「主の御手が私の上にあり、主の霊によって、私は連れ出され、谷間の真ん中に置かれた。そこには骨が満ちていた。主は私にその上をあちらこちらと行き巡らせた。なんと、その谷間には非常に多くの骨があり、ひどく干からびていた。主は私に仰せられた。『人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか。』私は答えた。『神、主よ。あなたがご存じです。』主は私に仰せられた。『これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。主のことばを聞け。神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。わたしがおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちの中に息を与え、おまえたちが生き返るとき、おまえたちはわたしが主であることを知ろう。』私は、命じられたように預言した。私が預言していると、音がした。なんと、大きなとどろき。すると、骨と骨とが互いにつながった。私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。しかし、その中に息はなかった。そのとき、主は仰せられた。『息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。』私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中に入った。そして彼らは生き返り、自分の足で立ち上がった。非常に多くの集団であった。」
エゼキエル書37章1-10節
この世の中、不思議なことでいっぱいです。多分この世の常識では説明がつかないこともたくさん。人のいのちなんて余計にそうでしょう。医者でさえも、誰かこのからだをつくった方がいなければこのような素晴らしいからだになどなりえない、と認めるほどです。私たちは神様によってつくられ、生かされているのです。神様が肉や骨に力を与える、血となり命を与えてくださる。私たちはこの神様に委ねよう。こんなことどうしたらいいんだ、神様に何ができる、と思うのではなく、神様がなして下さる計画に私たちは信頼しよう。神様が全てを生かして下さるのだから。御子イエス様のいのちをあなたに差し出してでも、あなたを生きたものにしようとしてくださった、この神様が今日あなたに肉付け息吹を吹き込まれたこの命を喜ぼう。
さて、↑はかつて紀元前、当時最強を誇っていたバビロン帝国(後にメドペルシャにとってかわられ、ギリシャやローマと次々に強国が出てくるのですが)により、イスラエル・南ユダ王国が捕囚された後、神様が預言者エゼキエルを通して語られた(↑が語られたのはBC585年1月9日、エルサレム陥落から4か月後)ことば・預言の続きになります。すでに第一次捕囚で連れてこられていた民も、エルサレム陥落の話を聞いて、彼らの心の内側、魂は悲しみでいっぱいになってしまっていました。しかし神様はその彼らに語りかけるのです。捕囚された彼ら、神様から離れ歩んでいた彼らをそれでも見捨てていなかったのです。神様ご自身がいのちをかけて彼らを守られる、神様が彼ら・私たちを耕し、種を蒔き、新しい霊を注がれる、新しい心を与え、彼らの内にもう一度回復を与えられることをここまで語られてきました。神様にとって彼ら・私たちは我が子・娘だから、お腹を痛め産んだ子、へその緒から離れようとも見捨てられず、惜しむことなく愛し育てるように、神様の愛は驚くべきほどに現されるのです。
さて、↑に話を進めますが、この37章から神様はバビロン捕囚からの解放を含む、イスラエル、また私たちの回復について語られていきます。そして神様がこの先に持っておられる計画についても。まず↑でこの時の出来事を「主の御手が私の上にあり、主の霊によって、私は連れ出され、谷間の真ん中に置かれた。そこには骨が満ちていた。主は私にその上をあちらこちらと行き巡らせた。なんと、その谷間には非常に多くの骨があり、ひどく干からびていた。主は私に仰せられた。『人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか。』」と語ります。
神様はまず、エゼキエルを谷間の真ん中に連れていきます。語るだけならそのまま語ればいい所、神様はエゼキエルをわざわざこの場所に連れて来て神様のご計画を見せます。こういうことは聖書の中ではしばしばあります。新約聖書で見ている使徒の働きの中でもピリポという人を出会わせるべき人に出会わせるため、聖霊様によって瞬間的に移動させられたこともありましたし、黙示録でもヨハネを天に引き上げ、神様のご計画・終わりの時に起こることを見せます。いずれにしても預言者に見せる光景というのは神様が見ている光景、そこに対して神様がどのように考えているのか、その強い思いを訴える時、そこに私たちの思いを引き上げるためにされることがあるようです。
あまり私たちがそういう特別な経験をする事は滅多にないかもしれませんが、神様の御霊様が私たちの心をどこかに導こうとしている時、何かを語られている時、そんなことを今聞いている場合じゃない、神様神様言っている場合じゃないと言って踏みとどまるのではなく、連れ出される神様の導きに私たちもついて行ってみよう。ここに神様があなたの内に何かを見せ、語られ、何かをなされるから。そこにはエゼキエルを連れ出した神様がいたように、あなたとも共におられるから。
ではこの谷間で神様は何を見せ、何を示されたのか。まずこの谷間ですが、ゼカリヤという預言者を通して語られたことばを見る限り、この谷間はバビロン、そしてその諸外国のはざまで倒れ、圧迫を受けているエルサレム・イスラエルの姿がここにあったようです。この谷底にあった干からびた多くの骨はその苦しみの様子をまさに示されていたわけです。
そこで神様は「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか」とエゼキエルに語られます。みなさんならこれをどう答えるでしょう。普通に、常識的に考えれば不可能です。実際バビロンによってエルサレムは多くの人のいのちを失いましたし、苦しんでいる。それに骨となったご遺体が生き返る?どう考えてもあり得ない。普通に考えると、それが答えです。そう、人の手でなどそんなことは不可能なのです。神様は何でこんな質問をしたのか。神様が最初から↑の後半で見せられるように生き返らせるというのなら、聞く必要もないでしょう。生き返らせられないのは不信仰だから、こんな骨だらけの状態で埋まってしまった、人生、日々、いのちが埋まってしまっているのはあなたの信仰が足りないからだ、と言いたい?そうではないのです。
この神様の問いかけ、よく見てください。「誰が」させるか、それを神様はここで述べられていません。エゼキエルよ、あなたにこれらを生き返らせられるか?と神様が問うているわけでもありません。いや、まあ正確には半分そうと言えばそうなのですが。
エゼキエルはここで「神、主よ。あなたがご存じです」と答えます。それはエゼキエル自身に出来ないことはあなたが一番ご存じのはずです、と彼は応えるのです。それは人にはできないこと、それは神様ご自身がご存じでしょう、と。しかし神様は、そうではない、神様にならどんなことでもできる、それが彼の思いなのです、答えなのです。
ある人は人間には何でもできる、と高慢になります。クリスチャンの中でもそういう人がいます。信仰があれば何でもできる、できないのはあなたに信仰がないからだ、と。でもそれらすべては神様からくることであって人の力ではありません。もしくは神様の御心ではないことを人の手でなすことはできないのです。自分のお心と、神様の御心は一緒とは限らない。自分のお心の方が神様の御心より正しいんだ、とするなら、それは神様あなたは間違っていると言っているようなもの。それこそ本当に信仰的?私にできない、神様がご存じのなそうとしていることを私たちは見ようとしているでしょうか、聞こうとしているでしょうか、求めているでしょうか。
神様はエゼキエルに「これらの骨に預言して言え」と仰られます。自分の思いをこれらの問題に向けて、このいかんともしがたい状況に言うように神様は仰られているのではありません。自分の心にある言葉を言うように言っているのでもありません。神様の御心、語られる言葉を信じ、語りなさい、預言しなさい、与られたことばを語るように仰られるのです。そこからすべてが始まるのです。エゼキエルに歩き回ってみるように言われた神様は、自分の感想、予想、自分の思いついた言葉を語り実行するように仰られたのではない、そこに働かれる神様が成そうとすることを見るように、今示されているのです。それを預かり受け取り、そのままに実行する(預言は行動することも伴います)、それを今神様は求められているのです。
この干からびた骨の生き返りについて具体的なところは明日、また分かち合いますが、私たちの体、骨、肉、それらを組み立てるのは人ではありません。私たちのいのちを組み立て、生きたものにするのは神様です。神様の思い、預言といいますか、ご計画によって私たちは建てられて、生きたものとなっていくのです。骨をどんなに自分勝手に並べても人にはなりません。神様の息吹が、神様の思いが、神様の全てが私たちに注がれて、神様のいのちによって私たちは生きる、生かされるのです。「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか」と神様が私たちに問うた時、私たちにはできないこと、でもそれは神様が成される時、神様のくださる本物のいのちに私たちは変えられる、古い自分が死んで新しい命に変えられる、生き返る、新しく生まれ変わるのです。
イエス様はある時、魂が干からびるように悩む人に向けて「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。…ことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです」と仰られました。それこそそれは人からくるのではないのです。神様のくださる、授けてくださった霊、愛、何より私たちのこれらの干からびさせた様々な問題、痛み、何より罪を洗い聖め、新しくするために、御子イエス様は私たちの所に来られ、その愛を惜しむことなく与えられました。ちなみに、先ほど紹介したゼカリヤ書ではイエス様がそれらを癒しに来られる姿をまさに語られていました。
そう、イエス様が私たちのこの干からびた骨をもう一度生き返らせるために、私たちの身代わりに死なれた、イスラエルでは火葬ではないので骨にはなりませんでしたが、死なれた。でも死を死で終わらせず、3日目に神様がよみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る時、私たちはこの復活のイエス様と同じ恵みに与らせていただき、新しい命をいただくのです。
あなたは、私たちは今日、誰によって、何によって生きていますか。神の御子イエス様があなたの身代わりに死なれてでも、あなたを今生き返らせようとしている。私が生き返らせる命ではない、このイエス様のいのちが生き返らせてくださったこの命がいかに素晴らしいか。私たちは今日、このイエス様の愛を受け取ろう、これに生きよう。自分のことばやお心によって組み立て生きるのではない、このイエス様のいのちによって新しくされていく日々を求めようではありませんか。ここに聖霊様の息吹が吹き溢れ、生き返る、神様のいのちが、愛が溢れることを祈り求めようではありませんか。