―騒がせている?喜び― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「彼らはアムピポリスとアポロニヤを通って、テサロニケへ行った。そこには、ユダヤ人の会堂があった。パウロはいつもしているように、会堂に入って行って、三つの安息日にわたり、聖書に基づいて彼らと論じた。そして、キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならないことを説明し、また論証して、『私があなたがたに伝えているこのイエスこそ、キリストなのです』と言った。彼らのうちの幾人かはよくわかって、パウロとシラスに従った。またほかに、神を敬うギリシヤ人が大ぜいおり、貴婦人たちも少なくなかった。ところが、ねたみにかられたユダヤ人は、町のならず者をかり集め、暴動を起こして町を騒がせ、またヤソンの家を襲い、ふたりを人々の前に引き出そうとして捜した。しかし、見つからないので、ヤソンと兄弟たちの幾人かを、町の役人たちのところへひっぱって行き、大声でこう言った。『世界中を騒がせて来た者たちが、ここにも入り込んでいます。それをヤソンが家に迎え入れたのです。彼らはみな、イエスという別の王がいると言って、カイザルの詔勅にそむく行ないをしているのです。』こうして、それを聞いた群衆と町の役人たちとを不安に陥れた。彼らは、ヤソンとそのほかの者たちから保証金を取ったうえで釈放した。」

使徒の働き17章1-9節

 

世の中様々な情報、考え方、価値観が溢れています。近年特に我こそ正義、と言わんばかりにそれを振りかざしたり、振り回されたり…でも本当に正しいことが見えない時代にもなってきている気がします。でもそれによって本当に大切なもの、ことを見逃したり、失うのはもったいない。結局何かに陥れられてしまう。でも、神様はそんな不確かなものではなく、あなたを愛するがゆえに、あなたに最高のものを与えたい、注ぎたいのです。御子イエス様を与えるほど、そのいのちを差し出してでもあなたをもう一度さいこうのあなたに回復させたい、とその愛を現しました。あなたをとらえる様々なものから自由とし、いのちを得させようと。私たちは命をかけて愛されたこのイエス様を求めよう。そのあなたの思いに主は応えてくださるから。

 

さて、↑は神の御子イエス様が人となって生まれ、多くの人に惜しむことなく愛を注ぎ、を教え励まし、癒され、私たちに本物のいのち、救いを与え続けた、それだけではなく私たちの重荷も痛みも、罪も全部身代わりに背負われ、十字架に架けられ、罰せられ、死なれ3日目によみがえられた後、新しい助け主なる聖霊様が約束通り降られ、教会が誕生してからしばらくしてのことです。このイエス様の救い・愛を、一人でも多くの人、全ての人に届けいのちを得てほしいと、全世界に届けるべく、聖霊様が多くの人の内に働かれながらパウロなど様々な人をあっちこっちに遣わしていきました。

 

そんな中、第2次伝道旅行が始まりました。ヨーロッパ方向に今回はパウロとシラスを聖霊様は遣わします。そこにテモテ、医者であり歴史家のルカも加わり旅が続きます。そして今ローマの植民都市、ピリピ(ギリシャ北部、エーゲ海最北端)へと進んでいきました。そこで占いの霊に取りつかれた女性や、神様を求めつつも本物の神様が誰なのか分からずさ迷っていた女性、ローマという支配の中悩む看守などと出会いながら、彼らの内に働かれる神様の姿に喜びを見出しながら彼らの旅は続き、今↑でテサロニケに到着しました。どうもここまで旅に同行していたルカはピリピの町に残り、前の章で見たルデヤと結婚したのでは、と言われています。

 

(今、⑨のピリピから160㎞近く離れた⑩のテサロニケに移動しました)

 

ちなみに聖書の中に、テサロニケ人への手紙というのはあるのですが、これはまさにここで出会った、教会に向けて書いたものになります。この地域は紀元前315年にマケドニヤ王カサンドロスがその奥さんのテサロニカの名にちなんで名付けた町だそうで、後にここがローマの属州になった時、テサロニケは州都となったそうです。ここは港として商業や貿易の中心地となって、ローマのエグナティア会堂に沿っていたことから交通の要衝となっていたそうです。

 

話を↑に進め、テサロニケの町についたパウロたちは、さっそくユダヤ人の会堂を見つけ、そこで聖書の話をしました。ユダヤ人たちですから、彼らは聖書をよく読んでいますし、やがて来るはずの救い主の預言についてもある程度は知っていました。ただその救い主が誰なのか分からなかったのです。いつ、その救い主が来るのか。パウロたちはその彼らに、曖昧な話をしなかった、彼らに最も必要なイエス様のことを伝えたのです。キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならないことを説明し、また論証して、「私があなたがたに伝えているこのイエスこそ、キリストなのです」と。

 

↑の暴動を起こしていた人たちの言い分、「世界中を騒がせて来た者たちが、ここにも入り込んでいます。それをヤソンが家に迎え入れたのです。彼らはみな、イエスという別の王がいると言って、カイザルの詔勅にそむく行ないをしているのです」という言葉を読んでみますと、彼らはローマの王をある意味で恐れていた。また神様の教えを捻じ曲げて、自分の地位や名誉を守ろうとしていたユダヤ人の宗教家たち、神様を信じていると言いながら自分が王、神であるかのようにふるまい、その自分の立場が失われることを恐れていた人たちがたくさんいたのです。その中で彼らは思い悩み、一体まことの王は、救い主はどこにいるのか求めていたのです。

 

聖霊様はパウロの内に語るべき言葉を今与え、恐れるべきものはこの世の支配者たちや、彼らを縛り付ける何かではない、そんなものを恐れる必要はないことを今訴えるのです。「キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならない」と。それが何?と思う人もいるでしょう。ある人は、そんなものはどこぞの誰かが死んだだけでしょう?というかもしれない。そうじゃないのです。ローマの王・皇帝も、神を信じるといいっていて人を苦しめるだけの宗教指導者も、あなたのためにいのちを身代わりにすることなどできない。

 

しかし、神様は彼ら、私たちを愛するがゆえに、私たちを救うため、私たちがそれらの支配にとらわれて、苦しむことがないように、私たちを取り戻すために、御子イエス様にそれら一切の苦しみを受けさせたのです。何より私たちを支配する罪、これを取り除くため、私たちの罪を御子イエス様に身代わりに背負わせ、十字架に架け、罰し、死なせました。そして3日目によみがえらせてくださったのです。このイエス様の十字架と復活のよって私たちは癒され、罪赦され、神様の子とされるのです。このイエス様の十字架と復活がなければ私たちはただ滅びゆくだけ、しかしこのイエス様の愛が私たちに示された、与えられたことによって私たちは生きるのです。

 

この方が救い主となられ、王となられた。この方の他に私たちに救いはない、でもこの命をかけて救ってくださったイエス様が私たちにはいるのです。世の勅令も、支配も、様々な思い煩いも、このイエス様のいのちの前に何もすることはできません。打ち壊すことはできません。このイエス様のくださったいのちに対して、↑のように暴動を起こしている場合ではありません。あなたのために苦しまれ、死ななければいけなかったイエス様が、それを決断され実行された、そのイエス様が今日あなたに注がれる愛があふれることを。イエス様の復活と同じ恵みに私たちもあずからせていただいている、この神様が今日あなたに成そうとしてくださることに信頼し歩もうではありませんか。むしろこのイエス様の愛が私たちの内に溢れることを祈ろうではありませんか。