主への聖なるものだからである。幅五千キュビト、長さ二万五千キュビトの残りの地所は、町の一般用であり、住まいと放牧地のためである。町はその中央に建てられなければならない。その大きさは次のとおりである。北側は四千五百キュビト、南側は四千五百キュビト、東側は四千五百キュビト、西側は四千五百キュビトである。また、町の放牧地は、北へ二百五十キュビト、南へ二百五十キュビト、東へ二百五十キュビト、西へ二百五十キュビトである。聖なる奉納地に接する残りの地所の長さは、東へ一万キュビト、西へ一万キュビトである。それは聖なる奉納地に接している。そこから収穫した物は町の働き人の食物となる。その町の働き人は、イスラエルの全部族から出て、これを耕す。奉納地の全体は二万五千キュビト四方であり、あなたがたは、聖なる奉納地と町の所有地とをささげることになる。聖なる奉納地と町の所有地の両側にある残りの地所は、君主のものである。これは二万五千キュビトの奉納地に面し、そこから東の境界までである。西のほうも、その二万五千キュビトに面し、そこから西の境界までである。これは部族の割り当て地にも接していて、君主のものである。聖なる奉納地と宮の聖所とは、その中央にある。君主の所有する地区の中にあるレビ人の所有地と、町の所有地を除いて、ユダの地域とベニヤミンの地域との間にある部分は、君主のものである。なお、残りの部族は、東側から西側までがベニヤミンの分。ベニヤミンの地域に接して、東側から西側までがシメオンの分。シメオンの地域に接して、東側から西側までがイッサカルの分。イッサカルの地域に接して、東側から西側までがゼブルンの分。ゼブルンの地域に接して、東側から西側までがガドの分。ガドの地域に接して南側、その南の境界線はタマルからメリバテ・カデシュの水、さらに川に沿って大海に至る。以上が、あなたがたがイスラエルの部族ごとに、くじで相続地として分ける土地であり、以上が彼らの割り当て地である。―神である主の御告げ―町の出口は次のとおりである。北側は四千五百キュビトの長さで、町の門にはイスラエルの部族の名がつけられている。北側の三つの門はルベンの門、ユダの門、レビの門である。東側も四千五百キュビトで、三つの門がある。ヨセフの門、ベニヤミンの門、ダンの門である。南側も四千五百キュビトの長さで、三つの門がある。シメオンの門、イッサカルの門、ゼブルンの門である。西側も四千五百キュビトで、三つの門がある。ガドの門、アシェルの門、ナフタリの門である。町の周囲は一万八千キュビトあり、その日からこの町の名は、【主はここにおられる】と呼ばれる。』」

エゼキエル書48章1-35節

 

人は一人でいるのは良くない、と最初に仰られたのは神様。だから神様はその人・アダムに最高の助け手なるエヴァを備えて下さりました。そのように私たちは誰かと繋がりながら生きていくわけです。誰かに覚えられていて、助け助けられ、支え支えられながら。ただもっと大事なことがあります。そのことばを仰られた神様が共にいるということ。人は様々な理由で時にはなれていってしまうこともあります。しかし神様は共におられる。愛する我が子たるあなたを見捨てる事ができず、御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えられるほどにあなたを愛する方が。この方があなたを今日支え、守られ、養い、導いて下さっている。この方に委ねて良いんです。主はあなたを今日も待っておられるから。

 

さて、昨年11月ごろからずっと見てきましたエゼキエル書の分かち合いも最終回となりました。第1次バビロン捕囚でかの地に連れてこられたエゼキエルを通して、捕囚地にあっても神様が共におられ、ご自身の愛、栄光をもって支えられる約束など多くのことが語られ、やがて終わりの時に現れるサタンなどの勢力への勝利、そしてやがて来る新しい天と地について語られてきましたが、↑で最後に与えられる相続地について神様は語られます。

 

     

(やがて来る新しい天と新しい地、そこにある神殿の図とイメージ画)

 

↑の前の章で、栄光ある御座にイエス様が着座され、そこからいのちの川が溢れ流れる、その川の流れるところは癒しがある事、それはちょっとしたレベルではなく、泳げるほど豊かなほどイエス様から流れていることを見ましたが、それは地理的には一部に見えても、私たち一人一人を癒したい、生かしたい、その思い、愛の川は今も流れ、私たちを招かれているのでした

 

     

(聖なる奉納地・神殿からいのちの川が溢れ流れる様子)

 

その上でこの相続地の話が出てきているわけですが、前の章で大まかな相続地の場所、それに全てのイスラエル部族、また外国人、神様を求めるすべての人がここに招かれていることを告げられていましたが、今度は各部族、具体的にその場所を示されます。ブログにもおおよその位置を載せておきます。

 

(この48章で神様が示された相続地)

 

ここでかつてのイスラエル12部族の名前が挙げられていますが、「ダン、アシェル、ナフタリ、マナセ、エフライム(マナセとエフライムはもとのヨセフ族から派生)、ルベン、ユダ」、そして奉納地(神殿がある場所)があって、「レビ、ベニヤミン、シメオン、イッサカル、ゼブルン、ガド」となっています。神様は一つの部族さえ取り残すことなくその名前を挙げ、またそれぞれの部族に相続地を与えることを約束されました。このエゼキエルがこの幻を見ている、神様のことばを聞いている時には全部族は捕囚されています。バビロンの地にいるユダ族・ベニヤミン族、それにレビ族以外はエゼキエルからすればその後どうなっているか分からない状況です。ただ、散らされ、分裂されてしまった北イスラエルの部族もまた再び一つとされる、その彼ら一つ残らず取り戻す、その思いがここに込められているのではないでしょうか。↑の前の章で、イスラエル人以外の人たちも招かれていた記載、約束がありましたが、つまり願わくばあなたも取りこぼすことなく、世の様々な思い煩い、苦しみ、痛み、病、暗闇、サタンの手から取り戻す、その思いがここに込められているわけです「部族の名は次のとおり」という中に、取りこぼしはない、あなたを取りこぼし見捨てられない、という思いが。

 

それは実は、「ダン族」の名前がここにあることにも込められています。といいますのも、ダン族というのはダン族がカナンの地を相続して後にフェニキヤ人(ツロ・シドン)と交わり、彼らの影響を受けていち早く偶像礼拝を持ち込み、急速に他の部族と信仰を共にせずに堕落した、いやその偶像が他の部族をさらに堕落させていった大きなきっかけとなった部族です。それゆえにかわかりませんが、歴代誌という、バビロンに捕囚されたエズラが解放後に書いた歴史書簡があるのですが、この中にダン族の名前は除外されていました。また、やがて終わりの時についてイエス様が語られた中で、反キリスト・偽キリストが世界を破滅に導こうとしている時に守られるイスラエル12部族の中にもこのダン族の名前は挙げられていません

 

そんなダン族の名前が、↑の最後、やがて来る新しい天と新しい地が来るその時に名前が挙げられている、あなたもここにおいで、と。偽物の支配する、後には反キリスト、サタンの勢力などが跋扈するなかではなく、暗闇ではなく、↑で中心に据えられる神殿、聖なる奉納地、そこに着座される御子イエス様、そこからいのちの川が流れ生きる地に住みなさい、と招いて下さっているのです取りこぼしたくない、だから今帰ってきてほしい、やがてあなたの名前が天から消されることがないように、むしろそこにあなたの国籍がある事を覚えて、今帰っておいで、と招かれているのではないでしょうか。エゼキエルに予め語られたように、こうして聖書を通して私たちに語られながら今、あなたも↑の相続地の名前に加えたいのです

 

↑の一番最後のことば、「その日からこの町の名は、『主はここにおられる』と呼ばれる」ということばに注目してください。神様は、ここにおられるのです。「主」ということばは、ただの主人とか、神様とか、そういうレベルの話ではなく、昔いまし、今いまし、これからもい続ける方、という意味を持つ言葉でもあります。今も、神様はあなたに御手を伸ばされている今ここにいるんだ、ここに希望があるんだ、イエス様が今あなたと共に住まわれている、そこにこの町は、神様の御国が広がっていくんだ、そう最後に神様はエゼキエルを通して訴えます。死して後に、またやがて来る完全な御国にあなたを招くため、あなたの名前を憶えて。

 

神様は今日もあなたのことを忘れていません。あなたの名前をご自身の内に刻んでおられます。あなたを見捨てないために、御子イエス様に私たちの本来支払わなければならない罪の代価を身代わりに支払わせるために、私たちの罪を身代わりに背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせました。本来ならあり得ない事。イエス様も、私たちを見捨てて十字架から降りることだってしようと思えばできたでしょうに「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫びながら見捨てられた。神様も人を見捨てるのではなく、そのように御子イエス様を見捨てでもあなたを救うことを選ばれたのです。そして「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と赦しを懇願された、その彼らにはあなたの名前も含まれているのです。イエス様は十字架上で一緒に十字架に架けられた、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」と言って悔い改めた強盗に向けて、「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」と語られました。思い出すどころか、そんな死刑囚にさえ、私たちにさえこのことばをかけてくださり、天の御国に招き入れてくださるのです。私たちが主の御前に悔い改め立ち返るなら、私たちも今、今日イエス様と共におらせていただけるのです。

 

「その日からこの町の名は、『主はここにおられる』と呼ばれる」、今主イエス様はここにおられる。そこに私たちもいさせていただける、なんと幸いなことでしょう。この十字架から溢れ流れる命の川があなたに今日も注がれ、このいのちの源なるイエス様があなたを招かれているのですから。完全な新しい天と地はまだ先かもしれませんが、しかし今その日、イエス様があなたと共におられる日はここにあるのです。イエス様も、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」と復活後、約束されたのですから。私たちは今日このイエス様のもとに帰り、このいのちを受け取ろう。そしてこの川の流れに生かされ歩もうではありませんか。ここに癒しが、いのちが、御国が広がっていくから。主がおられる町、御国が広がり、願わくば全ての人が主なる救い主イエス様を救い主として告白して、この地がイエス様のいのちに満ち溢れ、本当の意味で回復していく事を私たちは祈り、またこの愛をもって仕えていこうではありませんか。エゼキエルに聞いたことを語るように仰られたように、私たちもこの希望を語る、この希望を握りしめ歩みたいものです、世の光として。