―聖なる食事― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「彼は私を北のほうの外庭に連れ出し、聖域に面し、北方の建物に面している部屋へ連れて行った。その長さは百キュビト、その端に北の入口があり、幅は五十キュビトであった。二十キュビトの内庭に面し、外庭の石だたみに面して、三階になった回廊があった。部屋の前には幅十キュビトの通路が内側にあり、その長さは百キュビトであった。その部屋の入口は北に向いていた。上の部屋は、回廊が場所を取ったので、建物の下の部屋よりも、また二階の部屋よりも狭かった。なぜなら、これらは三階建てであり、庭の柱のような柱がないためである。それで、上の部屋は下の部屋よりも、また二階の部屋よりも狭かった。部屋に沿った外側の石垣は、外庭のほうにあって、部屋に面し、その長さは五十キュビトであった。したがって、外庭に面する部屋の長さは五十キュビトであった。しかし、本堂に面する側は百キュビトであった。これらの部屋の下には、外庭から入れるように、東側に出入口があった。聖域や建物に面している南側の庭の厚い石垣の中には、部屋があった。その部屋の通路は、北側の部屋と同じように見え、長さも同じ、幅も同じで、そのすべての出口も構造も入口も、同様であった。南側の部屋の入口も同様で、通路の先端に入口があり、東側の石垣に面し、そこから入れる通路があった。彼は私に言った。『聖域に面している北の部屋と南の部屋は、聖なる部屋であって、主に近づく祭司たちが最も聖なるささげ物を食べる所である。その場所は神聖であるから、彼らはそこに最も聖なる物、すなわち穀物のささげ物、罪のためのいけにえ、罪過のためのいけにえを置く。祭司たちは聖所に入ったなら、そこから外庭に出てはならない。彼らが奉仕に用いる服は神聖だから、それを脱いで他の服に着替えてから民の所に近づかなければならない。』彼は、神殿の内側を測り終えると、東向きの門に私を連れ出し、神殿の周囲を測った。彼が測りざおで東側を測ると、測りざおで五百さおであった。北側を測ると、測りざおで五百さおであった。南側を測ると、測りざおで五百さおであった。彼が西側に回って測りざおで測ると、五百さおであった。彼が外壁の回りを巡って四方を測ると、その長さは五百さお、幅も五百さおで、聖なるものと俗なるものとを区別していた。」

エゼキエル書42章1-20節

 

食事の時間っていいですよね。家族での食事、友人との食事、その中に会話があって、その日あった事や普段の様子を共に共有してともに喜び、また時には慰められ、励まされる。そうして心身ともに元気になって立ち上がり、次に向かっていく。そういえば、イエス様が人となってお生まれになった時、イエス様はよく共に食事をされていました。罪人と言われる人とさえ。神の御子イエス様と食事をできるなんて、なんて羨ましいんだろう、と私は考えてしまう。でもイエス様はそうして私たちの最も近いところに来てくださって、私たちをこの神様の喜びの内に、家族の中に招いて下さっていたのです。喜びの食卓に。やがて天で会えるその喜びの前味を今ここに現わしながら私たちを招かれたのです。神様にとってあなたは大切な子、その我が子のために御子イエス様のいのちさえ惜しまれない神様が。あなたは神様が今日あなたに注がれている愛をどれだけ感じ、喜んでいるだろうか。

 

さて↑は紀元前、イスラエルがバビロンに捕囚されている中でのBC573年に、神様がエゼキエルに見せた幻、終わりの時に来る完全な御国、そこにある神殿の姿を示されます。それで「神様が」エゼキエルを幻の内にこの神殿の所に連れてこられたわけですが、門を閉ざすのではなく、エゼキエルを受け入れ、神様の喜び溢れる外庭、そして内庭、そして本殿・最も聖い至聖所へと招かれました。ここにイエス様が着座され、すべ治める、その喜びの内に招かれていたのでした。神様が門戸を閉ざすのではなく開かれあなたをここに招かれている、何と幸いなことでしょう。

 

(新しい神殿のイメージ図)

 

それで↑で神様はさらにエゼキエルに、祭司の部屋を見せていきますもう一つは神殿の敷地の寸法も。今日もこれまでと同じように細かい神殿内の画像をブログの方に載せておきますので興味のある方はそちらもどうぞご覧下さい。また↑の前の門・外庭・中庭・至聖所などの様子は前日のブログを見ていただければと思います。

 

ということで、↑、門のところに立っていたひとりの人(明確には誰とは書いていませんが、恐らく彼の霊を引き上げて見せていることから、イエス様なのかな?)がエゼキエルを北のほうの外庭に連れ出し、聖域に面し、北方の建物に面している部屋へ連れて行きました。聖域は昨日見ましたが、収納スペースになっているようで、ここに神様の聖い、良いもので満ち溢れているようです。それは至聖所に隣接しているわけですから、神様の御側には神様の良いものが満ち溢れている、そこに私たちを神様が招いてくださったというのは本当に幸いなことですね。

 

(聖域)

 

神様は、ただいたずらに未来の、全てに勝利された後に来る御国、そこにある神殿の青図を見せているわけではないのです。40章から何がどういう風になっていて、サイズはこうで、というエゼキエルの記録が続いていますが、神様は彼にこの神殿の幻を見せるために高い山の上に連れてこられた時、「人の子よ。あなたの目で見、耳で聞き、わたしがあなたに見せるすべての事を心に留めよ」と仰られているんですよね。ただ未来にこういう神殿ができるよ、と視覚的に見せ、聞かせるだけではなく、これを心で受け留める神様の思いがここに込められているわけです。神様が遠い未来ではなく、この最も聖い神様の御側にあなたにいてほしい、神様が近くにおられる、その事を今ここで訴えられているわけですね。だから主の御側にいなさい、良いもので満ちているから、と招かれているわけです。聖域というくらいですから、あなたのいるところを、世の様々なものに満ちた場所ではなく、聖なる場所に変えてくださるわけです。

 

それで、その聖域に面した場所に、本堂の北(南にもあります)に面したところに、祭司の部屋がある事を示されます。祭司というのは神様に仕え、また民のために執り成しをする、要するに神様と人、民を繋げる役割がある人です。それで、その祭司の部屋は3階建てになっていて、2重になっているようです。そのサイズは、普段私たちにはなじみのない単位なので、一般的な単位になおしますが、1キュビト=53.2㎝、1さお=3.19mとなっています(当時のイスラエルのキュビトとも少し違います)。ですから、そのサイズその長さは53.2m、幅は26.6m、部屋の前の通路の幅は5.32m、長さは53.2m…となっています。正直な話、実際の構造は建築の専門家などでないと分からないレベルの話のようですが、神様は私たちの理解できない事であっても、神様が神様の御心にあってあなたの日々の中に何かを建て上げてくださるわけです。

 

(祭司の部屋)

 

では、この祭司の部屋にはどんな用途があるのか。↑で神様は「聖域に面している北の部屋と南の部屋は、聖なる部屋であって、主に近づく祭司たちが最も聖なるささげ物を食べる所である。その場所は神聖であるから、彼らはそこに最も聖なる物、すなわち穀物のささげ物、罪のためのいけにえ、罪過のためのいけにえを置く。祭司たちは聖所に入ったなら、そこから外庭に出てはならない。彼らが奉仕に用いる服は神聖だから、それを脱いで他の服に着替えてから民の所に近づかなければならない」と語られています。

 

ようするに、祭司たちがささげ物を食べる、ささげ物を貯蔵する、祭司の着る服を着替えたり保管したりする場所になっているようです。これだけを見るとどういうこと?と思いたくなるところですが、まず祭司が捧げものを食べる、ということは、神様の食卓に私たちを招いて下さっている、ということです。

 

神様はかつて預言者イザヤを通して「万軍の主はこの山の上で万民のために、あぶらの多い肉の宴会、良いぶどう酒の宴会、髄の多いあぶらみとよくこされたぶどう酒の宴会を催される。この山の上で、万民の上をおおっている顔おおいと、万国の上にかぶさっているおおいを取り除き、永久に死を滅ぼされる。神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。主が語られたのだ」と、まさに終わりの時、御国が来るその時に味わうその食事風景について語られました。この食卓に私たちを神様は招いて下さっているんですよね。脂の多い肉(天の御国でいただくものですから、良いものであり、健康面を気にする必要はありません)と良いぶどう酒による宴会が行われている、と。もう私たちは涙も拭い去られ、そしりも取り除かれる。まさに喜びそのものですね。

 

そういえば、イエス様も十字架にかかられる前夜、「神の国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません」と仰られていましたね。そのまさに、再び飲むその日が来るのです。その食卓に私たちを神様は招いて下さっているわけです。神様の御側で。その前味を、私たちがイエス様の御側にいる中で味わうことができるように、神様はイエス様を私たちの身近なものとして、罪を犯さない点を覗いて完全に人として生まれさせてくださり、住まわせてくださりました。そうしてこの天の食卓の喜びを私たちの内に味わえるよしてくださったのです。そういう意味でも、このエゼキエルを通して神様が見せている神殿の様子は、ただの青図ではないことがわかりますね。この神様があなたの傍にいる。あなたは?と問いかけられているわけです。あなたの中心にだれがいるのか?と。

 

さらに、ささげものが貯蔵されるとありますが、それは穀物のささげものと、罪と罪過のためのいけにえだけのようです。いけにえ、というと生々しく感じるかもしれない。ただそれが貯蔵されているということは、いつまでも罪が残る、ということではなく、その罪のためのいけにえとなったイエス様の赦し、恵みがそこにある、ということです。もっというなら、穀物の捧げものには油が加えられる、聖霊様が私たちの内に混ぜられるといいますか、住まわり、その聖霊様によって生きる、その事がここに示されているのではないでしょうか。ただこのイエス様の十字架によって私たちは神様の御側、その食卓に招かれているんだ、と。私たちの罪のために身代わりに十字架にかかられたイエス様がその身を割かれ、流された血潮を私たちが頂く時、私たちは生きるのです。そして今聖霊様が注がれて私たちは生きているそのイエス様の救い、愛は尽きることなく今ここにある事を示されている、これを受け取るように。

 

イエス様は遠く離れていません。祭司の部屋の用途の中で、祭司の服を着たままで外庭に出て、民と交わることができないことが示されていますが、それは、むしろ最も聖い服を着たイエス様がそのありようを脱ぎ捨ててでも人となって生まれてこられ、私たちの所に住まわれたということ、最も身近なところに来られたイエス様は遠く離れていないのです

 

イエス様は「聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのです」と終わりの時について語られましたが、ただの建物ではなく、夫のために飾られた花嫁のごとくにこれが神様から降ってくる、なんとすばらしいことか。その前味をイエス様を通して今私たちに現されたのです。このイエス様の十字架を受け取って、本物のいのちを得てほしい、主はあなたの身傍にいるから、この恵みを受け取り、また食べ、味わい生きるように。あなたをイエス様の花嫁として迎える神様があなたに備えたこの恵みを。

 

神様は↑の最後で神殿の敷地の寸法示されていますが一辺が1596mの正方形になっていて神殿の敷地全体は壁で囲まれている、となっていますが、まさに俗なるものと聖なるものを区別される、その聖なる場所に俗なる私たち、罪深いものをイエス様の十字架によって洗い聖め、招いてくださった、ここにいていいんだ、と神様の聖さで、良いものに満ちたところに。私たちはいつまでも神様以外のものに満ちたところに留まるのではなく、この命をかけて招かれたイエス様の御声に応え、主に帰ろう。もう悲しみの中に、また罪の中に留まってはいけない。主の癒しを受けよう。今ここにこの天の前味がその時広っているから。