―毎日備えられている良い食べ物― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「『…神である主はこう仰せられる。内庭の東向きの門は、労働をする六日間は閉じておき、安息日と、新月の祭りの日にはあけなければならない。君主は外側の門の玄関の間を通って入り、門の戸口の柱のそばに立っていなければならない。祭司たちは彼の全焼のいけにえと、和解のいけにえをささげ、彼は門の敷居のところで礼拝して出て行かなければならない。門は夕暮れまで閉じてはならない。一般の人々も、安息日と新月の祭りの日には、その門の入口で、主の前に礼拝をしなければならない。君主が安息日に主にささげる全焼のいけにえは、傷のない子羊六頭と、傷のない雄羊一頭である。また、穀物のささげ物は、雄羊一頭について一エパ。子羊のためには、彼が与えることのできるだけの穀物のささげ物。油は一エパごとに一ヒンである。新月の祭りの日には、傷のない若い雄牛一頭と、傷のない子羊六頭と雄羊一頭である。穀物のささげ物をするために、雄牛一頭に一エパ。雄羊一頭に一エパ。子羊のためには、手に入れることのできただけでよい。油は一エパごとに一ヒンである。君主が入るときには、門の玄関の間を通って入り、そこを通って出て行かなければならない。しかし、一般の人々が例祭の日に主の前に入って来るとき、北の門を通って礼拝に来る者は南の門を通って出て行き、南の門を通って入って来る者は北の門を通って出て行かなければならない。自分の入って来た門を通って帰ってはならない。その反対側から出て行かなければならない。君主は、彼らが入るとき、いっしょに入り、彼らが出るとき、いっしょに出なければならない。祭りと例祭には、穀物のささげ物は、雄牛一頭に一エパ、雄羊一頭に一エパ。子羊のためには与えることのできるだけのもの。油は一エパごとに一ヒンである。また、君主が、全焼のいけにえを、進んでささげるささげ物として、あるいは和解のいけにえを、進んでささげるささげ物として主にささげるときには、彼のために東向きの門をあけなければならない。彼は安息日にささげると同じように、全焼のいけにえと和解のいけにえとをささげなければならない。彼が出て行くなら、彼が出て行って後、その門は閉じられる。あなたは毎日、傷のない一歳の子羊一頭を全焼のいけにえとして、主にささげなければならない。これを毎朝ささげなければならない。それに添えて、毎朝、六分の一エパの穀物のささげ物、上等の小麦粉に振りかけるための油三分の一ヒンをささげなければならない。これが主への穀物のささげ物であり、永遠に続く定めである。こうして、子羊や穀物のささげ物や油を、常供の全焼のいけにえとして、毎朝ささげなければならない。神である主はこう仰せられる。もし、君主が、贈り物として自分の相続地を自分の息子たちに与えるなら、それは息子たちのものとなり、それは相続地として彼らの所有地となる。しかし、もし、彼が自分の相続地の一部を贈り物として奴隷のひとりに与えるなら、それは解放の年まで彼のものであるが、その後、それは君主に返される。ただ息子たちだけが、相続地を自分のものとすることができる。君主は、民の相続地を奪って彼らをその所有地から押しのけてはならない。彼は自分の所有地から自分の息子たちに相続地を与えなければならない。それは、わたしの民がひとりでも、その所有地から散らされないためである。』それから、彼は私を、門のわきにある出入口から、北向きになっている祭司たちの聖所の部屋に連れて行った。すると、西のほうの隅に一つの場所があった。彼は私に言った。『ここは祭司たちが、罪過のためのいけにえや、罪のためのいけにえを煮たり、穀物のささげ物を焼いたりする場所である。これらの物を外庭に持ち出して民を聖なるものとしないためである。』彼は私を外庭に連れ出し、庭の四隅を通らせた。すると庭の隅には、それぞれまた、ほかの庭があった。庭の四隅に仕切られた庭があり、それは長さ四十キュビト、幅三十キュビトであって、四つともみな同じ寸法であった。その四つとも、回りは石の壁で囲まれ、石の壁の下のほうには料理場が作られていた。彼は私に言った。『これは、宮で奉仕をしている者が、民からのいけにえを煮る料理場である。』」

エゼキエル書46章1-24節

 

親は子が生まれる時、その前からでしょうが最大の良いものを備えようと思います。その子が大切だから。生まれて来てもそうでしょう。自分の時間も思いも、ある意味で赤ちゃんのために最大限捧げる。惜しむことのない愛を注ぐ。まあ、人のその思いには限界があるわけですがだから、神様からしたらなおのことです。神様は私たちが生まれる前から愛し、ご自身のイメージをもって似せてつくられました。生まれた後も今今日にいたるまで神様はいつもあなたの傍にいて、ご自身の良いものを現されていたはずです。あなたが生きるために、御子イエス様のいのちをあなたに身代わりに差し出されたほどに愛された神様が。この方が今日あなたをご自身の最高の内に招かれている。あなたはこの招きにどうこたえるだろうか。

 

さて、↑は紀元前にイスラエルがバビロンによって捕囚され、しばらく経ったBC573年、神様がエゼキエルの霊を引き上げ見せた幻、終わりの時に来る完全な御国、そこにある神殿の姿の話の続きになります。当時のイスラエルの民は罪を犯しバビロンに捕らえられていたわけですが、そんな彼らに神様はその門を閉ざすのではなく、開かれていました。それをエゼキエルに見せながら、やがて彼らと共に住まうこと、イエス様が再び来られ、ここに着座され、すべ治める、その涙をすっかりぬぐい取り、彼らの神となられることを示し、改めて大切な我が子をご自身のもとに招くのでした。人の手によらない神様の完全な神殿を見せながら、私たちのための贖いとイエス様がなられ、その身を引き裂かれた祭壇・十字架を示しながら、永久の神様の愛を、いのちを示しながら。

 

          

(やがて来る新しい天と新しい地、そこにある神殿の図とイメージ画)

 

なお神様は↑でエゼキエルに「神である主はこう仰せられる。内庭の東向きの門は、労働をする六日間は閉じておき、安息日と、新月の祭りの日にはあけなければならない。君主は外側の門の玄関の間を通って入り、門の戸口の柱のそばに立っていなければならない。祭司たちは彼の全焼のいけにえと、和解のいけにえをささげ、彼は門の敷居のところで礼拝して出て行かなければならない。門は夕暮れまで閉じてはならない。一般の人々も、安息日と新月の祭りの日には、その門の入口で、主の前に礼拝をしなければならない…」と語られます。

 

また門が閉ざされる、どういうこと?と思うところですが、神殿の門自体は開いているのですが、これは内庭の東の門、つまりその先にあるのはいけにえを捧げる祭壇・イエス様が私たちの罪の身代わりに身を割かれたしるしの祭壇、その愛がとこしえに続く約束の祭壇があり、その先に本殿たる至聖所・聖所があるわけですね。そうすると、ここを労働をする6日間は閉ざすということは神様は私たちを締め出すというわけではないことが見えてきます。

 

どうもこのところを見ると、労働する日は神様は私たちを締め出すよ、とかそういう風に見えてしまうのですが、これは安息日規定を思い出す必要があります。神様はかつてイスラエルの民に、私たちが幸せになるために語られた十戒の中で「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。―あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も―それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された」仰られていました。

 

つまり労働自体が悪い、というわけではなく、むしろ6日間は働いて仕事をしなければならない、とあります。あ、様々な事情で仕事ができない方もいるでしょう。しかしこれはそれぞれの役目をしっかりと果しましょう、ということでもあると思います。というのも仕事という言葉は「召し」という意味があります神様からあなたに任されたことを6日間はしっかりとする、その中で神様の栄光を現す、愛を現す、そのことが示されているわけですね。ただ、そうすると、労働をする6日間の内に神様がいない、というわけではなく、むしろその中に神様を求める、その中身神様の素晴らしさが現わされるわけです

 

イエス様も「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。人の子は安息日に『も』主です」と仰られていましたように、イエス様も普段の中に共におられます。イエス様は安息日だけ癒したわけではなく、いつでも出ていかれて癒され、教え、励まし、また養ってくださっていましたよね。イエス様がただ御座に座して座っているだけではなく、この東の門を通って私たちの所に来られ、また私たちを神様の祝福の内、本物の安息に引き上げてくださるのです。

 

正直、新し天と地が来た時に↑にあるように労働があるのかなどははっきりとはわかりません。私がこの幻を見たわけではないですし、解説者によっても意見が分かれますし。ただエゼキエルにあえてこの様子を見せることで、神様との関係を曖昧にして、仕事片手間に適当な神様との関係を持っていたイスラエルの民の問題を指摘しながら、本来神様の御もとから追放され、その関係が閉ざされてもおかしくない、その中で神様はなお彼ら、私たちの内にご自身を現して下さっているのです。その神様に、神様のくださる安息に、平安に、いや神様ご自身に心を向け、思い煩いも痛みも、罪も一切置いて神様のもとに帰ろうよ、と訴えるのです。そしてやがて来る本物の安息の日、彼らに扉を閉ざさず、私たちを招き入れる、その約束がこのことばに込められているのではないでしょうか。だから↑に毎朝の捧げものとあるように、私たちは日ごとにこの神様に希望を抱くよう招かれたのです。今その主があなたと共におられる、この神様が共にいて私たちに与えてくださっている本物のいのちに生きよ、と。

 

私たちは本来この神様のくださる本物の安息に入るなんてありえなかったんです。神様から離れ好き勝手に生きて、神様を神様ともしないで、困った時だけ助けを求めて…本来そんな罪ゆえに私たちは神様の安息、癒しなど頂くに値しないはずだったのですかし神様は私たちを愛するがゆえに見捨てられず、その閉ざされたはずの門を開いて私たちの所に来られました。↑にあるように君主の息子としてもう一度迎え入れるため、またあなたの相続地、良いものを奪い取らせず取り返すため、御子イエス様を私たちの罪の身代わりに贖いとして罰し、死なせたのです。あの祭壇、十字架の上で。

 

しかし3日目に神様がイエス様をよみがえらせてくださったことによって、死を死で終わらせず、このイエス様の十字架の御前に私たちが罪を悔い改め立ち返る時、私たちは君主の息子、神様の子として迎え入れられる、本物の安息の内に引き上げていただけるのです。いや、今もこの復活のいのちの内に私たちは生かされている、主は日々、このイエス様のいのちにあってよいものを備えて下さっている、食事を備え、私たちを養ってくださっているのですイエス様の十字架の死と復活によって私たちに閉ざされた扉は開かれ、今この本物のいのち、イエス様の住まわれる最高のいのちに生かされているのです。世の終わりまであなたがたと共におられると約束されたイエス様が今あなたのうちに栄光・素晴らしさを現して下さっているのです

 

↑で神様は「これは、宮で奉仕をしている者が、民からのいけにえを煮る料理場である」と仰られていますが、私たちはやがてこの安息の内、主と共に食事をする日が来ます。イエス様も「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」と約束され、ここに招くためにご自身のいのちをもって扉を開いて、本物の安息に招かれました。ご自身が屠られた小羊となられたイエス様によって。憐み溢れるこの主の食卓に、飢え渇いたあなたを、私たちを満たそうと今日も主があなたを待っておられます。世のもの、霊ではない、主の霊、主と一つとすべく「主と交われば、一つ霊となるのです」とパウロが体験的に知り、語ったように。

 

(神殿内の料理場)

 

あなたはこのイエス様の招きにどう応答しますか?仕事だ、今はそんなことを言っている場合ではないと扉を自ら閉ざしますか?イエス様が開かれたいのち、与えられた良いもの、恵みこれを求めずにどうしましょう。私たちはこのイエス様のいのちにあって開かれた、本物の安息に向けた日々を、主にあって生かされ歩もうではありませんか。今日もあなたの前に主が食事を備えて下さっている、世では与えることのできない恵みを。あなたはこれをいただいていますか?