―あなたを建て直す新しい霊・心・食べ物― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「『…あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住み、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。わたしはあなたがたをすべての汚れから救い、穀物を呼び寄せてそれをふやし、ききんをあなたがたに送らない。わたしは木の実と畑の産物をふやす。それであなたがたは、諸国の民の間で二度とききんのためにそしりを受けることはない。あなたがたは、自分たちの悪い行ないと、良くなかったわざとを思い出し、自分たちの不義と忌みきらうべきわざをいとうようになる。わたしが事を行なうのは、あなたがたのためではない。―神である主の御告げ―イスラエルの家よ。あなたがたは知らなければならない。恥じよ。あなたがたの行ないによってはずかしめを受けよ。神である主はこう仰せられる。わたしが、あなたがたをすべての不義からきよめる日に、わたしは町々を人が住めるようにし、廃墟を建て直す。この荒れ果てた地は、通り過ぎるすべての者に荒地とみなされていたが、耕されるようになる。このとき、人々はこう言おう。【荒れ果てていたこの国は、エデンの園のようになった。廃墟となり、荒れ果て、くつがえされていた町々も城壁が築かれ、人が住むようになった】と。あなたがたの回りに残された諸国の民も、主であるわたしが、くつがえされた所を建て直し、荒れ果てていた所に木を植えたことを知るようになる。主であるわたしがこれを語り、これを行なう。神である主はこう仰せられる。わたしはイスラエルの家の願いを聞き入れて、次のことをしよう。わたしは、羊の群れのように人をふやそう。ちょうど、聖別された羊の群れのように、例祭のときのエルサレムの羊の群れのように、廃墟であった町々を人の群れで満たそう。このとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。』」

エゼキエル書36章26-38節

 

私たちの生涯には色んなものが備えられています。第一に家族、家族が与えられてその中で私たちは育ってきましたよね。そして食べ物、着るもの、友達…でもそれらを備えてくださる方、私たちの外側だけではなく内側まで含めてこれらを与えてくださる方、満たす方がいるから私たちが今日生きているわけです。あなたは今日、あなたの内を何で満たしていますか?虚しいもので満たしていませんか?もしくは痛みや悲しみとか、色んな思い煩いで満たしていませんか?何より罪で満たしていませんか?私たちのいのちを神様は取り戻すために、最高の良いもので満たすために、あなたのそれらを取り除き聖めるため御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えてくださった神様が、今日あなたに注がれているものを受け取ろう。

 

さて、↑はかつて紀元前に覇権を握っていたバビロン帝国により、イスラエル・南ユダ王国が捕囚された後、神様が預言者エゼキエルを通して語られた(↑が語られたのはBC585年1月9日、エルサレム陥落から4か月後)ことば・預言の続きになります。先に第一次捕囚で連れてこられていた民も、エルサレム陥落の話を聞いて、彼らの心の内側、魂は悲しみでいっぱいになってしまった。自分たちは誰に今頼ったらいいのか、どうしたらいいのか。

 

しかし希望はまだここにあった、神様がここにおられたのです。この時期の預言についてここまで見てきたように、神様ご自身は↑の前の箇所でも見ましたが、神様ご自身が見張り人・また羊飼いとなって、いのちをかけて彼らを守られる、と仰られました。いや、ただ守るだけではない、イスラエルの失われた地を、時を、彼ら自身を耕し、種を蒔き、いのちの息吹を吹き込まれ、回復させようとされていることを語られました。なぜなら神様にとって彼ら・私たちは我が子・娘、お腹を痛め産んだ子、へその緒から離れようとも見捨てられず、惜しむことなく愛し育てるように、神様はその愛を注ぐことをやめていなかったのです。

 

神様は語ることをやめません。なおエゼキエルを通して神様は「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。…わたしはあなたがたをすべての汚れから救い、穀物を呼び寄せてそれをふやし、ききんをあなたがたに送らない。わたしは木の実と畑の産物をふやす。それであなたがたは、諸国の民の間で二度とききんのためにそしりを受けることはない」と語られます。

 

神様が新しい心を「与え」てくださる、新しい霊を「授け」てくださる。実はこれがなければ私たちは生きられません。私たちの体って、張りぼてではないですよね。物と違って、心があり、魂、霊がある。これは神様が私たちに与えてくださったものであり、神様の霊が吹き込まれ生きたものと人はなった、なるのです。この世の何か怪しい、いるんだかいないんだか分からない、もしくは悪霊のようにあなたに悪いものをもたらそうとする霊ではなく、本物の神様の霊を授けるというのです。この霊によって生きる、神様のくださる霊によって生きるものとしてくださる、と。

 

以前分かち合いましたが、神様はまさにバビロン捕囚からの解放のことについて、預言者イザヤを通して「天を造り出し、これを引き延べ、地とその産物を押し広め、その上の民に息を与え、この上を歩む者に」神なる主が霊を授けると仰られたのです。その神様が、その霊を注がれ、「わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握り、あなたを見守り、あなたを民の契約とし、国々の光とする。こうして、見えない目を開き、囚人を牢獄から、やみの中に住む者を獄屋から連れ出す。わたしは主、これがわたしの名。…先の事は、見よ、すでに起こった。新しい事を、わたしは告げよう。それが起こる前に、あなたがたに聞かせよう」と仰られるのです。

 

この天地万物をつくられた神様がもう一度新しい霊を注がれる時、もう一度新しいあなたへとつくり変えられていく、この天地をつくられた方が、古い霊を追い出し、聖め、神様の産物、良いもので満たして下さるのです。失われてしまったイスラエルの地、彼ら・私たちの地、いのち、時、あなたが遣わされている場所、関係、そこに神様が注がれる霊によって回復されていく。神様がしっかりとあなたの手を握ってくださり、見守ってくださっているのです。神様が光を灯し、あなたをとらえるもの、暗闇から連れ出して下さる。世には見ない神様の恵みがあなたを覆うのです。

 

よく見ますと、「地とその産物を押し広め」とありますが、↑の預言と同じですよね。神様が私たちが心も魂も、飢え渇くことがないよう、神様の恵みを生み出す、増やすと言いますか、私たちの内に満ち溢れさせてくださるのです。かつて天地万物を神様の産物で、神様の恵みで満たされた、全てのつくり主であり、私たちのいのちをつくられた、私たちに魂を与えて下さったこの方だからこそ、あなたのことをだれよりもご存じのあなたの父なる神様だからこそ、あなたの痛みや悲しみ、飢え渇きを知っている、その神様だからこそ、あなたに必要なことを知っておられ、あなたを満たすことができるのです。

 

神様などいなくても十分満たされているから、と言う人もいるでしょう。ただ自分で満たしていたものはいつかは失われます。より頼んでいたものや価値観は時代と共に変わる、疲れていけば心はすり減る。満たされていると思っていて満たされていない。この空っぽの、ある意味で飢饉・自分を満たす食べ物がない、そんな私たちのうちに、この世の産物ではない、あなたのことを一番ご存じの神様が産物を、神様の恵みで、神様の全てで満たしたいのです。あなたの魂の底から満たしたい、本物の霊で、神様のいのちであなたを満たそうと神様は語られているのです。植物にしても、食べ物にしても畑にしても、全てに養分が必要なように、この神様がその養分となり、私たちに命をもたらして下さるのです。

 

今日神様の霊が注がれている。あなたの魂をもう一度神様の産物で満たし、生かそうと。↑で神様は「イスラエルの家よ。あなたがたは知らなければならない。恥じよ。あなたがたの行ないによってはずかしめを受けよ」と厳しいことを仰られていますが、むしろそのような神様から離れて自分の思うがままのもので満たしていた、それが神様のくださる恵みとはくらべものにもならない。その神様の恵みを知ったらこんなことに頼ってたのか、と恥ずかしい思いをすることかもしれない。でもそれを知って、神様を求める時、私たちの恥は取り除かれ、神様の産物で喜びに変えられるのです。

 

その神様の思いを↑の最後で「わたしが、あなたがたをすべての不義からきよめる日に、わたしは町々を人が住めるようにし、廃墟を建て直す。この荒れ果てた地は、通り過ぎるすべての者に荒地とみなされていたが、耕されるようになる。このとき、人々はこう言おう。『荒れ果てていたこの国は、エデンの園のようになった。廃墟となり、荒れ果て、くつがえされていた町々も城壁が築かれ、人が住むようになった』と。…わたしは、羊の群れのように人をふやそう。ちょうど、聖別された羊の群れのように、例祭のときのエルサレムの羊の群れのように、廃墟であった町々を人の群れで満たそう。このとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう」と語られます。神様はあなたの失われてしまったエデンの園のような最高の姿を取り戻し、建て直す、その為に神様が今もあなたを耕されているのです。

 

エデンの園、エデンの園は人がつくりだしたものではなく、神様がつくられたところです。神様が全てを備えてくださり、実らせ、与えてくださり、住まわせてくださった場所です。神様がその地を潤されていた場所です。一時的に苦難になったけど、元に戻るとかそういうレベルのことを神様は言っているのではない、神様がたてられる、神様が養われるいのちの内に招かれているのです。本来アダムたちはその罪ゆえにその最高の場所に住まうことは赦されなくなってしまった、しかし神様はそれでも見捨てられないゆえに、もう一度ここに連れ戻したいのです。エデンの園に住まわれていた神様が、彼らの内に住まわれ、エデンの園のように神様の全てで潤したいのです。ここに、失われた羊たち、彷徨い歩く私たちをもう一度連れ戻しに来られるのです。ただ、どんなに神様がそう呼びかけても私たちがこの呼びかけにこたえなければ意味がないのですが。

 

神様はあなたの恵みの年を回復させるため、あなたの悲しみを慰め、回復させるため、私たちのこの悲しみや痛み、思い煩い、何より罪によって、神様によって与えられたこのいのちが廃墟になってしまった、これを回復させるため、御子イエス様に私たちのこれらのものを身代わりに背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせたのです。私たちが負わなければいけない復讐、罪を、御子イエス様に負わせたのでした。しかし3日目にイエス様をよみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださるのです。ここから神様によるあなたの恵みの年が始まるのです。

 

神様が神様ご自身の恵みの内に、エデンの園に住まわせていただける。もう私たちはこの神様から離れてはいけない。イエス様にあって与えられた命を廃墟にしてはいけない。新しい霊、聖霊様で私たちの内を、いのちを、またこの地を満たしていただこう。ここに神様のいのちが、恵みが、全てが満ち溢れることを祈ろうではありませんか。あなたは神様のこの愛、恵みを受け取っていますか?